「グッバイ、イエロー・ブリック・ロード」 ③

 聖アンナ教会には、想像していたように猫がたくさんいるわけではなかった。

 シスター・エメシェの話では、教会から少し離れたところにある広い公園が猫たちの住処になっていて、近所に住む猫好きが何人か、そこに毎日餌を置いてやっているのだと云う。

 シスター・エメシェはそこで産まれた仔猫や怪我や病気をした猫を保護し、元気になったらまた公園に放してやったり、里親がみつかれば引き取ってもらったりしているのだそうだ。

「――地域猫というやつね。猫たちは餌だけもらって気儘に暮らしているけれど、それでも偶にどうしても人の手が必要なこともある。私はその手助けをしているだけなのよ」

 ルカは残っていた仔猫用の粉ミルクや、哺乳瓶など一式の入った袋と、仔猫の入った箱を教会の椅子の上に置いた。するとシスターは早速、箱を少し開けて中をそっと覗き込んだ。ふたりがちら、と顔を見合わせ、叱られた子供のようにしゅんと顔を伏せる。

「まあまだ小さいのね。生後三週間くらいかしら」

 仔猫は箱の中からこっちを見上げ、ミャーと鳴いた。そして箱の中をよたよたと動きまわり始めた。ミャーミャーとなにかを訴えるように鳴きながら箱の縁に沿ってぐるぐると廻るその様子を見て、シスターがあら? とルカに向く。

「確か、電話では二匹って――」

「実は……死んでしまったんです。夜中に箱から出てしまって、たぶん……寒さで」

 ルカが答えると、テディは持っていたクッキーの缶をぎゅっと抱きしめた。

「まあ……ひょっとして、そこに?」

 テディは缶を抱いたまま、こくりと頷いた。

「……残念だけど、うちではその仔のためにはなにもできないわ。カトリックでは動物は、人のように天国に行けるとは教えられていないのよ」

「……はい、知っています……。でもどこか、埋めてやれる場所だけでもありませんか。土に返してやるくらいならいいでしょう?」

 シスターは公園の一角に花壇があるとだけ教え、この心優しき若者たちに神の祝福がありますよう、と祈りを捧げた。





 フラットに帰ると、何故かいつもの部屋がますます寒々として見えた。

 ほんの一日、それも箱の中からほとんど出してやりもしていなかった存在がなくなっただけで、こんなにも寂しく感じるものなのかとルカは思った。テディも同じなようで、沈んだ表情で無言のままベッドに腰掛け、はぁ……と重く溜息を溢している。そしてふと顔を上げ――昏い色をした目を一瞬見開いた。

 視線の先に、ネズミのぬいぐるみが転がっていた。袋に入れ忘れたらしいそれを床から拾いあげ、ルカは云った。

「……仕事がみつかったら、もっと暖かい部屋を探そう。さっきの公園の近くにあればいいな……あんなふうに自由にさせておいて、寝るときとごはん時だけ帰ってくるような飼い方だっていいじゃないか。そしたら俺たちも安心して部屋を空けていられるし」

 しかしテディは、黙ったまま首を横に振った。

 わかっている――別に、ペットが飼いたいというわけじゃないのだ。ルカはテディの隣に腰掛け、悄気しょげている肩を抱いた。



 テディには生まれつき父親がおらず、母親も十四歳のときに亡くしている。

 まだこんな関係になる前に、なにかあったら絶対たすける、ずっと一緒だと誓ったことがあったな、とルカは思いだしていた。

 今思えば、あれは天涯孤独なテディへのただの同情だったのかもしれないし、人ひとりを自分の人生に引き込み背負っていくということの意味も知らず、何気無く発しただけの言葉に過ぎなかったのかもしれない。その証拠に、ルカは過去に何度もこれでもう終わりだとテディを見限ろうとしてきたし、テディのほうからもうやめよう、離れようと云われ、引き留めず頷いたこともあったのだ。

 だが結局、何度そんなことを繰り返してもふたりはまだこうして一緒にいる――テディはどれだけ不実なことをしても帰るところはルカ以外にないし、ルカもテディの裏切りにどれだけうんざりしても、最後の最後では見限ることなどできなかったのだ。

 あのときの誓いが呪いとなって絡みついてでもいるのか、それとも告白したときに片膝を立ててしまっていた所為か、とルカは学生の頃のことを次々と思いだしていたが、そのとき――ふっと、ある考えが閃いた。

