ステータスチェッカー

石橋清孝

第1話 序列を決めるアプリ

 会議室の空気は、緊張で張り詰めていた。高梨絵梨香と彼女の同僚である佐藤は、プロジェクトの進め方について、真っ向から意見が対立していた。窓の外で雨が降る音が静かに響き渡り、その対照的な静けさが二人の間の緊迫感を一層、際立たせていた。


「佐藤さん。私たちが、このプロジェクトで目指すべきは、イノベーションです。現状維持では、市場での競争に勝てません」絵梨香は冷静に、しかし断固として自分の立場を主張した。


 佐藤は眉をひそめ、反論した。「高梨さん。あなたの提案は、リスクが高すぎます。私たちに必要なのは、堅実な戦略で、じっくりと市場を開拓していくことです」


 議論は平行線を辿り、どちらも一歩も引かない。そんな中、佐藤が提案を持ちかけた。「じゃあ、こうしましょう。ステータスチェッカーに決めてもらう。より優れた人間の意見が正しい。それなら、納得できますよね?」


 絵梨香は、ため息をついた。「あれって、人間関係を円滑にするために序列を決めてもらうアプリですよね? それを議論の代わりにするのは、どうなのでしょうか……」


 しかし、佐藤は譲らなかった。「何を言ったかで決まらなければ、誰が言ったかで決めるしかない。それを客観的に示してくれるのが、ステータスチェッカーです」


 仕方なく、絵梨香はスマホを取り出し、佐藤と通信させた。数秒の沈黙の後、画面には絵梨香の勝利と佐藤の敗北が表示された。


「これは、おかしい! 高梨さんのステータスには、国会議員の妻という地位が影響してるんじゃないですか?」


「私の評価は、ビジネスパーソンとしての実績に基づいているはずです。夫の職業は、関係ないと思いますが……」


 二人の間に流れる空気は、より冷たくなった。このステータスチェッカーによる勝敗が、二人の間の問題を解決するどころか、新たな疑念を生んだのだった。



 夜の帳が下り、ぼんやりと街灯が道を照らしている。絵梨香は会社からの帰宅途中、慌ただしく自転車を漕いで、保育園へと向かった。一人息子の悠真(ゆうま)を迎えに行くのが、少し遅くなってしまったのだ。


 保育園に到着すると、もうほとんどの園児は帰宅しており、園内は静寂に包まれていた。


 若い保育士、麻倉理沙が微笑みながら悠真を絵梨香に引き渡す。二人は、いつものように挨拶を交わしたが、その時、他の保育士たちがスマホを手にしながら、楽しそうに大声を上げているのに、絵梨香は気がついた。


「保育士さんたちもステータスチェッカーを?」絵梨香が好奇心を持って尋ねると、理沙は笑顔で答えた。「はい。私たちの頑張りが、勝敗に表れるんです。それが励みになっています」


 絵梨香は、ふと思い立ち、理沙にステータスチェッカーでの勝負を挑んだ。「私と、やってみませんか?」


「えっ、でも高梨さんに勝てるわけないですよ……」理沙は謙遜しつつも、絵梨香の提案を受け入れた。そして、二人がスマホを近づけて通信させると、意外な結果が表示された。理沙の勝利だった。


 この予期せぬ結果に絵梨香も理沙も一瞬、呆然とした後、大笑いしてしまう。その騒ぎを聞きつけた他の保育士たちが、次々と絵梨香に挑戦してきた。驚くべきことに、絵梨香は一度も勝つことができなかった。


 絵梨香は、保育園での連敗に心中複雑ながらも、悠真を自転車の後ろに乗せ、家路についた。会社での思いがけない勝利が、遠い昔のことのように感じられた。


 家に帰る道すがら、絵梨香は深く考え込んだ。ステータスチェッカーの勝敗は、本当に人の価値を測るものなのか、それとも人それぞれの価値があるということなのか。


 夜風が絵梨香の頬を撫で、彼女は悠真の安心した寝息を感じながら、更なる疑問に向き合うのだった。



 夜が深まる中、静かなリビングで絵梨香と高梨裕也は、ステータスチェッカーの画面を見つめていた。息子の悠真を寝かしつけた後の、二人だけの小さな時間。画面には、絵梨香の勝利が示されている。


「やっぱり、私の方が偉いじゃん」と、絵梨香は得意げに笑った。


「やっぱりってなんだよ!」と、裕也は笑いながらツッコミを入れる。この軽妙なやり取りは、二人の間の温かい雰囲気を作り出していた。


 絵梨香は、さらに付け加える。「私のステータスが高いのは夫のおかげだって負け惜しみを言ってた奴に、教えてやりたいなあ」


「やめてくれよ。政治家なのに価値が低いなんて知られたら、失業だよ」と裕也は冗談を続けたが、その笑顔の裏には少しの不安が隠れているようにも見えた。


「でもどうして、保育士さんたちは全員、強いんだろう?」絵梨香が、素朴な疑問を投げかける。


「このアプリには、少子化対策の意図があるんじゃないか?」と裕也が仮説を立てる。


「エッセンシャルワーカー、特に子育てを支える人々の価値を高めることで、その重要性を社会全体に認識させようとしているのかもしれない」


「私と裕也の差は、育児の差ってことね?」と絵梨香が言うと、「痛いところを突かれたな……」と裕也は少し困った表情を浮かべる。


 その時、悠真が寝ぼけ眼で寝室から出てきて、「トイレ……」と小さな声で言った。


 裕也は慌てて悠真を抱き上げ、トイレに向かう。「大丈夫だよ、パパがいるからね」と、絵梨香にも聞かせるように声をかける。その様子を見て絵梨香は、ほっとしたように微笑んだ。


