「鏡」 ②

 翌日。シリアルで簡単に朝食を済ませると、エレンは子供たちにいい子で遊んでてね、と云い、キッチン横の広いダイニングルームに籠もった。

 裏庭に面した大きな掃き出し窓があるダイニングルームは、アトリエになるらしい。もともと置いてあったテーブルなどを出したあと、運びこんであった荷物を開けて、エレンは快適な仕事場を作るべく忙しく動いている。

 ザックはしばらくその様子を眺めてから、「ノックスを探しに行こう」とタイラーを誘った。もしもノックスが戻ったなら中に入れろと鳴くはずだが、朝になっても猫の鳴き声もドアを引っ掻く音も、なにも聞こえてはこなかった。ポーチに置いておいたいつものキャットフードも、まったく食べた痕跡がない。

「屋根裏は? 屋根裏も探しに行く?」

「いないよ。だって家に入れないだろ」

「木があるよ。木から屋根に行って、どこかから入ったかも」

「どこかってどこだよ」

 まずは庭から探そう。そう云ってザックがキッチンを出ようとすると、「外で遊ぶのはいいけど遠くへ行かないでね! 家の周りから離れないで」とエレンの声が飛んできた。

 ザックははーい、と返事をし、タイラーと一緒に玄関へと向かった。



「ノックス、いないね」

「いないな……どこに行っちゃったんだ」

 荒れた庭を一周し、車の下も見てみたが、どこにもノックスらしい影も気配もなかった。空を見あげると天気はやや曇りで、暑いよりはましかもと思ったが、フードが減っていなかったので水も飲んでいないのではと心配だ。いっそ雨でも降ってくれれば雨宿りに帰ってくるかもしれないのに、とザックは周囲を見まわした。

 辺りには他に家も見えないし、猫が入りこみそうな場所などない。離れたところに納屋は見えるが、とうもろこし畑に遮られているし、あんなところまで行ったとは思えなかった。

 そんなふうにザックが考えこんでいると、タイラーが袖を引いた。

「やっぱり屋根裏だよ。ねえザック、屋根裏、見に行こうよ」

「屋根裏かあ……」

 いないだろうとは思ったが、他に探す当てもない。ザックは、タイラーがうるさいししょうがないなと、屋根裏部屋に行ってみることにした。


 家に入るとザックは念のため、まずリビングを覗いてみた。ソファの陰からノックスがひょこっと顔をだす、なんてことはやはりなく、諦めて準備を整えようと階段を上がりかける。すると、奥のアトリエからエレンが「戻ったのー?」と声をかけてきた。

「うん、部屋で遊ぶー」

「まず手を洗って! 喧嘩しないようにねー」

「はーい」

 返事をして二階へ上がる。するとタイラーが「部屋で遊ばないよ。屋根裏に行くんでしょ」と不満そうに云った。

「わかってる。そう云わないと、屋根裏に上がるなんて云ったら止められるだろ」

「そっか」

 じゃ、準備するぞとザックはその場にタイラーを待たせ、いったん部屋に戻った。


「――もうちょっと右、あーっ行き過ぎ、もうちょっと左……」

「うるさい」

 フックの付いた棒は、廊下に立て掛けられていた。あれ、確かクローゼットの中に放りこんだのに、と思いつつ、ザックは早速それを使って天井にある扉を開けようとした。

 長方形の枠に付けられている小さなリング状の金具めがけ、爪先立ちになりながらめいっぱい腕を伸ばす。だがザックの身長ではそれでやっとぎりぎり届くくらいで、なかなかフックを掛けることができない。

「……あと少しなのに。タイラー、椅子を取ってこい」

 よほど屋根裏に上がってみたいのか、タイラーは「椅子だね」と、文句も云わず部屋へ駆けていった。待ってるあいだ、ザックは再び棒を持った腕を伸ばし、フックをリングに掛けようとした。すると。

「――あれ?」

 今度はすんなりとフックがリングに掛かり、ザックは少し驚いた。掛かった状態で、腕は肘をやや曲げる余裕がある。なんだか、さっきよりも棒が長くなったような気がしたが。

「そんなはずないよな」

 深くは考えず、ザックは部屋から椅子を引き摺って出てきたタイラーを見やった。

「タイラー、もういいや。成功したぞ」

 その場に椅子を放置し、ぱたぱたと足音をたてて戻ってくると、タイラーは天井を見あげて「やった! すごいやザック」と笑顔になった。

 棒をゆっくりと引いてみると、思ったとおりかちゃりと音がして枠が扉のように開いた。その裏側には三つ折りにした梯子が取り付けられている。今度は垂れさがった紐に簡単に手が届き、それを引っ張ると折れていた梯子が伸び、床にぴったり着いて安定した。