「――もうブダペストを出ようか」

「え?」

 ルカはブダペストではないがハンガリー出身で、テディは子供の頃ブダペストで暮らしていたことがあったと云っていた。だから十八歳になり、ロンドンを出てどこか他のところへ行こうという話になったとき、テディが提案したここ、ブダペストを選んだ。


 ダニューブ川に架かるセーチェーニ鎖橋と、それを見守るライオン像。ブダの丘に建つ王宮、ネオ・ゴシック建築の国会議事堂、モザイク屋根が美しいマーチャーシュ聖堂に聖イシュトヴァーン大聖堂など、見処を挙げていけばきりがない、真珠にも喩えられる美しい街ブダペスト。

 多くの歴史的建造物のみならず、欧州最大規模の温泉施設や二階建ての大きなマーケット、国立歌劇場やハイブランドのショップが立ち並ぶアンドラーシ通りなどもあり、通年たくさんの観光客が世界中から集まってくる。ルカとテディもこの場所に辿り着いたとき、その美しい景色と街の活気に、心を躍らせていた。

 だが――そんな素晴らしいこの街も、手に職も学歴もなにもないふたりをまだ歓迎してくれてはいなかった。

 治安は悪くなく物価も安く、決して暮らしにくくはないのだが、ちょっと人が溢れすぎているのかもしれないとルカは思った。仕事はなかなかみつからない。そして職探しに出かければ、近くにまずあるのは十軒を超すゲイバーやナイトクラブ。

 この部屋を借りたときは知らなかったのだが、このフラットの近辺は特にゲイシーンの盛んなところだった。近くにあるからついそういう場所で不貞な行為をしてしまうというわけではないのだろうが、変えたほうがいい環境であることには違いなかった。


「おまえ、昔云ってたじゃないか。プラハがいちばんよかったって。プラハならここらと街の雰囲気はそんなに変わらないけど、もうちょっとのんびりした感じで暮らせるんじゃないか?」

 テディはプラハと聞いて少し驚き、想い出が脳裏を過ぎったのか、すぐには答えず目を細めた。

「……プラハは……そうだね、いいところだった。でも、俺はいいけどルカ、チェコ語話せないんじゃ……」

「今は話せないけど、大丈夫だよ。住んでりゃすぐに覚えるさ。それに英語でだってなんとかなるだろ」

「うん、観光客の多いところは英語が通じる店もけっこうあると思うけど……」

 そう云ってじっと見つめてくる瞳に、ルカはうん? と眉を上げた。

 テディはなにか云いたげに口を開いたり、また引き結んで俯いたりしたあと、小さく「ありがとう、ルカ……」と云った。なんだ、と思ってルカは肩を引き寄せ、テディをぎゅっと腕の中に閉じ込めた。

 テディは本当は最初からプラハへ行きたかったのだ。だが自分がチェコ語を話せないことを気にして、ブダペストと云ったに違いない。

「よし、もう決めた。今日は荷造りしてさっと部屋を掃除して、明日は朝一でここを引き払う。それからプラハ行きのバスに乗るんだ。そしたら夕飯時にはもう着いてるさ」

 ブダペストからプラハまでは列車でも長距離バスでも七時間ほどかかる。が、荷物が多いときはバスのほうが楽だし、チケットもかなり安い。もちろん飛行機で直行便も出ているが、ルカの頭の中にその選択肢はなかった。

「……じゃ、今夜は外に食事に出て美味しいグヤーシュGulyásを食べよう。そのあとインターネットカフェで安く借りられるフラットとか、下調べしておこうよ」

 ハンガリーの伝統的な定番料理であるグヤーシュはルカの好物だ。いつもならあまり金をかけず簡単に済ませたがるテディが気を遣っているのだとわかって、ルカは頷いた。

「よし、とびきり旨い店に行って食おう。テルテットパプリカ Töltött paprika も食いたいな。デザートはドボシュトルタDobostortaかな」

「いいね。それなら早く荷物片付けなきゃ」

「ああ、掃除が終わったらシャワーも浴びて、いちばんいい服を着なきゃな」

 二月の極寒の時期にここへ来てから約一ヶ月半――思えば、あまりいいこともなかったこの場所にしがみつく理由など、なにひとつないのだ。

 ルカはなんとなく晴れやかな顔をしているテディを見て、ひょっとしたらドロシーが道をつけてくれたのかもしれないと、まだ手の中にあったネズミのぬいぐるみを見つめ、ふっと笑みを浮かべた。




