5-8 あーあ。泣ーかせた

「――アニキ……? 寝てるっすか……?」

「…………」


 おずおずと――

 自室の外から聞こえてきた声を、無視したわけではなかった。ただ反応するのも億劫なほどに気怠くて。何の反応もできないでいるうちに扉がゆっくりと開くのを、ムジカはベッドの上から見つめていた。

 起きているとは思わなかったらしい。扉の隙間から顔を覗かせたリムは、驚いたように目を真ん丸に見開いていたが。しばし微妙な沈黙を挟んだ後、不安そうに部屋に入ってきた。

 どこか所在なさげな彼女に苦笑めいたものを感じながら、ムジカは寝転んだまま訊いた。


「どうした? なんかあったか?」

「なんかって……夕飯の時間っすよ。呼んだじゃないっすか」

「……そうだったか? すまん、聞き逃した」


 本当に聞いた記憶がなかった。試合後すぐに部屋に戻ったのだが、その間の記憶がほとんどない。今が夕刻というのも把握していなかった。天井をぼうっと見上げたまま、とりとめのないことをずっと考えていたことだけは覚えているのだが……

 その天井に視線を戻す。そういえば昼も食べてないと思い出したのだが、不思議と空腹は感じない。体ではなく精神的な気怠さだ。起き上がる気力すら湧いてこない。

 何もしていないのだが力尽きたような心地で、またリムのほうを見やった。


(そういえば、こいつの顔をじっくり見るのも久しぶりか)


 そんなことをふと思った。“クイックステップ”の件で怒らせて以来、ほとんど顔を合わせていなかった。懐かしいと思うほどではなかったが、少し意表を突かれた。彼女の冴えない表情を見ることはそう多くはない。

 怒りが冷めてから気まずそうにしていたのには気づいていたが、どうにもタイミングが合わなくてほったらかしていた。その申し訳なさに苦笑しつつ、リムに告げた。


「悪い、今は食欲ない。後で食べ行くから、置いておいてもらってもいいか?」

「…………」

「……?」


 と、リムの返答がなかったことに、ムジカはようやく体を起こした――普段なら『ダメっス、そんなの体に悪いっす!』とでも言ってきそうなものだが。

 改めて彼女の顔を見やれば、リムはどうしてか、泣きそうな顔をしていた。既に瞳は涙で揺らぎ始めている――


「あーしの、せいっすか……?」

「……? なにがだ?」


 その顔で彼女が言ってきたのが、それだった。

 本気でわけがわからなかったので、きょとんと訊く。なるべくいつもの口調で言ったつもりだったのだが、通じなかったらしい。既に彼女の目元からは、涙が溢れそうになっていた。


「だ、だって。最近あーし、アニキに、ウザがられそうなことばっかりやってたし。言葉で言わないで、いたずらとか、イヤな態度とか。今日も、すぐ帰っちゃったし……だ、だからアニキ、怒ってるのかなって――」

「怒ってる?」


 言われてようやく気づいた。ムジカは単純に気分が優れなかっただけなのだが、リムはどうも違う受け取り方をしたらしい。

 ため息というには呆れの成分が強かったが、一息ついてから素直に言い返す。


「バカ言うな。お前のやることで俺が怒ったりするかよ。別件だ、別件」

「別件……?」

「ラウルに頼まれた警護隊の手伝いで空賊と揉めたりとか、色々あってな。いろんなやつに好き勝手言われて、考え事してた」

「……考え事? 空賊と揉めたって――」

(そういえば、その話もしてなかったのか)


