隠しごととラヴソング。

 その日はいつもよりも少しだけ早くゲームセンターに着いてしまった。


 その所為だろうか。

 黒子さんの姿がなかった。


「……おかしいな」


 昼下がりのゲームセンターは、皆昼食を摂るために外に出ているから閑散としている。

 普段彼女が腰かけている筐体にも、一階のクレーンゲームにも、彼女の姿は見つからない。

 ゲームセンターの中を、ぐるり、と一周してから二階に上がる。

 彼女が来るまではコインゲームでもやって時間を潰そう。

 近場にあった筐体の椅子に腰かける。

 イヤホンを耳に挿し、久方ぶりに音楽に聴き入った。

 力強いギターの音色から始まる、そのバンドを一躍有名にしたアニメソングが鼓膜を揺らし始める。


「……違う」


 呟いて、アルバムの楽曲を送った。一曲先に送って、また送って、そしてまた送っていく。あの曲も気分ではないし、この曲でもない。

 違和感を覚えていた。

 歌詞も旋律も暗記している。

 そのはずなのに、何故か全く違う音楽に聴こえてしまう強烈な違和感があった。

 アルバムを閉じ、同じバンドの他のアルバムをリストアップして、最初期のとある

 アルバムを見つけた。

 液晶を叩く。

 聴こえてきたのは活動初期の、しっとりした感傷的な曲調の音楽だ。

 気分が上がるはずがない。

 思いながら耳を傾けていると、知らず、僕はその音楽の世界に引き込まれていった。

 ありきたりな、俗的な歌詞のラヴソング。

 けれど、どこか懐かしさを感じさせる、静かで穏やかな音色が心地良かった。


 ―――


 二階に上がると、やはりと言うべきか。コインゲームをして時間を潰している彼の姿があった。


 よほど集中しているのだろう。こちらの気配にはまるで気が付いていない様子だ。

 すこし驚かせてやろう。

 考えながら背後から忍び寄る。ゲーム画面を背後から覗き込み、山場に突入したところを狙って肩に手を伸ばす。

 がしっ、と。

 存外幅の広い、少年の肩を鷲掴む。


「お待たせ~。キミの黒子お姉さ——」

「ぬあぁっ!?」


 声と同時に、彼が筐体から跳ね上がった。

 その後頭部が、勢いよく顎に迫る。


「ごふっ」


 生物的で生々しく鈍い音と共に、私は床に転がった。


「黒子さん!?何してるんですか?」


 突然背後から声を掛けられて、またしてもコインゲームに熱中してしまっていた僕は素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。

