5 カトリーヌの死


 カヅヤの前に死体があった。

 全身を鋭利な刃物で滅多刺しにされ殺されている。特に顔の損傷が激しく、頬はザクロのように裂け、真っ二つに割れた眼球が飛び出し、砕けた頭蓋骨から血液に滲んだピンク色の脳が露出している。最近報道されている死体も同じようなものなのだろうか?

 カヅヤは死体から視線をそらせる。〈探偵〉になる前は死体なんて見たこともなかったのに、〈探偵〉になってからはいくつもの死体を目にした。しかし慣れるものじゃない。

 カヅヤは一度首を振って気持ちを切り替えた。ここに誰かが来る前にやってしまわなければならないことがある。こんなところを見られれば間違いなく犯人だと思われてしまう。さらに運が悪ければ拘束されてしまう。〈探偵〉だと説明してもすぐには信用されないだろう。他人に言わせるとカヅヤは〈探偵〉に見えないらしいから。

 カヅヤは〈占いババア〉ことシマダユキエの死体が横たわる雑居ビルの一室にいる。ここに来ればキョウコに会えるかもしれないと〈客引き〉のヨシノノブユキが言っていたからだ。キョウコは何かあると〈占いババア〉に相談していたらしい。その〈占いババア〉はその名前ほどは年をとっていなかった。占いお姉さんほどではないが、占いおばさんぐらいが適当だった。あれほど顔面が破壊されてもなお、かつては美人だったことが分かる。〈占いババア〉というのはちょっとした照れ隠しのようなものだったのだろう。

 タイムリミットの夜明けまで時間は限られている。カヅヤは部屋を調べ始めた。〈占いババア〉の仕事部屋はいかにもといった雰囲気だった。真っ黒の分厚いカーテンで窓が塞がれた部屋は一切の外光が入らず、明かりは中央のテーブルと部屋の隅に置かれた背の高い燭台のロウソクの光だけ。その中央のテーブルには水晶玉やタロットカードが置かれ、壁際のアンティークらしい時代がかった棚にはこれもかなりの年代物の精巧な細工が施された天球儀や天秤、アルファベットではない何か幾何学的な形の文字が刻印された革表紙の本が並んでいる。さらにその上には黒山羊の頭の剥製まで吊されている。自分は〈占いババア〉なんだと過剰に主張する部屋だった。まるで映画のセットのような部屋だった。

 薄暗い部屋を目を凝らして見てみたがカヅヤが探すものは見つけられなかった。そこでカヅヤはちょっとした思いつきから──いや、思いつきというより突然頭に浮かんで来たことから〈探偵〉らしいことをしてみることにした。部屋にあるロウソクの炎を全て吹き消してみた。同時に占い師の部屋は闇に沈んだ。立っている場所はもちろん、上も下も分からないほどの深い闇だったが、カヅヤは目をしっかり開けたままでいた。時間が経つにつれ目が慣れてくる。それからゆっくりと頭を動かすと、ちょうど左に九十度の位置に『コ』の字型の光の筋が見えた。手探りで近づき、その手が壁に触れるところで足を止めた。その光の筋に沿って手の平を這わせ、胸の位置あたりに小さな凹みを見つけた。凹みの中には小さなレバーのようなものがあり、それを上に捻ると小さな軋みをたてて扉が奥に開いた──まさに〈探偵〉だ。

 そこは今いた部屋の半分ほどの広さの部屋だった。窓からのネオンの光だけでは十分ではないので、スイッチを探して天井の照明をつけた。蛍光灯の光が目に痛い。

 部屋には普通のシングルベッドと書き物をするような普通の机が置かれている。さっきの部屋とは違っておどろおどろしい感じはない全く普通の部屋だった。彼女はここで生活もしていたようだ。カヅヤは机に近づき、その上に置かれたものを見た。少女向けの雑誌がいくつかと、書きかけの原稿用紙。そこには『好きな男子から告白されるおまじない』という文字が見え、『カトリーヌシマダ』という名前が記されていた。彼女はこういう仕事もしていたようだ。机の上には古いウサギのぬいぐるみもいて、さっきの部屋とは雰囲気が真逆だ。カズヤはそのウサギのぬいぐるみに向かって「やぁ」と片手をあげて挨拶してみる。