 未だ不安そうにしているリムに、ムジカは頷きつつ苦笑した。

 知らないだろうと察しつつ、話のきっかけとして訊く。


「リムはスバルトアルヴの専属傭兵のことを知ってるか?」

「……? スバルトアルヴって――」

「ああ。この前の“アレ”の出身島だ。そこの傭兵が、最近セイリオスに来ててな。今そこの連中とか関係者と、ちょっと揉めてる」

「揉めてるって、どういうこと? あーし、そんなこと聞いてない――」

「そりゃそうだろ、言ってないし。揉めたっつっても口論しただけだ。大したことじゃないから、気にすんな」


 慌てたリムに、うっちゃるように手を振った。そして素っ気なく嘘をついた。

 実際に大したことなのかどうか。ムジカにはそれがいまいちわからない。お前を殺すとは言われたが、何度考えても深刻には受け取れなかった。仮に本当に死ぬとしても、いつか来るだろう報いが今来た、そんな受け止め方しかできない。

 冷めている、というのとは少し違うのだろう――そんなことをふと思った。

 沈黙が長くなりすぎる前に、続きを呟いた。


「ただ、その口論の中で、いろいろ言われてな。ちょっと考え事してた」

「考え事……?」


 繰り返すリムに頷き返す。実際、いろんなことを考えた――ようでいて、その実結論やオチにたどり着いたものなどほとんどない。ボケっと天井を眺めていたようなものだ。

 その中でも、何度も繰り返された問いかけがあった。それはフリッサも――そして空賊と遭遇したあの日、ガディも言っていたことだ。

 ぽつりとこぼすように、ムジカはそれを口にした。


「お前はどうして傭兵になったって言われてな。質問じゃなかったから、答えるタイミングもなかったんだが……改めて考えてみると、俺の中には答えがなかったことに気づいた」

「――――――」


 リムから目を離し、天井を見上げていた。だから聞こえてきたのはリムの吐息の音だけだ。だから彼女が何を思ったのかなどわからない。

 ただ努めて事実を淡々と列挙するように、ムジカは先を続ける。


「三年前、俺がやらかしてグレンデルからの追放が決まった。“ジークフリート”を破壊したからな……だから俺は処刑されるか、さもなくば追放刑かの二択を押し付けられた。そんな状況で、お前たちが俺を連れ出した――傭兵になったのはその流れだったな。俺は状況に流されただけだった。だから、俺の中にその理由がないのも当たり前なんだが……」


 選択肢の話でいうならば、そんなものはそもそもなかったとしか言えない。ラウルもムジカもやれることなどノブリスの操縦程度しかなく、リムに至ってはまだ九歳の子供だった。となれば選べるのは傭兵しかなかったのが実情だ。

 そしてもし、ラウルとリムに手を取られることなく、独りであの故郷を出ていったとしても。やはり選べる道など変わらないに違いない――

 

(いや、もっとひどいか)


 所詮は罪を犯した十二のガキだ。それも、何も持たないただのガキ。となれば傭兵にすらなれない。ノブリスどころか何も持ち得ないただのクソガキが、この空で生きていくことは不可能だっただろう。

 ならばきっと。自分はどこかの空で、一人孤独に死んでいったに違いない……

 と。


「――……アニキは」

「……?」


 リムの声に、天井を見つめていた視線を下ろした。

 視線の先、彼女はうなだれて、打ちひしがれたようにしていたが。やがて顔を上げると、上目遣いに訊いてくる。


「アニキは……後悔してたっすか? 傭兵になったことを……」


 リムはそういう言い方をしたが。

 彼女が本当に聞きたかったのは、これだろうとムジカは察していた――一緒に旅をしてきたことを、後悔していたの?


「……そういえば、こういった話はお前とはしてこなかったか。今にして思えば」


 ラウルとは、何度か似たようなことを話した記憶がある。だがリムとは一度も――ただの一度もこうした話をしたことがなかった。

 苦笑したのは、それが随分今更だなと思ったからだ。この娘は気にしすぎるだろうと思っていた。感じ入りやすいこの少女は、ムジカ自身が気付かない傷にまで気づいてしまう、そんな予感があったからかもしれない。だから避けてきた。

 だが、今となっては避けられない。だからムジカは素直に告白した。


「傭兵になったことに後悔はないよ。お前たちに拾われてなければ、俺はきっとその辺で死んでただろうしな。だから……お前たちと一緒に旅をしてきたことに、後悔はない。むしろ、感謝している」

