1 音の出ないカラオケ


 二一時一七分


「ねぇ、一緒に歌いましょうよ」

 キョウコが画面から振り向いて言った。

「歌は苦手なんだ。それよりその曲を歌い終えたら、少し話をしないか?」

 同じ事を言うのはこれで三度目だ。キョウコはその度に少し頬を膨らませ不満な表情を作る。そしてまた、何も映っていない真っ暗な画面に顔を向ける。キョウコは軽快なメロディーを手に持ったマイクに向かって歌うが、その歌声は彼女が口から発した音量のまま、増幅されることはない。天井に吊り下げられたスピーカーが何も音を流さず機能していないからだ。部屋の明かりはついている。だから電気は来ている。それならこの埃をかぶったタイトーのカラオケ装置が故障しているか、シャットダウンしているだけのこと。キョウコはそれでも楽しそうに歌っている。

「どうだった? どうだった? このまえお客さんがキョウコならアイドルになれるかもって言ってくれたんだけど、どう思う? どう思う?」

 俺はただ微笑んだだけなのに、キョウコはそれを同意と受けとめ嬉しそうに電池の切れたリモコンを手に取って次の曲を入力している。左手には手錠がはめられ、動く度にジャラジャラと鎖が引っ張られているが、キョウコは気にしていないようだ。

 たぶん、この女は何も知らないのだろう。早く組長を殺した犯人を見つけなくてはならないのに何も進んでいない。壁の半周遅れで止まった時計ではなく、俺の手首の腕時計を見る。タイムリミットは迫っている。夜明けまではあと七時間から八時間というところ。奴らはやると言ったらやる。ここなら多少の音を出しても外には漏れない。奴らは本気だ。

「ねぇ、一緒に歌いましょうよぅ」

 俺が奴らのように女を平気で殴れたらどんなに楽だろうと溜息を吐いた時、壁に備え付けられた電話が鳴った。その音だけでかけてきた相手が苛ついていることが分かる苛ついた音。俺は再び溜息を吐いて受話器を取る。

「おい、何か分かったか?」

 辰美若頭直々のお電話だ。抑えられた声のトーンだったが、その奥には暴力的な威圧をはっきり感じた。いつか事務所で見せつけられたように突然重量級のガラスの灰皿で頭を叩き割られそうな緊張感だ。俺はキョウコに静かにするように口に人差し指を当てて示し、それから丁寧にこれまでの状況を説明した。

「それじゃただカラオケごっこを楽しんでいるわけじゃないんだな?」

 俺は背中に冷たい汗を感じながら壁の隅の赤いLEDを点滅させたカメラを見上げる。この店が営業していたときからあったもののようで音声を拾う機能はないようだが、しっかりと映像では監視されている。下手なことはできない。そう、たとえば全てを放り出して逃げるとか──。

「で、その〈探偵〉とやらはまだなのか?」

 俺もいつまでも〈売春婦〉のカラオケごっこに付き合うつもりはない。そろそろ〈探偵〉と会って話がしたい。

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