旧暦物語 ー水無月ー
@n-nodoka
第1話
静かな世界だと、私はいつものように思う。
学校の一階、教室から少し離れた場所にある、図書室。
教室程の広さがある空間に、天板の広い机と備え付けの椅子、書籍が敷き詰められた本棚が並ぶ。
本棚は列を成すものから、壁面を覆うものまで。
そして、今は利用時間外。つまり、図書室を訪れる者はいない。
話し声もない図書室。そこにある音は小さくて、主に二つしか無い。
ひとつは、筆記の音。
それは、貸し出した書籍の記録作業の音。
図書室の入り口から右手に構えた受付場所、俗に言うカウンターと呼ばれている場所で作業をしている私が音源となっている。
もう一つの音は、窓際から微かに聞こえてくる、降雨の音。
ここ数日続いている、梅雨特有の長雨。その雨音が、窓越しに届けられている。
図書室を出れば廊下があって教室へと繫がっているけど、誰の声も届かない。
生徒達の喧騒も、夕刻の六時近くとなれば、さすがに途絶える。
多くの生徒達が帰路についている時刻なのだから、当然ではある。
好き好んでではあるけど、居残りで図書委員の仕事をこなしている私の方が、例外と言えるのかもしれない。
記録付けの作業が一段落した所で、眼鏡を一旦外す。
降ろした黒髪の揺れを横目で捉えながら、瞳を閉じる。
数秒間、眼を休息させる間を持ってから、流れた髪を指で軽く押さえて、眼鏡を掛けなおす。
今度は返却された書籍の確認作業ね、と視線を右横に送り、積まれた数冊の本を見つめる。
全てのページを捲り、目立った汚れや傷が無いことの確認作業。もし、程度が悪いものがあった場合は、目印をつけておいて明日以降に顧問へ提出、という流れとなる。
これで、本日の作業は片付く。
さて、と小さく勢いを付けて、積まれた一番上の書籍に手を伸ばす。
その動作に合わせるように、不意に、軋みの音が響いた。
軽く驚きつつも、それが図書室の扉の開閉の音だと直ぐに気付いた私は、積まれた書籍に向けていた視線をそのまま流して、出入り口を捉えた。
そのまま扉の動きを見つめると、開けた扉の影から、図書室の中を覗いた姿が見えた。
私と同じ女子生徒で、同じ制服姿。私と違う銀髪で、綺麗な碧眼の相貌。
遠目でも目立ってしまうその容姿に、ああ、と内心で頷く。
その後すぐ、宝石のような碧眼がこちらの姿を見つけて、
「あ、紗季―、やっぱりいたー」
私の名を呼ぶ銀髪の女子生徒が、後ろ手に扉を閉めつつ、受付の方、つまり私の方へと歩いてくる。
「未華、あなた、部活は?」
唐突な来客者である銀髪の女子生徒、未華に問うと、もう終わったよー、と言いながらカウンターにもたれてきた。
「本当は締めのランニングがあったんだけど、連日の雨で他の部の人達も多いから、今日はサービスで無しになったー」
よ、という声と一緒に、未華は背負っていた荷物を降ろし、
「で、帰ろうとして昇降行ったら、紗季の上履きが無かったからさー。まだ残っているんだろうなーって思って、来てみた」
「なるほどね」
一連の説明を聞き終えた私は、伸ばしていた手で書籍を掴み取り、確認作業の為にページを捲りはじめる。
カウンターに身体を預ける未華は、私の周り、受付の作業台に置かれた書籍やファイルなどを一瞥。うわぁ、と軽く身体を反らせて、
「よくそんな作業ができるねー。尊敬しかないよ」
苦行だ、というようなニュアンスで未華が言う。
正面からの声に、私は確認作業を続けたまま、
「ずっとやっていれば、慣れるものよ」
「やー、私には無理だなー。授業と同じで、一分ともたないと思うもん」
「ああ、言っていたわね。授業中、一分おきに眼を瞑っているって」
「そー。もしくは空を眺めるかな」
「一分おきにそんなことしていたら、先生方から注意されない?」
「うん、最初は言われたよ。だから、これ見よがしに当てられまくってさー。でも、 質問にはちゃんと答えられるから、だんだん先生も諦めてくれるね」
「なるほどね」
一冊、確認作用が終了。続けて手を伸ばし、二冊目に取り掛かる。
「いや、紗季も同じじゃない? 絶対疲れるでしょ? その仕事もさ」
と言って、未華が私の持つ書籍をしかめっ面で指してくる。まあ確かに、そんな表情になる気持ちは分かる。でも、
「だから、この眼鏡をしているのよ」