「すごいや、階段だ」

「梯子だよ。でも、踏むところ幅があるから上がりやすそうだ」

 ザックが先に、一段一段ゆっくりと上がっていく。半分も過ぎるとけっこう高さがあって怖さを感じたが、しかしそこまで行くと下りるより上がるほうがましな気がした。

 屋根裏部屋に辿り着くと、ザックはポケットから携帯用のLEDライトを取りだし、中を照らした。

「ノックス、いた?」

「いないって」

 真っ暗な中、ライトの光を隅々まで当てて見まわしてみる。中は広くがらんとしていたが、片隅には新聞や雑誌の束などが置いてあった。ぐるぐると巻いてある丸太のようなものは、おそらくカーペットだろう。

 ザックは細く光が漏れている箇所をみつけて近づいた。そこには小ぶりなハング窓があった。ライトで照らしてロックを外し、ザックは長く開けられていないのだろう、重い窓の下部を力を込めて持ちあげた。そしてその向こうにある両開きの雨戸ストームシャッターを、外壁に当たるまで全開にする。

 暗かった空間に光が溢れた。

「わあっ、広ーい」

 やっと上がってきたタイラーが声をあげる。そして、ザックの立っているより左のほうを見て「それなあに?」と指をさした。ザックは「どれ?」とそっちを向き――

「……なにかな」

 と、自分の背丈よりもやや大きなそれに近寄った。

 幅はザックが両手を広げれば抱えられる程度。もとはカーテンかなにかだったのではないかと思われる厚めの布を掛け、しっかりと紐で縛られている。その下からは、トロフィーを削りだしたようなクラシカルなデザインの脚が覗いていた。

「捲ってみよう」

 そう云ってザックが紐を解こうとすると、タイラーも傍まで来た。結び目が固く、解けずに苦労しているとタイラーが「上からすぽって取れるんじゃない?」と云った。確かに形は楕円のようだし、紐が解けなくても布だけ取り去ることはできるかもしれない。

「よし、タイラー。おまえはそっちを持って、上に引っ張れ」

「上に引っ張るんだね、わかった」

 小さなタイラーも一緒になって、懸命に手を伸ばして布を外す。きらきらと埃を撒き散らしながら片側だけ布が抜けると、そのぶんゆとりができて紐も一緒に取り去ることができた。

 そうして現れたのは、中心をスタンドが支え、角度をスイングして変えられるタイプの鏡だった。

「なぁんだ。鏡だ」

「鏡だね」

 鏡は見るからに古そうで、歪みが生じているのか映りこんでいる屋根裏部屋の様子は、奇妙に波打っていた。ザックは正面に立ち、自分の像がぐにゃりと歪んでいるのを見て、興味深げに鏡面に触れた。

 ――その瞬間。水面のように指が鏡に吸いこまれたような気がして、ザックは慌てて手を引っ込めた。自分が動いたからか映っていた顔がさらに不気味に歪み、まるでピエロのように口が耳まで裂けて見え、ぞっとする。

 鏡に映らない位置まで飛び退き、今のはいったいなんだったのだろうとザックは眉をひそめた。――気の所為だろうか。

「……ザック? どうかしたの?」

「……いや。なんでもない」

「ノックス、やっぱりいなかったね」

 タイラーが残念そうに云うと、ザックは「うん、そう云ったろ」と鏡から目を逸らした。

「もう下りよう」

 そう云ってザックは雨戸は開けたまま、ハング窓だけを閉めた。「よし、ちゃんと鍵も閉めたぞ。あと、梯子を戻して入口を閉めてしまえば、もうノックスがここに入ることはないよ。わかったか?」

「うん。入れないね」

 やっと納得してくれたかと、ザックはタイラーを促し、屋根裏部屋を後にした。





 ――その夜。ザックは今日も帰ってこなかったなとノックスのことを考えながらベッドに入った。

 夕食後、ザックの部屋で一緒に遊んでいたタイラーは、エレンにもう寝る時間よと云われ、自分の部屋に戻った。ザックもこっちに来て、と云われるかと思ったが、タイラーはおやすみ、ザックとごねることもなく出ていった。

 ザックはベッドに寝転がると、暗い天井から顔を逸らすように横を向き、溜息をついた。

 ――こんな家になんて、越してこなければよかったのに。

 ここに来なければノックスがいなくなることもなかったし、狭い部屋にひとつだけ置いたベッドでタイラーとノックスと一緒に眠れたのに。ひとり部屋は嬉しいけれど、こんなに眠れなくなるなんて知らなかったし……と、ザックはまたも寝付けず、いろいろなことを考えていた。