 後頭部が何かに激突したかと思うと、背後では黒子さんが床をのたうち回って悶絶していた。

 助け舟を出そうにも未だ状況の理解が追い付いていない。

 僕がそうこう混乱している間に、声にならない声で啼いていた黒子さんの方が先に平常心を取り戻していた。


「うぅ……、顎痛い……」

「本当に何してるんですか」


 顎を抑えながら黒子さんは痛みを訴えていた。

 ため息混じりに、腰かけていた椅子を降りる。床にぺたんと座ったままの彼女に歩み寄り、手を貸そうとして。

 筐体の上に置いていた携帯端末と繋がっていたイヤホンのコードが引っ張られて、携帯が床に落ちた。そのまま床を滑った携帯は、黒子さんの前に転がっていく。

 床に落ちた僕の携帯を、彼女の視線が追いかける。

 眼前で止まった携帯を拾い上げて、


「アシカンじゃん。好きなの?」


 液晶に表示されていたアルバムジャケットだけでバンド名を言い当てて、彼女は僕に携帯を差し出してきた。

 否定する必要もないので、頷いておく。

 すると黒子さんは、ほう、と感心の声を上げた。


「すこし、外に出ようか。少年」

「え?金拳は?」

「いいから!そんなのいつでもできるでしょ!たまには違うところの空気も吸いに行くよ!」


 言いながら黒子さんは僕の手を引っ張る。

 面倒事がはじまる。そんな予感がした。


 彼女に無理やり連れて来られたのはゲームセンターからそう遠くはない所にあるファストフード店。

 店内は夏休み真っ只中の学生と家族連れで溢れていて騒がしかった。

 ポテトとドリンクの乗ったトレイを抱えながら空いた席に向かいつつ、黒子さんが上機嫌に言った。


「まさか君がアシカンのファンだったなんてね。あのバンド、今の若い子の間じゃかなりマイナーな部類になるんじゃないの?」

「マイナーだから聞いてるんですよ。みんなが知っている曲なんて、街を歩いてれば嫌でも耳に入ってくるじゃないですか。だからわざわざ時間を割いてまで聴こうだなんて僕は思いませんよ」

「逆張りってこと?キミらしいね」


 苦笑混じりに言いつつ、黒子さんは窓際のカウンター席に腰を下ろした。

 その隣に腰かける。

 すこし、近い。空調の効いた店内だからか、触れ合いそうになる程の距離に接近すると彼女の体温が鮮明に伝わってきた。

 僕の前に、とん、と優しくカップが置かれる。ストローの差されたカップの中身は、いつもの炭酸飲料だ。

 対して黒子さんはこの猛暑のなかホットコーヒーを注文していて、コーヒーフレッシュも砂糖も入れずに、そのまま口をつけていた。正直、普段の彼女からは想像できないほど大人びた所作に、僕は魅入ってしまっていた。


「で?どの曲が好きなの?」

「はい?」

「好きな曲だよ。アルバムでもいいよ。初期の不評アルバム聴いてたってことは結構なファンだよね」


 あのアルバム不評なのか。確かにバンドの曲としては全体的に暗くてしっとりとした曲が多い印象は受けたが。

 内心で納得して、突然向けられた問いの答えを僕は急ごしらえする。

 ゲームセンターで聞いていたアルバムから、とりわけ印象の強かった曲を表示して彼女に見せた。

 サビで劇的に盛り上がるわけでもなく、歌詞の意味も噛み砕かなければ理解できない曲だ。しかし、強く脳裏に残るメロディと、後のバンドの世界観との強い繋がりを感じるものだった。


「キミさ……」


 黒子さんは長い嘆息を吐いた。

 頭を抱え、首を横に振っている。

 趣味が合わなかったのだろうか。同じバンドが好きとはいえ、曲までもが完全に一致することはやはり稀なのだろう。

 そもそも容姿から察するに、彼女はビジュアル系やヘビメタの方が好きそうなものだ。ならばもっと激しい曲の方が好みだっただろう。

 ここは彼女の機嫌を損ねないように気を遣う場面だっただろうか。

 そんなことを思いながら僕が携帯の画面を閉じると、不意に、僕の前にトレイが丸ごと移動してきた。

 はて、と。僕が怪訝な視線を返すと、黒子さんは柔和に微笑んでいた。


「いいセンスしてるよ。あの曲、めっっっちゃエモいよね!分かってるじゃん。奢ってあげるから全部食べちゃいなよ」


 けどひとつだけは食べさせて、と。黒子さんは一本だけポテトを口に運んだ。

 受け取ったポテトをつまみ、口に運ぶ。


「他には?好きな曲とかないの?」


 やり取りは続いた。

 彼女が僕の好みの曲を訊ねてきて、僕はそれに答える。それに彼女は決まって「エモい」「超エモい」「わかってるね」と、決まり文句のように毎度同じセリフで共感していた。言語野が崩壊している彼女は、すこしだけ可笑しかった。

