第6話 知りたいこと


 お風呂ではしゃぎ疲れた南央は早々に眠りについた。子ども用の布団で寝息を立てる南央を見守りながら、端にずらしたローテーブルを囲んで東真は試験勉強をしていた。



「東真、お茶淹れたよ」


「僕の分までわざわざありがとうございます」


「ついでだから大丈夫」



 文哉は服と一緒に持ち込んでいた緑茶を2人分淹れてキッチンから戻る。顔を上げた東真は眉を下げてコップを見たが、その香りに頬が緩んだ。



「あとどれくらい勉強するの?」


「もう終わります。最後の確認だけだったので」



 東真はそう言うと、今見ていたベージを読み終わったところで教科書を閉じた。端々に傷や擦れが目立つ教科書。扱いが雑というより、これでもかというくらい使い込まれたもの独特の破損の仕方だ。



「終わりました」


「早いな。不安とかないの?」


「ありませんよ。大学受験もしないので理解度のチェックくらいの意味合いですし。まあ、全員受けるように言われているので受けるだけってことですね」



 東真が曖昧に笑うと、文哉は眉を顰めた。東真はそれを視界に入れたが、フッと視線を逸らして誤魔化した。



「こんなに使い込んでいるのにか?」



 リュックに教科書を仕舞う背中に文哉は声を掛けた。東真はピクリと反応したが、振り返ることなく荷造りを続けた。


 そのリュックも何年も使い込まれていることを表すような擦れ方とくたびれ方をしている。棚の中にはどれも使い込まれてよれよれになった教科書と、プリントが挟まれて分厚くなった数冊のノート。



「本当はもっと勉強したいんじゃないか?」



 文哉の言葉に、今度は東真の動きが止まる。文哉はその背中をジッと見つめる。部屋には南央の寝息だけが聞えていたけれど、そこに東真が何か呟く音が混じった。



「ん?」


「大学なんて、諦めるしかないんですよ」



 プルプルと震える拳を握り込んだ東真が、平静を装おうとしながら紡ぐ言葉を文哉はジッと聞いていた。スッと立ち上がって東真の背中に手を当てると、その背中をトントンと柔らかく叩く。



「知り合ったばかりで頼りないかもしれないけどさ、話、聞かせてくれないか?」



 文哉の穏やかな声に、東真はふるふると首を振った。そのまま文哉の手をやんわりと引き離そうとするけれど、文哉は逆にその手を掴んで東真を抱き寄せた。


 東真はそれでも文哉を拒もうと手で押し退けようとしたが、文哉はさらに力を込めて抱き締める。全く身動きが取れなくなった東真がポンポンと文哉の背中を叩いて降参した。



「話します。話しますから、離してください」



 東真の耳は赤く染まっていた。文哉は一瞬首を傾げたが、すぐに東真に手を貸して立たせた。手を引いたまま座布団に誘導して座らせると、東真は膝を抱えてギュッと丸まった。


 向かいに座った文哉は東真の様子をジッと観察しながら緑茶を一口啜った。


 膝を抱えているから文哉が顔色を窺うことはできないが、髪の隙間から覗いている耳は赤くなっていた。ふるふると頭を振るごとに髪が揺れる。滑らかさはない動きに文哉は眉を下げた。


 深呼吸をした東真は顔を上げると、口をもにょもにょ、ぱくぱくと動かして話始めようとした。



「一旦緑茶でも飲んで落ち着きな」


「はい、ありがとうございます」



 南央が寝ているとは言え静かすぎる声で返事をした東真は、促されるまま緑茶を啜った。それからホッと息を吐くとコップを置いた。正座をして手を膝の上に置くと、その手を組んで力を込めた。



「えっと、どこから話せば良いのかが分からないんですけど」


「生まれたところからでもその前からでも」



 文哉の返答に、東真はキュッと唇を真一文字に結んだ。小さく開かれた口から息が深く吸い込まれた。



「僕の母は大学時代から僕の父に当たる人と交際していました。卒業後すぐに父との子どもを身籠ったんですけど、父にそのこと伝えたら別れを切り出されたそうです」



 東真はコップの水面をジッと見つめる。薄緑の緑茶の水面に暗い目をした東真が映る。文哉はただ黙って東真の言葉を待った。



「母は僕には罪がないからと、祖母の反対を押し切って僕を産みました。父はその間に行方をくらましていて、母は新卒で就職した会社から産休と同時に退職を迫られて無職のまま僕を産んだんです。もちろんその後の生活は大変だったと思います。母は夜の街で仕事をしながら僕を育てようとしてくれました」



 ギュッと目を瞑った東真は、静かに深呼吸をしてから目を開けてもう一度口を開いた。



「けれどその仕事も上手くいかなかったようで、僕が四歳になる頃には知らない男の家に入り浸るようになりました。当然なのかは分からないですけど、僕は家で放置されることも多くて。お腹を空かせたりお風呂に入れない日が続きました」



 淡々と話す東真の話を黙って聞いていた文哉は、グッと拳を握り締めた。



「そんな日々の中で母がふらりと帰ってきて、思い出したように僕の世話をしたり僕の母としてしっかりしなきゃと泣いたりするのが当時の僕の日常でした。でも、そんな日々はあっけなく終わりました。母は頑張れなくてごめんねと言いながら、僕の目の前で首を吊りました」



 文哉の喉がヒュッと音を立てる。いつの間にか震えていた手を抑え込むようにしながら奥歯を噛み締めた。


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