と、持っていた書籍を開いたまま机に置いて、眼鏡を取る。
はい、と未華に差し出すと、はい? と未華が受け取る。
「掛けてみて」
私の指示通り、未華が私の眼鏡を掛ける。と、
「おおっ?」
驚嘆の声が未華から出る。そのまま図書室の中を見渡して、なるほどーっ、と頷き、
「そういうことかー。てっきり、ファッションで掛けてるのかと思ってた」
「種も仕掛けもある、ということよ」
「えー、こんなアイテムがあるなら、早く教えてよー」
「何の変哲もない、只の眼鏡よ。度数の調整さえ気を付ければ、作るのは簡単よ」
「へー、いいなーこれ。今度お母さんに相談してみよーかな。眼鏡って、高い?」
「色々あるみたいだけど、私の眼鏡に関してはそんな高価なものではないわね。それと同じタイプのもので良ければ、今度お店も紹介するわ」
「ありがとー、お願いするー」
言いながら、はい、と眼鏡をこちらに差し出して、
「やっぱ、紗季も色々と工夫しているんだねー。この眼鏡に辿り着いた苦労が、私には伺えるよー」
未華の言葉に、まあね、と答えつつ、眼鏡を受け取る。掛け直してから、でも、と続けて、
「そうは言っても、あなたほどの苦労では無かったと思うわ」
「へ? 私?」
「ええ。前に、教えてくれたじゃない。高校に上がるくらいまで、ずっと日傘が離せなかったって」
話しつつ、私は確認作業に戻る。
未華は、ああ、そっちかぁ、と言って、
「そうだねー。私の美白を護る為に、日傘は必須アイテムだったねー」
うんうん、と腕組の姿で深く頷く。
私は二冊目の確認作業を終えたタイミングで、未華に問う。
「その辺り、私は浅薄なのだけど……あなたの体質って、成長過程で変化するものなのかしら?」
「あー、人によるみたいだよ。やっぱ、ずっと離せないって人もいるし、逆に全然平気っていう人もいるって、病院の先生が言ってた。私の場合、外見ほど弱くなかったみたい」
いえぃ、とピースサインを作る未華に、そう、と返す。
「日傘ねー、懐かしいなー。昔はよくそれで、男子達に揶揄われたりしたなー」
あはは、と笑う未華。
対して、私は取り掛かっていた三冊目の作業を止めて、未華を見る。
「——ごめんさない、話題選びの配慮が足りなかったわ」
私の謝罪に、
「へ?」
と呆けたような声を出した未華が、すぐに笑顔を浮かべて、
「あー、いやいや全然、そんな暗い過去とかじゃないから。ただ、揶揄ってきた男子達にムカついて、日傘で斬りながら追いかけてたなーっていう思い出話」
爽快だったなぁ、と楽しそうな顔でどこか遠くを見ているので、多分本当のことなのだろう。
そんな未華の反応に一息ついて、
「……強いのね」
という私の言葉に、
「まあねー、小学校に上がる前から剣道はやっていたし、男子数名くらいなら負け知らずだったよ。現役女子剣道部のエースたる私の強さは、今に始まったものではないからねっ‼」
腰に手をのせた姿で、ふふん、と自慢げに語られた。
そういう事では、と言いかけて、止める。
その物理的な強さもまた、未華の強さなのだろうと再認識して、そう、と微笑で返すに留める。
途中になっていた三冊目の書籍を開き、
「私の作業も、もうすぐ終わるわ」
そう言って、確認作業の速度を少し上げる。
未華が図書室に訪れた理由は、分っている。わざわざ挨拶に来たわけでもないし、挨拶だけで良ければ、出入り口辺りで十分。
未華は、おっけー、と受付カウンターから離れて、
「んじゃ、久しぶりに一緒に帰ろ?」
言って、大きく伸びをしながらカウンターから離れ、その歩みで窓際へと移動していく。
予想通りの返答が来たので、ええ、と私は答えて、そのまま作業を進める。次は、四冊目。
未華が向かった先は、腰高で揃えられた窓際の書棚。そこに、未華は腰を掛ける。
未華が図書室に来た時の、定位置と言える場所。
よ、っと小さな掛け声付きで座り、
「やー、梅雨ですなー」
独り言を零しつつ、窓越しの雨空を眺める。
荒れた天気、という程では無いけれど、雨量は多く、図書室の窓へと引っ切り無しに雨粒が降り掛かる。
「水無月の名に恥じぬ降りっぷりですなー」
これも独り言だったのかもしれない。けれど、私はあえて、あら、と声を作る。確認作業は続けたままで、
「覚えてくれていたのね、水無月の由来の話」
