かぎろひ拾遺集
micco
祐 ~十五歳~
ばあちゃん、やっと寝た。
耳を澄ましても静けさだけが返ってくるのに息を吐いた。
徘徊が始まって一日中見張っていなきゃいけなくなった。家から三日は出てない、いや今日が何日か何曜日かも構ってられなくなった。親父は昇進してから忙しくてイラついてるし、飯も作らないといけない。自分の分だけならともかく親父は文句が多いし、ばあちゃんは時間が定まらない。夜中に起き出して何か作ろうとし始めることもある。
もう嫌だった。
なんで俺が――。毎日、毎秒そう思う。
米を研いでいるときも便所が汚れて掃除してるときも、学校に行ってるときも寝ても覚めてもずっと。
でもこの家には俺しかいない。ばあちゃんの世話をするのは。
重い体を起こして自分の部屋を出た。この瞬間が嫌だ、夢にまで見る。階段下に便が落ちてるかもしれない、作りかけの食べ物が散乱してるかもしれない、水が出しっぱなしで洪水が——。
でも見たところ変わった場所はなかった。冗談じゃなくホッとして、ばあちゃんの部屋をそっとうかがった。戸は少し空いていた。最近立て付けが悪くてあと十五センチのところで重くなるからか、大体開けっぱなしになる。
案の定、着替えないで寝ていた。ボケる前まではきれい好きすぎるほどだったのに。もうあれは、ばあちゃんじゃないんだ。
じゃあなんで俺はこんなに苦労して面倒見てるんだ。おかしいだろ、学校にも行けねぇし家からも出られないだって。
「学校」を思い出して歯を食いしばった。「なんか臭くね?」と俺をせせら笑う奴らの声が頭の中で反響した。——ばあちゃんが便所を汚したのを掃除して登校した日、クラスのやつが臭いに気づいた。俺の鼻はたぶんおかしくなっててダメだった。制服に汚れがついてると分かったときには、もう学校にはいられなかった。
黙って帰って、担任からも親父からも怒られた。帰ったら全部の蛇口を捻りっぱなしになってて、初めてばあちゃんに怒鳴った。
ばあちゃんはパニックになって外に出た。必死で連れ戻した次の日から徘徊が始まった。
全部、俺のせいなのかな。
ばあちゃんがボケたのも、親父が酒ばっか飲むのも。……母さんが出ていって帰ってこないのも。
母さんを探して連れ戻せば、と夢みたいなことを何度も思う。
そうしたらばあちゃんの認知症は治るんじゃないか。親父も酒をやめて昔みたいに一緒にキャッチボールくらいはしてくれるんじゃないか。
でも、母さんと俺の想像はひとつも浮かばなくて、いつもやめる。諦める。
——ばあちゃんの寝息は静かで、外の虫の声の方が大きいくらいだった。
蛍光灯は点けっぱなし。オレンジの小さい電球だけになった部屋は急に狭くなった。
安心したのか急に腹が減った。今日は親父が夜勤でいないから夜飯は作らなかった。ばあちゃんもちゃんと食べてないけど、いいか。
もう考えるのは嫌だった。
戸を閉めて、台所に入った。一応、物が荒れてないか確認する。それから手を洗った。丁寧に。なんか変な菌がついてるんじゃないかと怖い。三回洗ってようやく満足して、冷蔵庫を開けた。卵と牛乳しかない。シンク下の調味料入れも見てみる。何が入ってるかは分かってるけど、気づいたら茶箪笥にワープしてることもあるから、検分も兼ねてよく見る。
米も、あんまなかったよな。
俺はまた冷蔵庫を開けて、卵と牛乳それから小麦粉を出した。ボールに全部入れて砂糖も適当に入れてフォークで混ぜる。そして調味料入れからベーキングパウダーを出してさっさっと振り入れた。分量なんて知らないがホットケーキのつもりだった。親父もばあちゃんも邪魔しない、ひとりだけのときにこれを作ることが多い。簡単だから。食べたくなるから。
ドロドロの生地をプライパンに流しこんだ。
ふつふつとするのを待つ。よく見えないと思ったら電気も点けてなかった、まぁいいかとそのまま待つ。
油と少しだけ甘い匂いが立ってきた。ほっと肩が緩む。腹が鳴った。
まだと思いながらもひっくり返した。全然膨らんでないしやっぱりまだ焼き色がついてない、でも元には戻せない。またじっと待つしかなかった。
サラダ油で丸く焼けた模様が何かに似ていて、頭の中は夏になる。楽しかった夏に。
……今年も花火、しなかったな。
中一までは毎年恒例だったのに。祭りにも行けなかった。
この前学校で見かけた細い背中がよぎった。すごく大きくなるかもしれないと大きめのを買った制服は中三になってもブカブカのまま。スカートもまるで一年みたいに長いまま。
「紗世と花火したかったな」
告白をしようと思っていた。夏休みの最後にちゃんと。
中学になって部活が始まって勉強が忙しくなって、変な中学の雰囲気に流されてしゃべらなくなった幼なじみ。学校を出ればこの家の中では仲の良い俺たちのままで、それがずっと続くと思ってたのに。ぐっと食いしばる。
ばあちゃんのせいだ——!
