ベガの身代わり

砂々波

第1話

眠る夜露に絶えず星が降っている。夏の大三角が無慈悲に俺を見下ろしている。

一等星のスポットライトが右腕を照らす。

理解ってる。言われなくたって。

夏休みも終わりかけの8月。

父親を殺した。


荒れる呼吸を飲み、冷たくなった指で数字を打った。静寂に響く音波。

[千歳?どうした?]

非日常に響く日常の象徴。

夏なのに、氷みたいに固まった喉を嚥下によって砕いた。小さく息を吸い込み、吐き出す。

「…父親を刺した。」

自分でも驚く程、落ち着いた声だったと思う。彼は、京は、何も聞かなかった。

ただ、コンマ1秒くらい黙った後、電話口にがたがたと物音を走らせ、焦った様子で待ってろ。とだけ言い残した。

乱暴に切られた電話から再び酷く冷たい音波が流れる。


京(けい)は俺の幼なじみに当たる親友で、小、中、高校生、どの記憶をとっても俺の隣には京がいた。まさに目と目でものが言える関係だ。と思っている。


ガチャ

インターホンが鳴らされることはなく、大袈裟に開かれたドアが来客を知らせた。

「…親父さん、息は?」

途切れ途切れの呼吸に、小さく首を振った。

気づいた時にはもう父の息はなかった気がする。握りしめていた包丁が彼の腹に落ちても、悲鳴一つ上がらなかったから。

「知らなかった。人を殺して、最初に来る感情が恐怖でも、焦りでもなく、安堵だって」

独り言のように吐き出した言葉が、頭の中で繰り返される。安堵。安堵。安堵。

次第に俺の心には焦燥が植え付けられ始めた。父親を殺したからではない。親を殺しても罪悪感が一つも湧かないことに、焦ったんだ。

南に登ったアルタイルと目が合う。

京は静かに俺の肩を抱いた。

宮瀬京。

父親の虐待を知る、唯一の人物。


「正当防衛にはならないよね。」

「難しいだろうな。それに、こんな村だ。千歳に良くない噂が立つ。」

希薄な希望は、彼の返答であっさりとその姿を失うことになった。確かに正当防衛がなんであれ、俺が人殺しのことに変わりはない。

タッタッタッ

『正当防衛:防衛に必要な最低限の行動』

電子の集合体から飛び込んでくる情報に目が眩みそうになった。殺人が必要最低限に値するとは、到底思えなかったからだ。

「親父さん、出かけることなんてそうそう無かったんだろ?」

京がどこからか取り出したビニールを床に敷いた。

うん。とだけ返事をすると、京は俺に向かって力強く頷いた。

「大丈夫、そう簡単にバレはしない。」


俺が5つの時、母親は不慮の事故で亡くなった。雨の日に谷に滑り落ちたのだ。

幸せな家族像は一瞬にして崩れ去り、精神を病んだ父親はやがて仕事を辞めた。母の保険金で生活を送るようになり、次第に俺に暴力を振るうようになった。村人の目が怖いのか外出することもほとんど無くなっていった。母が生きていた時はあんなに真面目な父親だったのに。

いや、真面目が故におかしくなってしまったのかもな。もし母親が───

「…歳…千歳?」

気づけば目の前に青い繊維に包まれた物体が転がっていた。額に汗を走らせながら、京がビニールを引っ張っている。

その光景にふと、昔の記憶が蘇る。

京を差し置いて一人物置へ走った。

古びた蝶番が久々の来客に驚嘆の声を上げる。錆びた自転車をどかし、鉄の棒を掴む。引き出すと、それはカラカラと歪な音を立てながらも斜面を転がった。

「荷台か、よく見つかったな」

声がした方を振り返ると、丁度ブルーシートの端がこちらを覗いていた。

「山までなら運べると思う」

山。というのはこの自宅の裏方面にある少し小高い森のことだ。この森を突っ切ると宮瀬家の畑に着く。ほぼ宮瀬家の私有地のようなものだから、誰も故意に近づいたりはしない。隠し事をするにはうってつけの場所だ。