       * * *




 ふたりはプラハ七区に安いフラットをみつけ、そこで新しい生活を始めた。

 安いとはいってもブダペストで借りていた部屋よりは家賃が上がってしまったが、そのぶん部屋は東向きで明るいワンベッドルームの、ふたりで暮らすには最適な広さの部屋だった。

 ルカは開き直ったかのように父親から振りこまれている金を惜しげもなく使い、仕事を探すにはやはり必要だからとモバイルフォンも持ち始めた。テディもそれに対してなにも云わず、ほとんどのことをルカに任せていた。

 部屋には家具や家電など必要なものが備わっていたので、契約をして鍵をもらうだけですぐに住める状態だった。だがルカは、大きなホームセンターをみつけて入るとベッドシーツやバチコリbačkoryという室内履きや、タオルや洗面道具など細かい物までしっかりと買いこんだ。まあ、そのあたりのものはどのみち必要だし、とテディはまだ黙っていたが――いったん荷物を置きに帰り、再度出かけてまた違う店に入ったとき、ルカが食器や小さな鍋やフライパンなどをどんどんショッピングカートに放りこんでいくのを見て、とうとう「ちょっと」と声がでた。

「買いすぎじゃない? そんなの一気に揃えなくても――」

「いいんだよ。今度はちゃんとしよう。今までなんにも買わなくて、ちゃんと生活してくんだって感じがなさすぎたんだよ。メシだって、自分らで作ったほうが安あがりなはずだろ」

「だって……俺もルカも料理なんて――」

「できるさ。やればちゃんとできるよ。仔猫のミルクだって、説明読めばできたじゃないか」

 それを聞いてテディは不意を突かれたように目を見開き、そして苦い笑みを浮かべて頷いた。

「そうだね……ちゃんとやろうと思えばできるのかも」

「家の中をちゃんとして、腰をしっかり落ち着ければ仕事もみつかる気がするんだ。だから、おまえが嫌がるのはわかっちゃいるけど、そのための初期投資だけ我慢してくれ。おまえがもやもやした気持ちにならないように早くするために、使える金を使うんだ。だからごちゃごちゃ考えないで、今は我慢してくれ。頼む」

 きっぱりはっきりとそう云われ、テディはこくりと頷いた。

「週にいくらまでとか、きちんと決めて使うようにしようよ。そのほうが無駄遣いしないで、自炊も頑張れる気がする」

「それがいいかもな。よし、じゃあいったん帰って今度は調味料とかも買わないと。……ああでも、そうすると一昨日おとといの晩みたいなディナーはもう食えないのか……」

 云った傍から未練たらしくそう溢すルカに、テディは呆れて溜息をついた。

「なんだよ、ついさっきまで俺、ルカのこと見直してたのに。……いいんじゃない? ディナーだと高くつくから、安くて美味しいお店みつけて、偶にランチに行くくらいなら」

「そうだな。ランチならいいか。じゃ、さっさと買ったもの置きに帰って食いに行こう」

 そう云ってルカはがらがらとカートを押し始め、テディはえぇ? と小首を傾げながら慌てて追った。

「ちょっと、早速? もう、やっぱりルカほんとは自炊なんかする気ないだろ」

「気持ちはあるさ。ま、今日はいいじゃないか、まだいろいろ揃ってないし。レジの人にでも訊いてみてくれよ、安くて旨いランチ」

「しょうがないなあ、もう……」

 頼まれたとおり、テディはレジで三十代後半くらいの女性店員に「こんにちはDobrý den」と挨拶をし、このあたりで美味しいランチが安く食べられる店はないかとチェコ語で尋ねた。店員は気さくに、ヴァーツラフ広場の辺りにホスポダがいくつかあって、どこもお薦めよと教えてくれた。

