昭和のショートショート 月影 

阿賀沢 周子

第1話

 弦月の明かりの中、くつわをはめ毛布一枚敷いた裸馬に乗った少年が、国道36号線を西へ進んでいた。少年の頬には涙の乾いた痕があった。手綱を引くでもなく、栗毛駁ぶちの歩みに任せうつむいて揺られている。

 国道を通る車は少なく、薄の白い穂がサワサワと鳴った。


 少年の名は坂上信男、十二歳。昨日父を亡くした。父親は長く肺を患い函館の療養所に入っていたが、大喀血をして死んだ。信男は物心ついてから、父とはほとんど一緒に暮らしたことがない。

 父の遺体は、母と叔父に連れられて今日帰ってきた。午後、母と叔父と父方の祖母と信男の姉とで湯潅をした。長身の父の身体はとても痩せていて冷たかった。

「信男は父ちゃん似だなぁ」

 祖母の声でみんなが笑って同意した。信男は父の顔をまじまじと見たが、似ているようには思えなかった。七五三の時の自分を抱いて笑っている父の写真や、8歳の時自分を馬に乗せた父とは別人のように見える。覚えているはずの父の顔もおぼろだ。

 夕方、弔問に訪れる近隣の者が一段落した頃、村落の代表が三人連れで葬儀の打ち合わせにやってきた。それぞれが霊前に参ってから、居間に車座になり話が始まると、村落会長の高山が信男の頭を撫でながら言った。

「信男。父ちゃん、やっと帰ってきて良かったな」

 母の邦枝が何度も頷いて布巾で瞼をぬぐっている。信男は立ち上がり、高山を睨みつけて叫んだ。

「こんなになって帰ってきても、良くなんかないべや」

 信男はそのまま、裏口へ廻って外へ出た。

馬小屋へ入り道産子のブチの背に跨り、家から離れた。


 父が、斑のある仔馬を買ってきたのは、7年前だった。信男に馬の世話係をさせ、扱いを教えようとしていたが、間もなく発病したのだった。

 ブチと名付け、母と信男が育てた。自分たちの米も事欠く中、冬場は毎日近所の農家から野菜のクズを貰って来てブチに食べさせた。馬耕の基本と躾は、同じく道産子を飼っている国道を挟んで向かい側の池上のおじさんに教えてもらった。


 信男が小学校二年の初夏、一度だけ父親が外泊して家に帰って来たことがある。その頃、ブチは一人前に畑を耕したり、樹の根株を曳いたりしていた。

「信男、ブチに乗れるのか」

「乗ったことはないよ」

「そうか。父ちゃんが明日乗り方を教えてやる」

 翌日、父は鞍をブチの背にかけ自分が乗り、信男の腕を引っ張り上げ、自分の前に座らせた。

 父は「はいっ」と声を上げ、踵でブチの腹を軽く蹴った。ブチは小走りで進み始めた。家の廻りで脚を慣らし村道へ出た。進む時と止まる時、右曲がり左曲がり、手綱の取り方を教わった。

「信男、国道にいきなり行くと車が通るたびにブチが怖がる。脇道で少しずつ慣らしてから出るんだぞ」

 家の近くの幌倉川でブチを休ませた。川縁は涼しかった。父は足場の良いところでブチと川に入った。首に巻いていた手拭いを濡らし、ブチの身体をこする。信男は、その様子を岩に腰掛け見守っていた。

 しかし、信男はその時の父の顔を見ていない。水に濡れたブチの身体から立ち上る湯気が、廻りの木立に吸い込まれていくのに見とれていたのだ。

「父ちゃん、見て。ブチから湯気が立っているよ。すごいね」

「生きる力だな」

 父がそんなふうに言ったような気がする。


 カツカツと蹄を音立てて進むと、右側に信男の学校がみえてくる。グランドを取り囲む桜の樹が月影に浮かび上がる。

「父ちゃん。俺はブチにうまく乗れるようになった。ブチを国道にも慣れさせた。母ちゃんの手伝いもしている。それなのにこんなふうに帰ってくるのか」

 ブチの手綱を右に引き国道から外れた。グランド沿いの道路へ入り、教職員の二戸長屋の脇を抜けると坂道になる。数分駆け上がり丘の頂上へ出た。ブチの手綱を引き、振りかえる。月明かりの中、学校を中心に東西に広がる村落が見渡せた。

 信男の家は、国道の下にあってここからは見えないが、煙突から上る白い煙と、家に降りる道路沿いの薄の群落がみえた。あそこに今父がいる。帰ってきた父が。背の高い、自分に似ている父が自分を待っている。

 信男は、ブチの腹を踵で軽く挟み声をかけ、坂道を降りはじめた。

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