「そりゃー、ついこの間、紗季から教わったことですからねぇ。水が『無い』と書いて、水『の』月——まさに、私達にうってつけの暦なんだってね」
言った未華が、少しの間をおいて、あはは、と小さく笑う。
「……?」
不意な微笑が気になり、未華の方に視線を向ける。
すると、碧眼と目が合った。水晶のように綺麗で穏やかな瞳が、私を捉えていた。
「どうかしたの?」
声に出して問うと、うん、と未華は頷いて、
「紗季と初めて話をした時のこと、思い出してた。あの時もここで、こんなシチュエーションだったなぁって」
笑みを深めつつ、碧眼の視線を雨空へと移して、
「あの時、雨が降っていなかったら、きっと気付かなかったんだろうなーって」
色白の右手が、窓に触れる。
その向こう側にある、雨粒を撫でるような仕草をする未華に、ああ、と私は思い、
「そうね……きっと、そうだったわ」
賛同を返す。
未華と私の初めての会話は、三ヶ月ほど前の事。
その日も、閉館時間が過ぎた図書室で一人書棚の整理をしていた所に、未華が訪れた。
未華は今日と同じように、所属する剣道部の部活帰りに図書室へと立ち寄った。
ただ、閉館時刻を過ぎていることは知らなかったらしく、残念そうに帰ろうとした所を、自分の作業が終わるまでなら、という条件付きで入館を許可した。
少なくとも私は、未華の事を入学当初から知っていた。と、言うよりも、この学校内で未華の存在を知らない生徒はいなかっただろう、と思う。
理由は明白。
私を含めた生徒達とは明らかに逸脱した、銀髪碧眼で美白という容姿。
アルビノの特性を持った未華の姿は、どうしても人目を惹く。
それでも、ただ存在を知っている、というだけだった。
学年は同じだったけど、クラスも違う。未華は剣道部で、私は運動部ですらない、万年図書委員。
私と未華には、接点が無かった。
訪れた未華に話を聞くと、剣道に関する書籍を探しているとの事だったので、何冊かの書籍を紹介した。
我が校の図書館の書籍については、一年生の時点で既に網羅していたので、武道などに関わりのない私でも、お薦めの書籍はすぐに出せたのは良かった。
その時も、未華は図書室のテーブル席を使わずに、窓際の書棚に腰掛けて読んでいた。
私は未華に数冊の書籍を渡した後、書棚の整理に戻り、図書委員の作業を続けた。
私も未華も、しばらくの間、各々の時間を過ごした。
気になったのは、自分の仕事が終盤に差し掛かった頃だった。
窓際に座る未華の動きに、浅い違和感を覚えた。
私が紹介した書籍を、黙々と読んではいる。ただ明らかに、書籍よりも、窓の向こう側にある雨空を眺める時間が多かった。
読書に慣れていないから飽きたのだろうか、と最初は思った。
しかし、私は気付いた。
未華の動きが気になったのは、違和感ではなく、既視感。
まるで、癒しを乞う様に雨空を眺める、未華の眼差し。
雨空に向ける視線が、
だから私は、未華に問い掛けた。
「——雨は、好き?」
唐突な質問に、未華は驚きの顔で振り返り、碧眼の相貌で私を見た。
その驚きの視線は私の瞳を真っすぐに捉えて、次第に見開かれる。
そして柔和な、確信を得た瞳へと変わり、未華は一息を吐く。
微笑を浮かべる私に、未華もまた、うん、と微笑み、
「——ずっと止まないでほしいって、いつも想ってる。だって、雨に染まった景色は、色彩も造形も、何もかもが雨色に遮られて――」
私達は、告げた。
「「世界が、静かになるから」」
重なりの声が、図書室に通る。次いで、二つの笑みの音が響く。
「もー、あの時はほんとにびっくりしたー。急に『雨は好き?』って聞かれて、一瞬新手のナンパかと思ったもん」
「失礼ね。——と、言いたいところだけど、事実だから仕方ないわね」
「そこは認めるんだ?」
あはは、と未華が笑い、でも、と続ける。
「そもそも、あの質問だけじゃ分からなかったよ」
「あら、そう?」
そうだよ、という返答に、そうだろう、と思う。そしてあの時、未華が私の質問の真意に辿り着いた理由も分かる。
それは、
「でも、紗季の眼を視てすぐに分ったよ。——紗季も、
そう。私も未華も、雨の日は決まって、窓際で外の景色を眺める。
雨色の景色に、癒しを求める瞳。
窓に映る自分達の瞳と、同じだったから。だから、私達はお互いに気付いた。
自分と同じ、〝慧眼〟を持っているのだと。
