第49話『異世界オジサンの驚き:女性の親切心に感じた違和感』

 夜空に浮かぶ満月を見上げながら、一口おはぎをほうばる。部屋の中でエアコンをつけて過ごしていた暑さの盛りも、いつの間にか過ぎ去り、すっかり彼岸も明けた。窓を開けると、涼しい風が髪をいていく。もう、ガリガリ君もいらない。そろそろ、ホットの午後の紅茶ミルクティーが美味しくなる季節だ。季節の変化とともに、心にも変化が訪れる。




 夏の間は、2週間で中編1作品書き上げるくらい情熱を傾けていたのに、いつの間にか火は消え書けなくなった。


「オレの書き物は面白いのだろうか?」


 そんな疑問が頭に浮かんで、書けなくなった。




 だからと言って、題材や閃きがなくて書けないわけではない。


 もっと、メンタル的なもので、心の底からフツフツと意欲が湧かないのだ。


「何を書いてもつまらない」と思うのだ。


 なんと、表現したものだろうか、これまでに身に着けた腕で書いているだけで、これを書きたい、この人を書きたい、こんな思いを伝えたいと言った人間味を表現できなくなったのだ。




 昨日、土曜日は、友人とバンドの練習で、尼崎市から、大阪まで出る。阪神電車で梅田まで出て、そこから市バスで、目的地まで行く。


 大阪は土曜日ともなれば人が多い。バスは座席が埋まり、次に乗り込んでくる人の席はない。


 と、そこへ、杖を突いたおばあさんが、足元をふらつかせながら乗り込んできた。目的地は知らないが、とても、立っては居られないだろうと思って傍観していたら、さっと、ぽっちゃりした女性が、「次、降りますので、こちら、どうぞ」と、おばあさんの手を掴んでサポートして自分の座っていた席に座らせた。


「人の親切ってありがたいねえ」


 なんて、思っていると、次のバス停も、杖を突いたおばあさんたち3人が乗り込んできた。ここでも、やはり、ぽっちゃりした女性が率先して席を譲り、旦那さんも席を空けた。これで2席開いた。後の一人は、仲間のおばあさんの横、僕の一つ前の席に立った。


「え? これ、俺が席を譲る流れじゃないか?」


 極悪非道、冷酷無比の僕は、流れや空気感、忖度そんたくはしたくない。それに、俺の目的地は終点間際なのだ。だから、譲らない。



 と、セコい考えをしていたら、隣の小学生くらいの男の子を連れたお母さんが、「こちら、どうぞ」と立ち上がって席を譲った。


 健康で体力もありそうで若そうな俺のセコさを見抜いたのだろう。さすが、手前勝手な独身者とは違うのだ。子育てで、人の大変さを身に染みて理解する母親だから、女の情が働いたのだろう。頑迷なオジサンの俺をあきらめて自分が率先したのだろう。




「なんだ、このバスの空間は、『どうぞ、どうぞ』とまるで、ダチョウ倶楽部さながらではないか」


 人非人の俺は、この乗り合いバスに一種の違和感のようなものを感じた。




 俺は、ひねくれているから、親切が重なり続けるのに、気持ち悪さを感じた。それは、まるで新興宗教にどっぷりと嵌って妄信する信者を見るように。なぜ、これほどの親切が気持ち悪いと感じるのだろうか? 例えば、親切をするのが当たり前、むしろ、老人には必ず席を譲るのが必然となる風潮が怖い。健康に見えても心肺機能の不調や、もよおしているのを必死で我慢しているかもしれない。人の表面だけで、決めつける善意の裏に脅迫的な強制があるように感じてしまうのだ。


 実は、この後、さらに、2件席譲りの親切に出くわした。偶然、1件や、2件の事例なら偶然と思えるが、合計5件の席譲りに、およそ30分のバスの移動で出会ったのだ。


 ここまで、親切がつづけば、逆に気持ち悪い。「なんか、このバスの路線のエリアには、新興宗教の総本山でもあるのか?」と邪推し、グーグルマップで検索してみたが、それらしい施設もない。


 親切の違和感の正体がわからぬまま、目的地で降りた。




 いや、健康な人が、老人や女性、病気の人へ気遣いをする優しい世の中になったのは、とても良いことなのはわかるが、ちょいと、親切すぎやしませんか? と疑問も感じる。


 生きるって、どこか椅子取りゲームのようなところもあって、一つの席を数人で取り合う厳しい現実があるはずだ。だが、このバスには、そんな現実の方が、幻のように優しい世界があった。


「俺の生きる世界と違う」


 昨日の体験を一日寝かして、改めて思い返してみたが、やはり、違和感は消えない。




 俺が病んで眠っている間に、世の中は変わってしまったのだろうか、親切すぎて、そこはかとなく薄気味悪さを感じる。人間は、そんなに優しい生き物なのだろうか。


 俺は、ちょっと、不満や怒りをぶつける掃きだめのようなSNSの世界に慣れすぎて、現実は親切で優しい社会になっていることすら気が付かないだけだろうか。


 現在、書けなくなったと虚無感に苦しむ、俺は現実を生きているのだろうか? 俺の抱える虚無感は、現実ではなく虚構ではないだろうか? これは、自分が法則に従って書くようになって感じるようになった不安なのだが、筆跡の先がなんとなく見えてしまって、これまで感じていた、次はどんな展開になるんだろうという、ワクワクとした驚きや、発見を自分の筆跡からは感じなくなってしまったのだ。自分の筆が上がっているのか、下がっているのか、面白いのか、面白くないのかわからない。


 ボンヤリと自分の中にあった面白い基準が消え去ってしまい。どこに向かっているのかわからない不安定な心持なのだ。それは、ぽっかりと胸に開いた穴のようで埋めがたい。


 そんな、虚無感がこのエッセーを認めながら浮かんでくる。



 虚構の世界を借りて、人間を描く――。


 俺の知ってる人間、人を出し抜くようなずるい人間は、もはや、創作の世界にしかいない。非現実の人間でしかないのだろうか。


 だから、俺は、最近のアニメやドラマを見ても、ピンと来ないのかも知れない。


「う~む、俺の知ってるリアルな実感が乖離してきたのかもしれない」




 こんな雑記を書いている目の前には、女子高生が問題集を広げて、勉強をし、そこに、遅れて気のよさそうな友達が現れて、並んで問題集を開く。だが、四人掛けの席を一人で独占するずうずうしさもある。


 おばあちゃんの3人グループは、大声で、携帯の話題を皮切りに、食う物、着る物、暮らしの笑い話を繰り広げ、隅っこのカウンターで、聞き耳を立てながら静かにキーボードを叩く俺の存在は眼中にない。


 そうか、俺のような書き物するオジサンの感覚は、彼女らの生きる世界とは違う、まるで異世界に生きているのかのようだ。だが、それも一つの現実なのかもしれない。異なる世界が交わることで、新たな視点や気づきが生まれる。


 そんなことを、下町の喫茶店で思いながら、ふと気づいた。現実と虚構の狭間で揺れ動く自分の心もまた物語なのだと。俺は異世界の森を彷徨さまよう住人の一人なのだと。



〈了〉



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