Just My Imagination

「過ぎ去りし夢のあとで」 ①

 軋んでいるのは、この古い家の床なのか、それとも自分の足腰なのか。

 ぎし、ぎしと時折たてる音を気にしながら、或いは膝に走る痛みを警戒しながら、私は玄関へ新聞を取りに行った。生まれ育ったこの家にはもう、私ひとりしか住んでいない。優しかった祖父母も大好きだった父も、喧嘩ばかりしていた兄たちも、厳しかった母も皆、既に彼岸の人となっていた。次は自分の番だ――あと数年か、長くても十五、六年かそこらのうちに、そのときが訪れるだろう。

 恐ろしくはない。待ち遠しくさえある。悔やまれることといえば、この家の先祖代々の墓を守る人間がいなくなることだが、それも別にどうだっていい。しょうがない。

 上の兄はまだ学生のうちに早逝し、二番めの兄は都会へ出て一度結婚はしたものの、子供ができる前に離婚してこの家に戻り、躰を壊して親よりも先に逝ってしまった。そして私は、一度もこの家を出ることなく今日まで過ごしてきた。母に無理やり見合いをさせられたことはあったが、結局結婚はしなかった――できなかったのだ。


 台所へ行き、新聞をテーブルに放ると私はコーヒーメイカーをセットした。時間が経てば経つほど不味くなるのはわかっているのだが、面倒なのでいつもまとめて五杯分点てておく。一杯めは今、朝食のトーストと一緒に、残りは執筆中のお供である。

 私は小説を書くことを生業なりわいとしている。たいして大作家というわけでもないが、運良くドラマ化された作品がヒットし、そのシリーズだけはその後もベストセラーの常連で、食べるには困らない生活ができている。だが小説としては非常に陳腐なものだ――テレビのおかげで売れただけの、どこにでもある平凡なホームドラマ。幸せな家族にお決まりのように問題が起きて、揉めて、解決して、絆が深まる……その繰り返し。ただの理想だ。けれど、どうやらこういうものが好きな人というのは少なくないらしい。

 私はバターと苺ジャムを重ねて塗ったトーストに齧りつきながら、老眼鏡をかけて新聞を広げ――ふと、ある文字の並びに目を留めた。

 お悔やみ欄のなかにみつけたのは懐かしい、忘れられない名前だった。

 自分も、いつお迎えが来たっておかしくない年齢である。だからそこにその名前があることもそう不思議ではないのかもしれないが、しかしやはりまさかという思いが過ぎった。老眼鏡をかけ直し、何度も確かめるようにその囲いの中を読む――年齢は私と同じ。とうとう慣れることのなかったその姓も、意外と少ない漢字一文字のその名前も、括弧書きで記された旧姓も、間違いなく彼女のものだった。

 きゅっと目を閉じる。脳裏に浮かんだのは、十代の頃の可憐な彼女の姿だった。

 彼女の結婚式には断りきれず出席したが、その後はどんどん疎遠になっていった。子供が生まれたと風の便りに聞いてからはまったく会うこともなく、電話で話すことさえなかった。彼女は育児と家事に忙しくてそうなっただけだったのだろうが、私は違っていた。

 新聞には告別式の場所と日時が記されていたが、私はメモを取ったりすることもなく、静かに新聞を閉じた。





 さくり、さくり。枯れ葉を踏みしめながら進むと、眩しい季節が遠く過ぎ去っていく音がした。歩けば脚が辛いことには変わりないが、今は日差しも穏やかで、吹いていく風はひんやりとして気持ちがいい。

 事前に確かめておいた墓の場所をみつけ、私は持参した花束を、墓石の前に置いた。花立てに挿してある小菊や竜胆は、もうすっかり萎れていた。が、家族が供えたのであろうそれらを除けたりするのはなんとなく気が引けて、墓石に積もったもみじの葉もそのままにしておく。

 秋でよかった、と思った。

 本当なら目立つはずの少々場違いなチューリップの花束は、朱いもみじやプラタナスの黄色にカモフラージュされるようにして、その場に溶けこんでくれた。

 しゃがむと膝が痛んだが、ポケットから数珠を出し、私は手を合わせて彼女に話しかけた。

「……次は間違えないで生まれてくるから、また会おうな」

 友達だった。友達でしかいられなかった。あんなに大好きだったのに――愛していたのに。

 凍りつかせていた想いが融けだすように、頬に熱い雫が伝う。ずっと伝えたかった、伝えることができなかった想いが溢れ、ぽたりぽたりともみじの葉を濡らした。私は杖にしがみつくようにして立ちあがり、くしゃっと枯れ葉を踏みしめながらその場所を後にした。