どうもありがとう Děkuji moc 」と云ってふたりは大荷物を抱え、いったんフラットへと帰った。




       * * *




「――うん、この店は昨日のよりかなり旨いな」

 プラハで暮らし始めてから二週間ほどが経った頃。結局ふたりはまともに自炊と呼べるようなことはせずじまいで、昼食も夕食も毎日外で食べていた。

 朝から仕事探しに出かけ、昼を過ぎると前日とは違うホスポダへ行ってみて、ランチを食べる。気に入れば、夜また同じ店に行く。ホスポダ巡りをして美味しい店を探すのと、ハンガリー料理と似ているようでちょっと違うチェコ料理をいろいろ食べてみるのが、すっかり楽しみになっていた。

 スヴィチュコヴァー・ナ・スメタニェ  Svíčková na smetaně  クネドリーキKnedlíkyブランボラークBramborákなど、チェコ料理はルカの口にとても合った。グラーシュgulášパラチンキPalačinkyのようにハンガリーと共通するメニューもあり、ビールが水よりも安くて美味しいので、ルカは食事のとき一杯飲むのがすっかり習慣になった。

 甘党のテディはトゥルデルニークTrdelníkがお気に入りで、帰りに見かけるたびに買っては、翌朝カフェオレを飲みながら朝食代わりに食べたりしていた。

「ボリュームもあって安いし、いいね。スマジェニースィール smažený sýr もう一口もらうよ」

「おう、食え食え」

 店の外側にあるテーブルで、ふたりはスマジェニースィールというタルタルソースの添えられたチーズフライをシェアし、グリルドチキンのランチを食べていた。

 この日は天気もよく、上着はまだ脱げなかったが、こうして外で食事をしていてももう寒さは感じなかった。


 ――季節はすっかり春。ドロシーを葬送おくったあの公園の花壇も、もう膨らんだ蕾が開き始めているに違いない。そして強く生き残ったほうも、今頃は自分たちのかわりに誰かが名前をつけているだろう。小さい仔は貰い手がみつかりやすいと、シスター・エメシェは云っていた――きっと、新しい出逢いに恵まれているはずだ。


 ころんと丸いフォルムのビアマグを片手にルカはなんだか上機嫌で、学生の頃のように音楽の話をしながら〝 Happy Togetherハッピー トゥゲザー 〟を口遊んだりしていた。テディはくすくすと笑って、ルカを見つめながらガス入りの水を飲んだ。

 そこへ影が落ち、ふたりは同時に傍に立った店員を見上げた。

 テーブルにボイルドポテトらしい皿が置かれるのを見てん? と揃って首を傾げる。

「はい、お待ち。ボイルドポテトね、ご注文は以上で?」

「頼んでないぞこんなの」

「……あの、頼んでないです。このテーブルじゃない」

 ルカが英語で呟き、テディがチェコ語でそう云うと、その長身の、目付きの鋭い若い店員は困ったようにぽりぽりと顎を掻いた。

「――いいや、サービスだ。面倒だから食ってくれ」

 今度は英語で店員がそう云った。もうほぼ食べ終え、腹が膨れていたルカはテディと顔を見合わせ、肩を竦めた。

「ありがたいけどもうそろそろ行くし、ちゃんと注文したテーブルを探しちゃどうかな」

 しかしその店員はポテトを下げようとせず、ルカたちのテーブルから離れようともしなかった。

 いよいよルカがその客商売に向いてなさそうな強面を訝しげに睨み始めたとき、その店員は云った。

「――あんたたち、観光客か?」

「え? ……いや、違うけど、それが?」

「観光客じゃないのか。でもあんたはチェコ語は話せないようだな、学生?」

 いきなりフランクに訊かれ、ルカは少しむっとした。

「どっちでもないよ、なんなんだよいったい。――テディ、もう帰ろう」

「え……」

 すると店員は焦ったように、席を立とうとするルカを引き留めた。

「待ってくれ、気分を悪くさせたなら謝る。……さっき、あんた歌ってたろ。それで気になったんだ――」

「歌?」

 ブロンドの短い髪をパンクスのように立てた強面の店員はああ、と頷き、そして云った。

「――あんた、バンドで歌う気はないか?」









━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

♪ Elton John "Goodbye Yellow Brick Road"

≫ https://youtu.be/wy709iNG6i8


グッバイ、イエロー・ブリック・ロード [Unrated version]

https://kakuyomu.jp/works/1177354055534384935


★ ZDVシリーズ ★ コレクション

https://kakuyomu.jp/users/karasumachizuru/collections/16816452219399749429

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る