不意に焦げた匂いが立ち昇った。ハッとする。慌ててひっくり返したけど、真っ黒になっていた。
ひどくがっかりした。でも腹は減っていたから皿を出して焼き上げた。
シンクに立ったまま、手でホットケーキを半分に割った。焼きたては熱くて切れ目から白い湯気がくゆる。
かぶりついた。あんまり甘くない、もうちょっと砂糖を増やせばよかったケチったから。でも食えればいい。朝ぶりの飯に俺は夢中になっていた。
「祐?」
だからばあちゃんが起きてきたことに気づかなかった。
「ばあちゃん……」
「どうしたのこんな夜中に」
あ、正気だ。膝から力が抜けそうになった。
時々、予告なくばあちゃんは戻ってくる。それが今だった。
「ちょっと腹へって……食ってた」
俺も戻る。ばあちゃんに逆らわなかった、小学生のときに。
「えぇ? 祐がひとりで? へー」
「俺だってホットケーキくらい」
ばあちゃんの目がきらりと光った。知性だ。口にケーキを入れたまま俺は泣きそうになる。
「ちょっと一口お相伴。いただきます」
ばあちゃんは絶対挨拶をする。俺にも紗世も厳しく教わった。あぁ本当のばあちゃんだ、と顔を上げていられなくなる。
「ばあちゃん……頼むから」そのままで、と言いかけた。
「ふむ……。ん、まだまだ『ふわふわの パンケーキ』には程遠いわ」
「え?」
「さぁちゃんはもっと甘い方が好きよ。明日、一緒に練習しましょう」
俺は「うん」と言えない。『明日』は来ないと思った、期待しちゃいけないから。
「それでうまくできたら、さぁちゃん呼んで食べたらいいね」
「っ、紗世は……!」
もう一生ここには来ない。そうだ、紗世が来なくなってから全部ぜんぶおかしくなった、そうだ紗世が許してくれれば、紗世がこの家に来れるようになれば……!
俺が勝手な妄想をする間に、ばあちゃんはシンクの蛇口を捻ってガチャガチャと洗い物を始めた。手元も見づらいのに。
「ばあちゃん、俺が……」
ぎくりとした。
「……ばあちゃん、部屋に戻ろう。ほら、行こう」
ばあちゃんの目はもう何も映してなかった。俺のことも、もう見えてないみたいに翳って光を失っていた。
ばあちゃんが寝ついて戻ると、ぺしゃんこでまずいホットケーキは冷え切っていた。俺はそれを掴んで外に出た。
月が明るい夜で、雑草だらけの庭がよく見えた。稲みたいな草はススキかな、とぼんやり眺める。失敗作は時間が経つほど不味くて、全部食べ切った頃には空が白やんでいた。
あぁなんだっけ、教科書に書いてあった。『東の野に』までしか分かんねぇや。
知らず門をくぐっていた。白が黄色に変わっていく。道を行く、砂利が鳴る。紗世の家が、部屋の窓が見えた。まるで紗世の家から世界が朝になっていくようだった。
——朝なんか来なければいい。ずっと夜でいい、俺だけが起きてる夜でいいのに。
俺は朝に背を向けた。
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