慧眼で視る世界は、色も形も全てが情報過多で、疲労するばかり。
一瞥した情報の全てを、慧眼は一瞬にして捉えてしまうから。
それがゆえに、高負荷の状態にならないように、調整が必要になる。
私は、度数をずらした眼鏡で、あえて強制的に視力落とし、情報量を抑制して。
未華は、情報量の少ない空を眺めることで、慧眼の処理能力をリセットさせて。
そんな私達にとって、雨天の景色は特に、癒しの世界として映る。
雨色に染まった世界は、色彩や景色という情報が、極限まで遮断されるから。
だから私達は、好んで雨空を眺める。
未華は、視線を窓の外、雨の降る景色を見つめて、
「こんな世界を視ている人、他にいないと思ってたよ」
その言葉に、私は一息吐きながら、同感ね、と返して、
「もしいたとしても、巡り合うなんてことはないと思っていたわ」
「確かに、それもそうだね。私達、運命の出会いですなー……」
急に顎に手を当てて格好つけだした未華に、
「どうかしらね」
と、笑みで返し、いつの間にか止めてしまっていた作業に戻る。
「もー、紗季ったらつれないんだからー。そこは、そうねって言ってくれればいいじゃーん」
膨れ顔の苦情が来たので、
「じゃあ、そういう事にしておきましょう」
「なーんか含みが気になるなー」
もう、とさらに膨れる未華だったが、はいはい、と流して作業に没頭する。
確認作業は、あと三冊。何もなければ、ものの数分で終えられる。
不満の声を上げていた未華だったけど、私の作業を待つ間は、ずっと雨空を視ていた。
水無月に降る慈しみの雨を、穏やかな瞳で。
幸いなことに、確認した書籍全てに問題は無かった。確認の記録をファイルに残して、
「終わったわ」
告げると、
「あーい、お疲れー」
言って、未華も窓際の書棚から離れ、動き出す。お互いに帰宅の準備をしながら、
「明日も雨かなー」
「数日は続くみたいよ」
「やったー、梅雨万歳ですな」
「水無月の名に恥じぬ、と言ったところかしら」
「あー、パクられた―っ。著作権侵害だー、訴えてやるーっ」
「残念、商標登録が済んでいないわ」
「ああ、なんてこったー。違約金で稼ぐつもりが甘かった……」
「そもそも、教えたのは私よ」
「ぐぬぬ、そうだった……私が違約金を払わねばならないのか……」
「そういう事になるわね」
「出世払いで宜しく」
「期待しているわ」
言って、二人で図書室を出る。扉に鍵をさしてから、消灯。
戸締りの確認の為に、図書室の中を覗く。
委員会の仕事の終わりはいつも戸締りとなる為、もはや慣れた流れとなっている。
薄暗く、更なる静謐な場所となった図書室。
私達の声も無くなった空間には、雨音だけが浸透する。
いつもの、見慣れた光景。
だけど、
「……ふふっ」
ふと湧いて出た感覚に、思わず微笑が零れる。
「どしたのー? 忘れ物?」
私の背中越しに図書室の中を覗く未華に、いいえ、と答えつつ、扉を閉めて施錠を掛ける。
「行きましょう」
隠せない笑みのまま言うと、
「んー? 紗季、何かいいことあった?」
聞かれたので、ええ、と頷く。でも、と続けて、
「別に、大したことではないわ」
「なになに気になるーっ。もったいぶらずに言いなさいよーっ」
興味津々、という輝きを瞳に浮かばせて、未華が問い詰めてくる。
本当に、大したことではなくて。
「あなたの出世払いが楽しみだなって、思っただけよ」
「えーっ、紗季って意外とがめついねー。私達、まだまだ学生生活が続くんだから、気長に待っててよー?」
その言葉に、私はさらに笑みを深めながら、
「ええ、期待しているわ」
廊下に小さく響く二つの足音に乗せて、私は答えた。
長い間、私だけが存在していた
喧騒に塗れた世界から外れた、まるで雨の世界のような、静謐な空間。
そこに、未華が訪れた。
「「世界が、静かになるから」」
同じ
あなたが来てから、私の世界は一気に騒がしくなった。
そしていつも間にか、あなたがいる世界が当たり前になっていて。
でも、そんな世界も悪くないなって。
そんな風に想う自分がいたことに気が付いて。
だから、思わず笑ってしまったのよ。
でも、こんな話をあなたにするのは、まだちょっと照れくさいから。
この
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