 帰りは、来たときに通ったのと違う道を選んだ。紅葉が綺麗だったので途中、大きな公園のなかを歩く。アスファルトの上を歩くより、積もった枯れ葉がクッションになるのか、脚も楽なようだった。

 しばらく進むと、なにやら箱のようなものが積まれていて大勢の人が集まっていた。なんだろう、と思い近づいていって、わかった。犬猫の譲渡会をやっているのだ。保護された野良たちの里親探しというやつだ。子供を連れた家族や、若い女性たちが並べられたケージの周りに陣取って、笑顔で中を覗きこんでいる。愛想のいい仔犬がいるのか、きゃんきゃんと吠えている声が聞こえた。

「――ようこそ! 犬と猫、どちらをご希望ですか?」

 遠巻きに眺めていたつもりだったのだが、私に気づいた女性が近づいて、そんなふうに声をかけてきた。

「ああ、私は……偶々通っただけなんだけどね。でも、可愛いね。昔は家に猫がいたこともあるんだけど、もうずっとなにも飼っていなくてね」

「あら! 飼った経験がおありなんでしたら是非協力していただきたいです。引き取り手がみつからないと、そのうち殺処分されてしまうんで……そんな不幸な子を一匹でも少なく、いえ、ゼロにしようっていうのが私たちの活動の目的なんです」

 熱心に誘われ、私はケージのひとつに近づいた。このあたりは猫ばかりが集められているようだ。傍では小学生くらいの子供が名前考えてもいい? と嬉しそうな表情で親に尋ねていた。どうやら仔猫を貰い受けることに決まったらしい。

「あの仔はおうちができたようだね」

「ええ、やっぱり生まれて三ヶ月くらいの仔を希望される方は多いので、早く決まっちゃいます。おとなになってる子のほうが意外と飼い始めは楽なんですけどねー、歳のいってる子はあんまり遊ばないから愛想がないと思われちゃって、なかなか貰い手がつかないんです」

 話を聞きながら、私は並んでいるケージに沿って歩いていた。そして、ふとその真っ白な猫と目が合い、足を止めた。

 ちょん、と行儀よく坐ってこっちを見ているその猫のケージの周りには、誰もいない。

「……この子が、今日このなかでいちばんの年寄り猫です。たぶん十二、三歳くらい、人間の年齢にすると七十歳くらいだそうです。……この子は可哀想だけれど、今日里親さんがみつからないと、もう――」

 殺処分、か……可哀想に。だけど、そのほうが楽だったりしないのか? どこも痛いところはないか? 生きていくのが辛くはないか? 私はその老猫をじっと見つめながら、心のなかでそんなふうに話しかけた。

 すると、猫はすくっと四つ脚でケージの端まで寄ってきて、私に向かってにゃあと鳴いた。

「あら、めずらしい。滅多に人にお愛想しないんですよ、この子」

「へえ、気に入られましたね!」

 ケージの向こう側から若い男が話しかけてきた。同時にさっきまでべらべらと話していた女性は、他の家族連れのところへ行ってしまった。

「こういう言い方は失礼かもしれないですが、どうです。歳の近い者同士って感じで、のんびり一緒に過ごしてやってもらえませんか?」

 背が高く、体付きもがっしりとしたスポーツマンタイプのその青年は、そんなことを私に向かって云ってきた。なんとも憎めない、人懐こい感じのする笑顔だ。私もついつられて笑顔になり「そうだね……うちは広さだけが取り柄で、日当たりのいい縁側もある。この子にはいい住処になるかもしれない」と答えた。

「そりゃあいいですね! えーっとですね、里親を希望される方にはいちおう、トライアル期間ってのがあるんですよ。つまり一週間から十日ほど試しに飼ってもらって、やっぱり無理だとか、先住猫と相性が悪かったーなんてことがあった場合、キャンセルできるんです。なんで、まずは気楽に連れて帰ってみませんか」

