勝敗と、これからのカタチ。
どんな顔をして、彼に会えばいいんだろう。
昨日逃げ帰ったことを謝りたくて。気が付くと私は、いつものゲームセンターの前に立っていた。
胸中に込み上げてくるのは、恐怖心と羞恥心と、そして自責と自己嫌悪。
重たい溜め息をひとつ零してしまって、つい気を紛らわせたくなる。自販機の隣に腰を下ろし、煙草を咥えて火をつけた。
はぁ、ため息混じりな煙を吐き出す。どんなに重く深い溜め息を零しても、肺の奥から出ていくのは呼吸器の健康寿命だけ。ヘドロのように胸の奥に詰まったものは、煙草をもってしてもなかなか外には出ようとしなかった。
悶々と思考を巡らせながら、頭上の蒼天に聳える入道雲を眺めた。
そうやってどのくらいの時間、私は上の空になってしまっていたのだろうか。
気が付くと、煙草はもう吸えなくなるほど小さくなってしまっていた。もう一本、箱から取り出す。
けれど、火を灯そうとしたその手は、不意に向けられた声に遮られた。
「黒子さん……?」
ロウガ君だ。
声には微かな安堵の気配があったように思う。
「……やっ。おはよ」
あくまで平然を装った。
昨日の一件を気にしていることを悟られたくなかった。
「……」
彼は黙り込んでいる。
当然の反応だろう。
昨日何の説明もなしに逃げ帰った分際で、こうもけろりとされていては、堪忍袋の緒も切れるというものだ。
「あの……」
声変りが近いのだろう。ほんの少しだけ低い、けれどまだ幼さが残る声音だ。
少し目を伏せ、ひとつ息を置く。
やがて視線が真っすぐに向けられる。
その日の彼の双眸は、何か固い決意に満ちていた。
「金拳、やりましょう。今日こそ勝ってみせますから」
―――
一六五戦目。
その試合を終えた僕の筐体の画面の中央では、念願の『youwin!!』の文字が金色に光り輝いていた。
僕は、ついに黒子さんに金拳で勝利したのだ。
終始彼女の動きを先読みして翻弄し掴み取った勝利は、間違いなく実力でもぎ取ったものだった。
ついに勝利したのだ。
これでやっと、どうしてあの時彼女が僕のことを孤独だと思ったのかを問える。
そのはずなのに。
何故か、胸の奥には靄がかかったような得体の知れない感情が居座っていて、僕に勝利の味を愉しむことを許してくれなかった。
「強くなったね。いやぁ、ストレート負けとは参ったね」
筐体の向こうから、敗北したはずなのにどこか痛快に黒子さんが言う。
覗き込むと彼女は僕から視線を逸らした。
そのまま立ち上がって、わざとらしく彼女は身体を伸ばす。
「疲れちゃったし、すこし外で休もうか。煙草吸いたくなってきちゃった」
こくり、と頷いて返す。
試合で僕が使った裏コマンドや立ち回りのことを長々と話しながら外へ向かう黒子さんの後を追う。
その間。
彼女は、僕の目を見てはくれなかった。
―――
黒子さんが煙草を吸う傍らで。
僕はいつもの缶ジュースを口にしながら、夏空のなかに聳え立つ入道雲を眺めていた。
気が付けば、夏休みはもう半ばに差し掛かろうとしていた。
黒子さんと出会ってからは二ヶ月あまり。
汗ばんだシャツの襟を煽って、思考した。
これからどうしようか。
ふと、それを遮るように黒子さんが口を開いた。
「聞かないの?」
それは、どちらのことを言っているのだろう。
二ヶ月前の質問の真意についてなのか。あるいは、昨日彼女が逃げ帰ってしまったことと、彼女が僕についていた嘘に対するものなのか。
暫時、思考を巡らせる。
が、答えは向けた視線の先にあった。
伏せられた彼女の目は、先刻の問いが後者であることを物語っていた。
「あの……、昨日は」
彼女の意思を汲み取って、疑念を口にしようとした。
けれど、何故か言葉は最後まで紡がれない。
言葉を喉の奥に詰まらせ口を噤んだ僕を見かねて、黒子さんは微かに微笑んだ。それはまるで、裁かれるのを心待ちにしていた罪人のような穏やかな笑みだった。
「多分聞いたかもしれないけど、私本当は無職じゃなかったんだ。じゃなかったっていうのは、昨日解雇通知が届いて本当に無職になっちゃったからなんだけどね。……一応、これだけは言っておきたくてさ。ごめんね、嘘ついてて」
声は、いつになく弱々しい。
「自分でもわかってはいたんだよ。会社に行かなくちゃいけないって。でも、行けなかった。私の人生このまま仕事の為だけに消費されていくんだって思うと途端に怖くなって、余計に会社に行けなくなって。キミに嘘ついてたのは、後ろめたさがあったから。自分が社会からはじき出された人間なんだって思いたくて、咄嗟に無職なんて言っちゃった。……最低だよね、子供だよね。こんな、我が儘で身勝手なことって」
どう答えれば、彼女の痛みを分かってやれるのだろう。
脳裏でそんな事を考えながら聞き入っていたのだが、彼女がそこまで胸中の想いを吐露したところで彼女が欲しかった言葉を理解できた気がした。
「……ですね。最低です。無責任もいいところです。大人がやる事じゃない」
吐き捨てられた侮蔑を受けて、彼女の視線は僕に向けられた。