 カヅヤは一呼吸おいてから机の引き出しを上から順番に開けていった。細々した文房具やマニキュアなんかの化粧品が少し入っているだけでほとんどが空だった。一番下の引き出しを開けると、そこだけ重量感があり過去の原稿の束が積み重ねられていた。期待せずにめくっていくと、その間に隠されるようにスクラップブックが一冊あった。カヅヤは手に取って開いてみた。

 スクラップはK町で起きている連続殺人の記事で占められていた。新聞や週刊誌の区別なく、あの事件に関係することは全て切り取られているようだった。彼女はそこから何を知ろうとしていたのだろう? 本当はどこまで知っていたのだろう? 彼女が死んでしまった今となってはもう分からない。

 ぱらり──とそのスクラップブックの間からメモのような紙が一枚落ちた。カヅヤが腰をかがめ手に取ろうとした時、向こうの部屋で物が倒れるような音がした。

「誰だ!」

 誰かいる。カヅヤが声を出したと同時に足音が響いた。カヅヤは素早くメモを拾うと上着のポケットに突っ込んだ。玄関が開く音がして、カヅヤはその後を追った。

 あの占い部屋にはまだ他に繋がる部屋があったんだ。そこに誰かが潜んでいた。カヅヤは廊下を走り階段の所まで来ると下を覗いた。黒いレインコートを着た男が階段を駆け下りていた。間違いない、あいつだ。

 カヅヤはレインコート着た男から視線を外さず階段を飛ぶように下りた。一階まで下りてビルを出るとレインコートの男は人目を避けるように表通りからゲームセンター横の路地に入っていくところだった。絶対に逃さない。カヅヤは降り続く雨を突っ切り、全力疾走で追う。

 路地はビルの間を右に左に曲がりながら続いていく。注意し続けなければすぐにレインコートの男を見失ってしまう。ただ幸いなことにレインコートの男はどこかで足を痛めたのか、片足を少し引き摺りながら走っている。このままいけば追いつきそうだった。

 レインコートの男が一度表通りに出てからまた路地に入り、二番目の角を曲がった。もう少し。カヅヤは正面にあったゴミ箱を倒してしまいながらも勢いを落とさず同じ角を曲がった。

 ────?

 レインコートの男がいない、どこに消えた?

 次の角まではまだ距離があった。あの男の足ではそこまでは行っていないはずだ。カヅヤは立ち止まって周囲に注意を配る。

 まさか──と思いながらもカヅヤが頭上の非常階段の方に目を向けたとき、それとは方向が全く違うカヅヤの背後からガタリと音がした。カヅヤは慌てて振り向いた。

 そこにはレインコートの男が手に刃物を持って立っていた。どうやらこの男はあの積まれたコンテナの影に隠れていたようだ。

「お前は誰だ?」

 カヅヤは問いかけるが、レインコートの男が答えるはずもない。代わりにそのナイフのような刃物を手にしたまま一歩近づいてきた。どうやら話し合いで済まされるような状況ではないらしい。

 カヅヤは素早く周りを見た。壁際にはゴミが溜まっているばかりで役にたちそうなものは何もない。レインコートの男が一歩近づき、カヅヤは距離を一定に一歩下がった。と、足に固い物が当たった。さらに半歩下がり、視界の端に鉄パイプをとらえた。まだまだこの世界は俺を見捨ててないらしい。カヅヤはレインコートの男に向いたまま慎重にそれを手に取った。

 レインコートの男はナイフを持った手を突き出し、カヅヤは鉄パイプを胸の位置で構える。同じ姿勢のまま睨み合いが続く。いや、レインコートの男が睨んでいるというのはカヅヤの想像だ。男の表情は深いフードにすっぽり隠れ、見えない。

 互いに動くことができないまま時間が過ぎていく。先に動いたほうが隙をつかれるような雰囲気があった。そんな時──二人の間にあった扉が急に開いた。

「なんだ? なんだなんだ? なんだぁ?」

 左側のビルの中から男が出てきた。男は首のネクタイを緩め、ワイシャツの裾はだらしなくスボンからはみ出している。男はズボンのチャックに手をやったところで二人に気づいた。

「なんだ? ここはトイレじゃないのか? なんだなんだぁ?」

 酔っ払いの男はカヅヤを見、そしてレインコートの男を見る。

「なんだぁ? ん? 喧嘩か? 喧嘩なのかぁ?」

 男は再びカヅヤを見て、そしてもう一度その反対にも顔を向けた。

 レインコートの男は消えていた。

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