 そんなやり取りが何度か続いている内に、ただのオタク語りをしていたはずの時間は、推し曲の聴き合いになろうとしていた。

 あすすめの曲を聴かせるから、と黒子さんが携帯をポケットから出す。

 まさかそのまま垂れ流そうとしているのか。悪寒じみたものが背筋を走った。


「黒子さんイヤホンとかは」

「壊れててさ。このままで悪いけど……聴こえる?」


 言って液晶を向けられるが、音楽が再生されていることは分かっても周囲の雑多の所為で聞こえない。

 僕が首を横に振ると、黒子さんは僕のイヤホンを見やった。


「それ、こっちに繋いでもらえる?」

「いいですけど。僕にしか聞こえなくなりますよ」


 言って僕はイヤホンを彼女の携帯に繋ぐ。

 両耳にイヤホンを差し込む。

 その時だった。


「こっち借りるね」


 そんな声がして、彼女が僕の左耳に差されるはずだったイヤホンを奪い取っていった。

 行き先は彼女の左耳だ。

 右耳だけで音楽を聴きながら、僕は彼女を見やった。

 多分、これまでにないくらい動揺していたんだと思う。

 鼻歌混じりに曲を聴きながら、彼女は僕の視線に気づいて、


「どうしたの?顔、なんか赤くない?」

「ばっ……、んなわけないです。ちょっと、驚いただけです」


 言いながら顔を逸らす。イヤホンのコードは彼女にも向かって伸びているから、顔を動かすと、ほんのすこしの抵抗があった。

 次いでコードの緊張が緩む。後を追って、隣に体温が迫った。


「体調悪いなら今日はこれくらいにする?また明日も会えるんだし」

「いや別に……。体調が悪いわけじゃ……」

「じゃあなんでそんなに真っ赤なのさ。……さてはキミ、今ちょっとドキドキしてる?」

「……っ」


 図星だった。

 押し黙る。察しろよ、バカ。


「おーい、返事して?」


 見なくとも、にやけているのが分かる。

 コードが小刻みに揺れるから、年甲斐もなく赤面する僕を、彼女がからかっているのが伝わってくる。


「……気にしないんですね」

「ん?なにが?」


 小首を傾げ、彼女は椅子から浮かせた腰を下ろす。イヤホンが引っ張られて、僕も渋々顔を戻した。

 ため息をひとつ、口から零す。

 我ながら子供っぽい反応をしてしまったことを恥じた。

 彼女はまるで気にする様子はないのに、これでは僕だけが妙な勘違いをしているようでばつが悪かった。


「距離感。近くないですか……?」


 内で渦巻いていた感情を、言葉にした。

 この想いに。言葉に。彼女を傷つける意思はなかった。

 そのはずなのに、


「……そっか。やっぱり、キミそう思う?」


 イヤホンが抜かれて、振り子のように宙で揺れた。

 彼女を見やると、先程とは打って変わって酷く暗い表情をしている。

 キミ『も』。

 その言葉の真意を、僕は知っていた。


「大学の頃にも同じように言われたんだよね。……だから色んな人に勘違いされちゃったんだ。……そうだよね。キミも男の子だもんね。ごめんね、変な勘違いさせちゃってたら。気持ち悪かったよね」