ガツンと手に振動が伝わる。

小石が詰まった車輪がキィキィと喚いている。取って。と

「ここまでだな。千歳、足を持て」

よし、と息をついて彼は詰まった車輪の反対側に回り始める。

「足」がどちらを指すのか俺には全く分からなかったが、彼の反対側を持つと中で何かがズレたような気がしたので、多分こっちが「足」なんだろうと思った。血が抜けたせいか、持っている方が足のせいか、父親はやけに軽かった。

いつか見たドラマのように湿った空気に雨が降ることも、終わりを探す逃避行を計画することもなかった。

氷のような月が綺麗な夜だった。


「ここまで来たらいいだろ」

息を切らした京が、どさりとブルーシートを投げやった。硬直した足に一気に質量が降りかかる。肩が外れるかと思った。やっぱり父親は軽くなんかなくて、足を持っていたせいだったとわかった。

「どこに埋める?」

俺が候補として大きな杉の木を指し、京を振り返ると、彼は何かを深く考え込んでいる様子だった。

「…京?」

その顔がやけに冷静で、俺は声を掛けざるを得なかった。そうでもしないと、彼が急に遠くに行ってしまうような気がして。時々彼が何を考えているのか分からなくなる時がある。その度に俺はちょっとした恐怖に駆られることになるのだ。

いつか彼も、この村を去る時が来るのだろうか。その時隣には___________

「…いや、埋めるのはよそう。もう日が登る。今は木の枝を被せて…そうだな三日後にまた来よう。」

心に染み付いた焦燥が目覚める音がした。

「三日後?明日じゃだめなの?」

「三日後が新月なんだ。大丈夫、誰も山に入る用事はない。ほら千歳も枝を被せて。」

俺の肩を揺らしながら、そう一気に言い終わると彼は膝を落とし、周りの枝や木の葉をかき集めた。

(何か焦っている?)

よく分からないが、こんな彼は初めて見た。


「夜明けだ、行くぞ。」

東の空が薄明かりに照らされている。

京は俺の手を引いた。まるで、俺を早くここから追い出したいみたいだ。

青い繊維がこちらを覗いている。

日を反射するそれが、目に眩しかった。


「じゃあね。」

「あぁ、」

午前4時。何とか自宅前にたどり着いた。

田舎のじじばばの朝は早いから心配したけど幸い、俺たちが誰かに見つかることはなかった。

「千歳は何も心配するな。全部上手くいく」

「…ありがとう。京もゆっくり休んで」

翳した手に、京の手が重なったところで静かにドアを閉めた。

深い森の匂いから一変、部屋は鉄の匂いに満ちていた。

血の染みたカーペットは捨てたのに。

「…」

いや、これは部屋じゃない。

「…」

俺か。





―2日後-

まだ4時だって言うのに、目が覚めてしまった。何となく誰かに起こされた気がした。当たりを見回し、当然、異変がないことを確かめ布団の端を引っ張ったその時。

───

「…!」

嫌に聞き覚えのない音が、辺りを包んだ。瞬時にはねた鼓動は収まることを知らず、再び焦燥の尾を踏まんとしている。

いや、違う。ここじゃない。違う。

───。

そんな望みとは裏腹に、耳を劈くような怒号は家の前を終着点としていた。


[ピンポーン]

「…」

チャイムが鳴り終わらないうちに、インターホンの画面を覗いた。

ドクドクと脈打つ心臓が痛い。

[館浦警察署の者です。千歳君いるかなー?]

嫌に間延びした声が、俺を探している。

木々に赤色の光を投影するモノクロ。

影に潜む大人達。

(居留守を使う?京は無事?京ならどうする?)