「…………」

「後悔って言うんなら、俺の後悔はそれよりも前だ」


 言ってから、それを口にする必要はなかったと気づいた。

 だが事ここに至ってごまかす言葉も思いつかない。リムはまっすぐにこちらを見ている。傷つく予感に震えながら、それでもまっすぐにこちらを。告げられるべき言葉を待っている。その眼の強さに、しばし見入ったが。

 観念と共に、ムジカはそれを告げた。


「……は?」


 端的すぎたから、わからなかったかもしれない。

 呆然とするリムに、だがムジカができたことと言えば、罪を告白することだけだ。

 辞儀するように、うつむきながら。懺悔のように、それを呟く。


。浮島の管理者と、次期後継者という立場を失わせた。グレンデルにいれば何一つ不自由なく暮らせたはずなのに、いつ食えなくなるかもわからない生活に追い込んだ。まだ幼かった――今も幼い“”を、煉獄の道連れにした」

「それは……!」

「咎は俺だけが負うべきだった」


 フリッサはムジカを“恵まれている”と言った。確かにその通りだった。

 復讐を果たした。我を通して全てを失い、死を目前にして二人に救われた。その対価は二人の人生そのものだ。何もかもを失わせた。

 代わりに得たものはなんだ――ムジカの命? 未来?

 そんなくだらないもののために、二人の未来を失わせたのか?


(そんなものに、何の価値があった?)


 自嘲は形にはならなかった。それを笑うほどの力さえなかった。

 うなだれた視界の外から聞こえてきたのは、リムの震える声だ。


「そんなこと、ずっと考えてたっすか。そんなこと、ずっと――」

「大事なことだ。今も、時々考える――もし、やり直せるのなら。もう少し、うまくやれていたのなら。“ジークフリート”を破壊しなければ、少なくとも俺は追放刑に処されることもなかったはずだ。なら、お前たちがグレンデルから離れる必要も――」


 言葉にできたのは、そこまでだった。


「――わたしはっ!!」


 突然の大声に、ハッと顔を上げた。

 ひび割れた声。零れ落ちる寸前までその眼に涙を貯めこんで、リムがこちらを見ている。小さな拳は握り締められ、華奢な体は震えていた。

 声も。悲しみに震えていて――だというのに、叩きつけられるように強く響いた。


「私は、兄さんの手を取ったこと、一度も後悔してないっ! あなたが――あなたが、救ってくれた! あなたが私に自由をくれた!! みんなが私の敵になって、それでもあなただけが変わらず傍にいてくれた――だから私は、そんなことで後悔なんかしないっ!!」

「違うリム、俺は――」


 ――あの時、お前を救うためだけに戦ったわけじゃない。

 それは言葉にならなかったし、できなかった。それは言葉にしてはならない後悔だった。

 都合がよかっただけなのだ。父の仇――ドリス・ジークフリートに復讐する、千載一遇の好機だった。

 くだらない野心のサイズこそ立派なくせに、ドリスはどこまでも小物で、こざかしかった。リスクを徹底して嫌った。だからドリスがリムを――クリムヒルトを追い詰めた時、グレンデルのノーブルは誰も彼に立ち向かわなかった。立ち向かえないようにされていた。

 存在の隠されていたムジカだけが、彼女を救える唯一の盲点であり――ムジカはその機会を最大限に利用した。

 その末路が、今だ。救うために戦ったはずの、少女を泣かせている。


「ずっと、そんなことばっかり考えてたの。あんな島のほうがよかったかもって。父さんを裏切っても平気な顔してた人たちと、一緒にいたほうがいいって。兄さんのことなんかほったらかして、私はのうのうと暮らしてればよかったって。自分だけが罰を受けていればよかったって、兄さんはずっと――ずっと、そんなことばっか考えてたの!?」

「……俺は――」


 口を開いて、だがしくじった。答えることをためらった。

 躊躇の代償は、答えを察して目を見開いたリムの怒りと、その目から零れ落ちた涙だった。

 