 リビングに戻ってきた裕也と、再び寝室に戻る悠真を見送りながら、絵梨香は考える。ステータスチェッカーは、家族の絆や愛情も数値にしているのだろうかと。



 朝の光が、柔らかく保育園の遊び場を照らしている。保護者たちは、一日の始まりに子供たちを先生たちの元に預けていく。


 しかし、今日は少し様子が違った。いつもは母親の絵梨香が連れてくる高梨悠真が、今朝は父親の若手国会議員・裕也によって自転車で連れてこられたのだ。


 悠真の担任の理沙は、彼らを見て少し驚いた表情を浮かべた。


「高梨先生……ですか?」彼女の声には驚きが混じっていた。


「先生ってキャラじゃないんで、悠真のパパでいいですよ」裕也の声には温かみがあった。


「奥様は、どうされたんですか?」理沙が、さらに尋ねると、裕也は軽く笑った。


「僕が来ると、そんなに変ですか?」おどける裕也に、理沙は思わず笑ってしまう。


「イクメンパフォーマンス、頑張ってくださいね?」


「いやあ、選挙が近くて……っておい!」


 笑い合い、打ち解けていく二人の様子を、悠真が不思議そうに見つめていた。


 日が昇り、保育園での一日が進む中、裕也のイクメンが続くかどうかが、保育士たちの間で小さな話題になっていた。理沙は、続く方に一票を入れてみた。


 夕方が近づき、保育園での一日が終わろうとしている時、悠真を迎えに来たのは、再び裕也だった。


 駆け寄ってくる悠真を優しく抱きしめると、「今日も一日、がんばったね」と声をかける裕也の姿に、理沙は微笑んでしまう。


 裕也はスマホを取り出し、理沙に向かって言った。


「園からの連絡も、これからは僕の携帯にお願いします」


「そうですよね……」と、理沙は少し戸惑いながら答える。


 二人は、連絡先を交換した。悠真を連れ、保育園の校舎を出る裕也は、ニヤリと笑った。この日の出来事は彼にとって、もっと大きなことの始まりだった。



 まだ午前中の保育園。日差しが優しく窓から差し込む教室の一角で、子供たちが絵本に夢中になっている。そんな中、園長が保育士たちを集め、ある通告をする。


「みなさん、ちょっと集まってください。緊急のお知らせがあります。田中先生と連絡がつかないのです。今日は、今いるメンバーだけで回していただきたいのですが……」


 田中先生は最近、体調不良を訴えていた。そのため、集まった保育士たちは怒るよりも、彼女に同情する声を上げた。


「辛そうにしてたもんね。そろそろだと思ってた」


「大丈夫かな、田中先生……」


 保育士たちは、人手不足の中で悪戦苦闘しながらも、子供たちに、いつも通りの一日を提供しようと動き回った。理沙もまた、少ない人数での運営に戸惑いながら、子供たち一人ひとりに目を配り、笑顔を絶やさないように努めた。園児たちも、いつもと違う雰囲気を感じ取りつつも、保育士たちの努力に応えるかのように、元気に遊んでいた。


 夕方。裕也が悠真を迎えにやってきたとき、疲れが顔に見える理沙が彼に近づいた。


「高梨さん。ちょっと相談したいことがあるんですが、後で電話してもいいですか?」


「もちろんです!」と、裕也は待ってましたとばかりに快諾した。


 夜、それぞれの部屋で電話をする二人。


「わかりました。保育士の人材派遣会社や厚生労働省に、掛け合ってみましょう」


「わあ、ありがとうございます!」理沙の声は明るく、希望に満ちていた。


「ただ、僕ごときの力で動かせるかどうか。理沙先生の協力があれば……」


「私にできることなんて、あるんですか?」


「あなたのスマホを、僕に貸してください。ステータスチェッカーは、政治の世界でも使われ始めています。あなたの強力なステータスが、僕にあれば……」


「そんな犯罪みたいなこと、できるわけないでしょう! それが目的で、私に近づいたんですか?」理沙の声には、失望と怒りが込められていた。


 裕也は、何も答えない。電話の向こうで、沈黙が流れる。


「もう結構です」と、理沙は電話を切った。


 翌朝も、裕也は悠真を連れて保育園へやってきた。理沙は複雑な感情を抱えながら、彼らを迎える。その笑顔には、昨夜の出来事が影を落としていたが、悠真のために明るさを取り戻そうとしているようだった。

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