いっそ、裏口から出て、京と逃げようと思った。あの日見たドラマのように、くだらない終わりのある逃避行でも、二人なら様になると思った。

でも、俺は見てしまったんだ。

「…京?」

俺は外に飛び出していた。

縺れる足も、霞む視界もお構い無しに、

嘘だと信じたかった。

「…」

彼がこちらを見た。

モノクロに溶け込む彼が。

「京!」

「おっとっと。」

寝起きで、裸足の俺は京に飛びかかろうとした所をあっさりと捕まってしまった。でも、支えられた手に錠が付けられることはなかった。

「千歳君だね?君のお父さんが裏山で見つかったんだ。…亡くなったよ。」

もったいぶったように警官が呟いた。

「…犯人は分かっているんですか?」

分からない。隠せていただろうか。

どうも声が震えて仕方なかった。

京の顔は見えない。太った警官が邪魔だ。

「君のお友達の宮瀬君が、自首しに来たよ」

「…は?」

月並みの表現だが、頭が真っ白になった。

相変わらず、京は見えない。

京が?殺した?

今日は何日目?

いや、違う。

違う?

「辛いとは思うけど、_______________」

警官が、何かを話している。

よく分からない。耳鳴りがする。いや、蝉?

解き放たれた上半身を、静かに上げた。

小石を踏みつけ、走り出すモノクロ。

京は、












笑っていた。









[続いてのニュースです。𓏸𓏸県𓏸𓏸村の山中で死体が遺棄される事件が発生しました。容疑者は───]

カチッ


「宮瀬京の面会に、」

「こちらへどうぞ。」

彼は、本当に呆気なく捕まってしまった。

自首のせいか、警察が俺を疑うことはなかった。

現場が宮瀬家の私有地であること、現場から京の指紋しか見つからなかったことが決定的な証拠になったと後日訪ねてきた警察に聞いた。宮瀬家は噂が経つより早く、あの村を去っていった。京が連行された翌日に謝罪に来たおばさんの顔が、酷くやつれていて、