 それならいいかもしれない。少なくとも、私が仮に飼っているあいだはこの猫も殺処分されることを免れる。問題がなければそのまま飼えばいいのだし、もしもなにか具合の悪いことがあったとしても、他に貰い手がみつかるまでくらいなら、預かることはできるだろう。これも縁だ。

 些か衝動的ではあったが、私はその真っ白な老猫の里親となる手続きを進めてもらうことにした。だが。

「――えっ、独り暮らしなんですか……。近くにお子さんかお孫さんとか、どなたかいらっしゃらないです?」

「私は天涯孤独で、偶に訪ねてくるのは仕事関係の人間くらいなんだが」

「うーん、それは……困りました」

 なんでも、里親となるには独居でないこと、病気で臥せったときや旅行中など、確実に面倒をみてくれる存在があること、という条件があるのだそうだ。ペットホテルなどは空いていない可能性があり、病気のときなど連れていくことすら困難だったりするからだめなのだと。

「そうか……せっかく年寄り同士うまくやっていけないかと思ったが、残念だ。しょうがない」

「本当にすみません……こちらからおねがいしたことなのに」

 振り返ると、白猫が小首を傾げてこっちを見ていた。

 ――ごめんな、連れて帰ってやれなくて。私は少々がっかりしながらその場を後にしようと歩き始め、まだ遠くない耳に届いた声に苦笑した。

「あれ……あのおばあさん、引き取ってくれなかったの?」

「おばあさんじゃないよ、おじいさんだよ――」

「え、嘘! おばあさんだったでしょ?」

 いつものことだ。服装などで判断した人からは先ずおじいさんと呼ばれたり、近くで顔を見た人にはおばあさんと呼ばれたりする。どちらも正解で、どちらも間違いなのかもしれない――私の心と躰の性は、一致していないのだ。

 このことは誰にも話したことはない。話せるようなことだとは思えなかった。私は、私がただおかしいだけなのだと思っていた。だから誰にも打ち明けることなく、ずっと胸の奥にしまい込んで鍵をかけていたのだ――彼女への秘めた想いと一緒に。




       * * *




 広い公園をまだ抜けないうちに、さすがにちょっと疲れてきた。

 見るとちょうどいい場所にベンチがあったので、私は休憩することにした。腰を下ろし、見渡す限りのあかと黄色に囲まれて、私はまた彼女のことを想った。


 ――夢をみたこともあった。彼女と結ばれ、家庭を持ち、男の子と女の子がひとりずつ。庭には犬、家の中には猫。やがて子供たちが大きくなって、それぞれ伴侶をみつけて。週末には孫たちの顔を見せに皆が集まり、一緒に食事をして賑やかに過ごすのだ。

 だけど、そんなのはなにもかもただの想像、決して叶うことのない夢だった。

 ただ報われぬ恋というなら、他の誰かと結婚すればそれで忘れられたのかもしれない。けれど、私にはそれすらできなかった。母に何度となく見合いをさせられ、そのたびに着たくもない振袖を着せられて、あんな条件のいい人のなにが気に入らないの、いいかげん孫の顔を見せてちょうだい、と懇願された。

 しかし私にとって、男と結婚して子供を産むなど、想像もできない、まったくありえないことだった。

 もしも私が女性と子をなすことができる躰を持っていたら――ふつうの男として気持ちを告げることができていたら、彼女を誰にもわたしはしなかったものを。

 その決して叶わない夢を、ひとり寝床に入ってから思い浮かべる空想の物語を、私は小説というかたちにした。そして思いつきで雑誌に載っていた賞に応募すると、なんと入選してしまった、というわけだ。人々は私の書いた物語を、どこにでもあるありふれた家族の物語なのに、とても貴重で大切な宝石のように輝いている、と評した。

 莫迦莫迦しいほど、言い得て妙だと思った。


 と、ついそんなことを考えていた私は、ベンチに人が近づいてきていたことにまったく気づかなかった。

「――ここ、いいですか」

 突然聞こえたその涼しげな声に、私は少し驚きながら顔を上げた。

 そこに立っていたのは若い、整った顔をした青年だった。青年は、ベンチの空いた部分を指してにっこりと微笑んだ。









「過ぎ去りし夢のあとで」 ② へ続く 🐾

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