 苦笑して黒子さんは席を立った。

 冷え切ったコーヒーを一気に飲み干して、僕と目を合わせないように顔を伏せながら、


「ごめんね、こんな暗い空気にしちゃって。もう出ようか。私、お手洗い行ってくるから。すこし待ってて」


 そそくさとお手洗いに向かって彼女は歩いて行った。

 後ろ姿を見送る胸中。

 すこし、胸の奥が軋むような音がした気がした。


「あの……」


 軋みの正体を探っていると、不意に声が向けられた。

 黒子さんのものではない。

 もっとあどけない、大人しく控えめな澄んだ声だった。

 声の主に視線を向けるとそこには、


小鳥遊たかなしさん……?」

「お久しぶり、葛谷くずやくん」


 クラス委員長の小鳥遊小鳥の姿があった。艶のある黒髪を編みこんで肩から下ろし、白いワンピースに身を包んでいる。目はまん丸で、輪郭もまだ幼さが残っている。

 その傍らには、見覚えのないポロシャツに眼鏡の似合う長身の青年がいた。彼氏……だろうか。

 僕の頭上の疑問符に気づいたようで、互いに会話の苦手な僕らの間に割って入るように青年が口を開いた。


「初めまして。僕は小鳥遊鷹鷲ようしゅう。小鳥の兄だよ。君が葛谷くんだよね。どうやって小鳥の機を惹いたのか気になってたけど、成程。素質はあるね」

「ちょっと兄さん……!」


 ほんのり顔を赤くしながら小鳥遊さん(妹)が口の滑った兄に釘を刺す。

 兄の方は小柄な妹のことを片手であしらって、僕に視線を移した。

 視線がかち合い、緊張が走る。


「キミ、今黒井さんと一緒にいたよね。どういう関係?恋人?」

「黒井……?」

「黒井黒子。彼女の本名だよ。で、どうなんだ」


 何故この男の口から彼女の名前が出てくるのか理解が追い付かない。

 僕の困惑を他所に、口は独りでに動いていた。


「貴方こそ、彼女の何ですか」


 声には、何故か怒気が籠っていた。

 男は暫時思考すると、懐から携帯を手に取った。画面を弾き、僕の前に携帯の画面を向けてくる。

 表示されていた写真に写っているのは、黒いスーツに身を包んだ大人達。

 その中には眼前の男の姿もあって、更に写真を事細かに見ていくと、一人見覚えのある人物の姿があった。

 厳密には僕はその人物のことは知らないが、同じ面影を残す人物を知っていた。

 写真の端にいた俯き加減な表情を、そっくりそのまま僕は間近で見たことがあるから。


「黒子さん……?」


 曰く、写真は男の勤務する会社の今年度の入社式のものだという。

 そこに彼女は映っていた。


 それはつまり、彼女は僕に嘘をついていたということになる。

 彼女は無職などではない。

 ただ単に、会社に行くことを拒んでいるだけだったのだ。


 ―――


 重たい溜め息を吐いて、鏡に映る自分の顔を見返した。

 暗い。

 気が沈んでいるのがこれでは一目瞭然だ。

 こんな顔のまま彼の前には戻れない。

 もういい加減に過去の失敗を引き摺るのはやめよう。

 決心と共に、扉を開いて席に戻る。

 けれど、その足は席に腰かけて私を待っているはずの彼の姿を捉えた瞬間に、音もなく止まった。


 覚えのある風貌の男が、彼と話をしていたからだった。


「なんで……」


 会社の同僚だ。

 何故そんな男が彼と話しているのか、理解が追い付かなかった。

 突然の事態に思考も未だに追い付いていなくて、その場から身動き一つ取れずに立ち尽くした。

 やがて彼が振り向いた。

 軽蔑と嫌悪が込められた、拒否の眼差しを向けられた気がした。


「黒子さん……、この人が黒子さんに話が——」

「ごめん。今日は先に帰るね。ほんと、ごめんね」


 彼の言葉を遮って、店を飛び出した。

 背後から駆け寄って来る足音がしたけれど、振り切って、私は逃げた。


 その日、自宅に戻ってからのことはよく覚えていない。

 脳裏を駆け巡る不安と恐怖に押しつぶされそうになって、やめたはずの薬を何錠も何錠も飲んだことは覚えている。


 夕暮れ時だったろうか。

 部屋の片隅で膝を抱えて蹲っていると、不意にチャイムが鳴った。

 重たい体に鞭を打ちながら、恐る恐る玄関を開ける。

 立っていたのは赤い制服の配達員で、他人と顔も合わせるのも嫌になっていた私は一言も言葉を交わさずに押印だけして扉を閉めた。


 書類の発送元はよく知る会社の名前だった。

 封を切って中身を取り出し、吹き出すように私は嗤った。


「ははっ……」


 中身は、解雇通知書だった。

 噓から出た実と言うべきなのだろう。


 私は、本当に無職になってしまった。

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