地べたに擦り付けられる額をただ見ていた。

「顔を上げてください。」とも「大丈夫です。」とも言えなかった。

口を開けば吐いてしまいそうだったから。

罪悪感なんて綺麗なものじゃない。これは、

安堵だ。

ガチャ

警官によって開かれたドアの先に、彼はいた。アクリル板一つ挟んで静かに座っていた。シワの伸ばされた制服に身を包み、少し隈が出来た顔をこちらに向けて。

「京!」

「…元気だったか、…良かった」

「どうして、」

言葉の先は、彼の鋭い視線によって遮られた。彼が交互に動かす視線の先には、背を向けた警官が一人いた。会話を記録しているようだ。

分かっている。京の意思を無駄にすることは出来ない。何か意味があるはずだ。

「…どうして、親父を殺したの?」

少し演技がかった声で、彼に質問を飛ばす。

「…虐待に耐えるお前を見ていられなかった。」

「…ごめん」

「違う、謝るな。」

彼の握りしめた左手が、アクリル板一つ隔てた机に打ち付けられる。

その振動が、何よりも重たかった。

「…俺、実は虐待されてたんだ。

お前を助けるって名目で、本当は俺が助かりたかっただけなんだ。…ごめんな。」

静寂に、カリカリとペンを走らせる音が聞こえる。警官の目に、俺たちはどんな風に映って居るのだろう。

美しい友情?悲哀?それとも


都会の喧騒が鼓膜を襲う。流れ込む雑音が何倍にも拡大されたように脳に染み込む。

知らなかった。京が虐待を受けていたなんて。本当に知らなかったんだ。

「…どうして……」

二人なら、何とか出来たかもしれないのに。

逃げることだって、出来たはずなのに。

どうして。

反芻された言葉が、ただ彼に届くことを願った。やるせない罪悪感だけが、僕の胸に残るように。───













カラン

傾けたグラスに氷があたり、軽やかな音色を立てる昼下がり。

「中編だ、確認できた?」

「えぇ、確かに。編集部に届けておきます。」

カフェの一角で、担当が封筒を閉じる。

「…殺人犯の実録とは、世間は物好きですね。景司先生。…いや、京さん?」

雑に閉じた封筒をソファー席に置き、担当が意地の悪い顔で笑いかける。

「人間は誰しも、心の中では事件を求めているものだよ。」

「はぁ…まぁ、なんでもいいですけど。」

俺の返答には、毛ほども興味がないように、彼はアイスコーヒーを口に含んだ。混ざりきっていないミルクが、宙を舞っている。

まるで、モノクロのオーロラのように──

「あ!」

言葉が出るより先に、足が先急いだ。

立ち上がった衝撃で、アイスコーヒーに飛沫が上がった。

「なんですか!」

「約束があったんだった!」

2時に駅前集合の約束、カフェの時計は長針が1を掠めている。

「はぁ…あの人ですか。」

「あぁ。」

掴み出した財布から、適当に紙を抜き取りコースターの下に挟めた。忙しなく動く俺を、彼は何やらもどかしい瞳で見つめた。財布をしまう腕を、わざとゆっくり落とした。

「…景司先生。」

「何?」

「百瀬さんには、」

「千歳」

「…千歳さんには言わないんですか。」

「何を?」


「貴方が、千歳さんの母を殺害したことを」




「あ!景!」

高く掲げられた手に、手をかざす。

彼は嬉しそうにこちらに駆け寄ってくる。

「遅刻?」

「いや、ギリギリセーフ」

彼の右腕にはめられた時計は丁度、2時を指していた。

「行こう!」



[皆様の右手側、一際大きく光っている星が

ベガ。夏の大三角の一角でございます。]


彼曰く、これは弔いだそうだ。

父親への。

そして、俺への罪滅ぼし。

あの日、父親を殺した日に見た星空を忘れないように。あの感触を覚えているように。

そう言っていた。

「綺麗だな。」

「…ね。」


『貴方が、千歳さんの母を殺害したことを』

穏やかなカフェの一角に漂う凍てついた空気を思い出す。

馬鹿馬鹿しい。

言うわけがないだろう。

現に今こうして、俺と百瀬はなんとか目の前の幸福を掴んで生きている。

十分じゃないか。

それに、ほんとにちょっとした出来心だったんだ。


4つのころ、隣、と言っても1キロくらい離れた場所に同い年の男の子が越してきた。

小綺麗な父母に、手を引かれる小さな男の子。その時に知った。俺の家は、おかしいという事を。

この村に同い年の子なんていなかったから、俺達は日増しに仲良くなっていった。

そして、憎しみも、俺の腹の中で大きく育っていった。彼の口から「おかあさん、おとうさん」という言葉が飛び出す度に俺は頭がおかしくなりそうだったんだ。

そうして、1年かな、そのくらい経った時に。俺は遂に、百瀬の母親に手を掛けた。

俺と同じになれば良い。そう思ったんだ。

雨が降っていたと思う。

雷も、鳴っていた。

裏山に人影が見えたんだ。


谷の縁を歩く彼女を、突き落とした。


分かるよ。百瀬。

人を殺した時に最初に来る感情は間違いなく

「安堵」だ。



「…景、あのね、あの時京が身代わりになってくれてなかったら、俺は今ここには居ないと思う。」

気恥しいのか、彼はまだ天井を見上げていた

「あの夜空をもう一度見上げることも、

こうやって京と遊ぶことも、なかったと思う。」

「だから、ありがとう。」

「…」

明るくなった天井に、白い文字だけが識別できる。

可哀想な百瀬。

いつか色褪せると知っていながらも、必死に繋ぎ止めようとする憐れなお前が好きだよ。

「こちらこそ。」

ありがとう。









可愛い可愛い、俺の身代わり。

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ベガの身代わり 砂々波 @koko_22

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