苦笑混じりで下手くそな、吐き気を堪えるような青ざめた表情をしながら、黒子さんは言った。
「だ、だよね。……やっぱり私、無責任だよね」
涙ぐんだ目を泳がせて。自責と自嘲の勢いそのままに。
「ごめんね。こんな長々と話し込んじゃって。金拳で勝ったんだし、教えてあげるよ。あの時のこと。そうしたら、私はもう帰るね」
言わせてはいけない。このまま言わせてしまったら、彼女はそのままどこか遠くへ行ってしまう。そんな予感がした。
そう脳裏で警鐘を鳴らす自分がいた。
彼女にこれ以上言わせてはいけない。これ以上、繋がりを無くすような真似をさせるわけにはいかない。
だから、
「あの時ね——」
「そういうのいいです。金拳で勝ったからとか、そういうの。もうどうでもいいです」
言葉を遮られた黒子さんは目を見開いている。
僕が放った言葉の意味も、何度か反芻した後でやっと理解できたようだった。だんだんと目には怒気に似た荒々しい感情が浮かび上がる。
「それじゃあ意味ないでしょ。君は何の為に私と対戦してたの」
「意味とかいらないです。……僕は、黒子さんとゲームできるのが楽しかった」
初めて打ち明けた本音。
向けられて黒子さんは押し黙っている。僕のことを突き放す為の言葉を喉の奥で研いでいるようだが、それを声にすることはない。飲み込んで、彼女は僕の言葉を待っていた。
「はじめはあの時の事を聞く為でしたけど、途中からはそんなことどうでもよくなってました。黒子さんとゲームするのが好きだから、僕はこのゲームセンターに通ってたんです」
「……でも、私は嘘つきだったんだよ」
「今は本当に無職じゃないですか。無職じゃないですよ。噓なんかついてないです」
「結果論じゃん、そんなの」
くすり、と。その日初めて彼女が笑った。
乾いた、やはりどこか物憂げな笑みだけれども。確かに、笑っていた。
よかった。
彼女の微笑に、心の底から安堵している自分がいた。
「でも、せっかく勝ったんですし、ひとつだけ僕のお願いを聞いてもらいますよ」
「……うん」
子供のような拙い肯定。
横目にそれを見やって、僕は胸の奥に隠していた感情を言葉にする。
すこし気恥ずかしさもあったけれど、彼女とゲームを出来なくなる恐怖に比べれば随分些細で幼稚な羞恥心だ。
「明日も明後日も。ずっと、僕と一緒にいてください」
返答はない。
ひとつ、ふたつと。互いに沈黙を重ねていく。
それが暗黙の了解だったと気が付いたのは、長い——長すぎる沈黙があった後で、彼女が顔を逸らしたからだった。
「黒子さん?」
覗き込みながら訊ねる。
彼女はやはり、僕の方を向いてはくれない。
けれど、彼女のその耳が真っ赤になっていることに気が付いてしまう。
「それってさ、そういう意味で言ったの?」
「そういう?」
「だからほら、それはあれだよ……!れんあいとか、すきとか……のそういう」
「んなっ——」
言葉の綾。というよりも言葉足らずだった。
あくまでゲーム仲間として一緒にいてほしい、という意味合いで伝えたつもりだったが彼女には『そういう意味』に聞こえてしまっていたようだった。
訂正しなくては。
僕と彼女はそんな間柄ではないし、今後それが発展することもあり得ない。
思うほどに。この関係が変わってしまうことが怖くなった。
「そんなわけないじゃないですか。だいたい、僕たちいくつ歳が離れてると思うんですか」
「だ、だよね!そんなわけないよね!私無職だし」
互いに平常心を取り戻す為に言葉を並べていた。
距離感を確かめるように。
認識を確かめるように。
交わされた言葉に棘なんてひとつも有りはしない。
そのはずなのに。
胸の奥が、ちくり、と痛んだ気がした。
その日はそのまま自宅に戻ることにした。
彼女とあの空気感のまま時間を共にするのが、すこし、気まずかった。
―――
夜。
ベッドの上で横になりながら、携帯でネットニュースを眺めていた。
殺人事件や汚職事件を言及している殺伐とした全国記事。スポーツ選手の凱旋を祝い、活気に満ちるスポーツ誌。地域の花火大会を宣伝しているローカル誌。
そこで画面を弾くのを止めて、ローカル誌のページを開いた。
花火大会。
最後に行ったのはいつだったろうか。
たしか小学五年生が最後だった。あの時はまだ、父さんも生きていたんだっけ。
帰りの車のなか。父さんに、母さんと結婚することになったきっかけを聞かされたのをよく覚えている。父さんと話したのは、それが最後だったから。
母さんの浴衣姿に感動し、勢い余った父さんがプロポーズしたらしい。
その頃は父さんも母さんもまだ高校生だったけれど、母さんはそれに快く了承して、それから付き合うことになったと聞かされた。
そして翌朝、仕事に向かう道中で父さんは事故に巻き込まれ、帰宅した頃には父さんは小さな箱の中に収まるほどの大きさになっていた。
あの年の花火大会を最後に、僕と母さんは不思議と花火大会そのものを避けるようになってしまっていた。
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