「――兄さんの、バカっ!!」


 絶叫が一つ。ムジカの体を貫いて――置き去りにするように、リムが部屋を飛び出す。

 声をかける暇すらない。咄嗟に伸ばした手も届かない。力任せに扉を閉められれば、もう彼女の姿も見えなくなる。ムジカが何もできないでいるうちに、リムは部屋から出ていった。

 伸ばしかけた手の所在のなさが、ただひたすらに情けない。目に焼き付いた彼女の泣き顔に打ちのめされるように、ムジカはまたベッドに倒れ込んだ。


(何やってんだかな、俺は……)


 無力感に苛まれる。リムを泣かせるつもりはなかった。どうにも、うまくいかない――生まれてこの方、うまくいった試しなどないが。それでもここ最近でワーストに当たる不甲斐なさだった。

 と。


「――あーあ。泣ーかせた」

「…………」


 声のほうを半眼で見やれば、そこにいたのは案の定ラウルだった。扉の隙間から顔を覗かせて、にやにやとしている。どうやら盗み聞きしていたようだが。

 ラウルは遠慮もなく部屋にずかずか入ってくると、口笛こそ吹かなかったが顔はそんな調子で言ってきた。


「やあやあ、悪いが笑かせてもらった。うちの騎士様も娘にゃタジタジか。想われてるねえ色男」

「抜かせアホ親父。騎士様言うんじゃねえ……まったく。ダメだな、最近アイツを泣かせてばっかだ。どうにもうまくいかん」

「もうちょいうまく気遣ってやれただろうって?」


 それこそ笑えるとでも言いたげに、ラウルは大笑してみせた。


「お前にゃ無理だ、そんな小器用さは期待してないよ。それができるほど要領がいいなら、俺もお前も、リムだってこんなところにいやしないさ」

「……人が気にしてることズケズケ言いやがって」

「不貞腐れんなよ、褒めてんのさ。俺もアレも、その不器用さに救われてきたんだぜ? アレはお前に、せめて自由であってほしいんだろうがね。過去に囚われてほしくない、自分のことで負い目なんて感じないでほしいって思ってる。そのお前が、いかにも自分のせいでござい、なんてツラしてちゃあな」

「…………」

「その辺も込みで過去は振り返らないって決めたつもりだったんだが。ま、スッパリ割り切れってのも難しい話か」


 それはそうだ。割り切ることはどうしてもできない。どうしても自分のせいだと考えてしまう。

 復讐を完遂した。衝動のままにだ。結果は散々だった。気分は晴れたが、よかったことといえばそれだけ。死刑でも追放刑でもなんでもよかったが、主とその娘を巻き込むことは本意ではなかった。

 失敗を自覚したのはその頃になってようやくだ。気づくのがあまりにも遅すぎた。

 ため息の音に顔を上げれば、そこにあったのはラウルの呆れ顔だ。


「アレもアレで大概だが、お前もお前でうじうじする奴だな。気にするなとは言えんが、いつまでもくよくよしてんなよ、しゃらくさい――俺たちは気にしてねえよ。感謝してるって言ってきただろう」

「……だけど、俺は」

「あーあーうるせうるせ。おら、ひとまずお前は悩んでないでとっとと飯食え。この上飯まで抜いてみろ、あいつマジでキレるぞ」

「……わかったよ」


 ため息をつくと、重い体を持ち上げて、どうにか部屋の外に出る。

 ちらと隣を窺ったが、リムの部屋は閉ざされていた。この様子だと、今日はもう出てこないだろう。

 もう少しうまくやれてもよかっただろうに。内心で自らに毒づくが、後の祭りだ。暗鬱な気分で彼女の部屋から視線を逸らした。


「んで? ドヴェルグと揉めたって? リムにはごまかしたみたいだが、俺にはしっかり話せよ?」

「飯食ってからな」


 ラウルにそう返してから階下に向かう。

 ――リムが作ってくれた夕飯はいつもの通りにおいしかったが、彼女のいない食卓はひどく味気なかった。

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