 ポーチだけでは気づかないかもと裏にもキャットフードと水を置いたのに、今日も食べた様子はなかった。ノックスはいったいどこに行ってしまったんだろう。ママはお腹が空いたら帰ってくると云ったのに。もう、戻ってこないのだろうか。どこか余所の家まで行ってしまったのか、それとも――

 胸をざわめかせているのはノックスが心配だからなのか、それともひとりでいるのが心細いからなのか。どちらなのかわからないまま、もう寝なきゃ、とザックが目を閉じたとき。

 にゃあ……と、微かに猫の声が聞こえた気がした。

「ノックス?」

 ザックは起きあがり、ベッドから出た。カーテンを開けて窓の外を見る。しかし、外は月も出ていず、暗くてなにも見えなかった。

 すると再び「にゃあぁん」という声が、さっきよりもはっきりと聞こえてきた。外ではない。家の中からだ。しかもあれは、間違いなくノックスの声だとザックは思った。

 そっとドアを開け、ザックは廊下を見まわした。常夜灯がついているとはいえ廊下はかなり暗く、黒猫のノックスがもし隅にいたなら見えないかもしれない。部屋に戻り、おもちゃと一緒に床に放ってあったLEDライトを手に取ると、ザックは隅々まで照らしながら廊下を歩いた。

 しかし、ノックスはどこにもいなかった。おかしいなあ、確かに声がしたのに、とタイラーの部屋を通り過ぎる。そして母の眠っている奥の部屋を照らす――見えたのはドアではなく、その手前に降りている梯子だった。

 誰かが屋根裏に? ママか、それともタイラーだろうか。ザックはそれを確かめるべく、タイラーの部屋を覗いた。

 タイラーはベッドにいなかった。

 あいつ、こんな夜中にひとりでなにしに上がっていったんだとザックは呆れた。しかし少し考えて、タイラーもノックスの声を聞いて、それで探しに行ったのかもしれないと思い直す。

 まったく、もう屋根裏にノックスは行けないって云ったのに。

「……タイラー? いるのか?」

 ぽっかりと黒く口を開けている天井を見あげ呼んでみたが、返事はなかった。ザックは小首を傾げつつ、屋根裏部屋へ行ってみることにした。

 闇に吸いこまれるように梯子を上っていったその背後で――キッチンでジュースを飲んできたタイラーが欠伸をしながら部屋に戻ったことに、ザックが気づくことはなかった。




       * * *




「ねえザック。もうノックスを探しに行かないの?」

 朝食が済み、エレンがまたアトリエに籠もってしまうと、タイラーはそうザックに話しかけた。起きてすぐに見に行ってみたが、玄関ポーチと裏のテラスに置いたキャットフードは、やはりまるで食べた様子がないままだった。

 ザックから何度か聞かされたことがあるのだが、ザックにとっては自分よりもノックスのほうが長い付き合いらしい。タイラーもザックに負けないくらいノックスのことが大好きなつもりだが、それを云うとザックも自分のほうがもっとノックスを好きだし、大切だと云いだし、いつも決まって喧嘩になった。つまり、ザックもノックスのことが心配なはずなのだが――。

 今朝のザックはなんだか様子が変だった。いつもみたいにうるさがったり面倒臭そうにしたり、怒ったりはしないけれど、そのかわり、にこりともしなかった。寝惚けてるみたいに無表情で、なんだかちょっと怖いとタイラーは思った。

「ザックってば。聞いてる?」

 テーブルの向かい側で、ザックはゆっくりと俯いていた顔をあげた。

「聞いてる」

「ノックスを探しに行こうよ」

「ノックスを?」

 やっと自分を見て返事をしてくれたことに、タイラーは少しほっとした。

「うん。ママは学校が始まるまでにちょっとはお勉強もしておきなさいって云ってたけど、その前にちょっとだけ探しに行こうよ。もうきっとお腹ペコペコにしてると思うんだ」

 するとザックは返事もせずに立ちあがり、黙ってキッチンを出ていこうとした。タイラーは慌てて追いかけ、ザックについて玄関から外へ出た。

 ザックは黙ったまま庭をぐるりと一周し、「やっぱりいない」と云ってポーチの前で立ち止まった。

「いないね……」

 ほんとにどこに行ってしまったんだろう。ノックスぅ……と、タイラーがしょんぼりしていると。

「屋根裏に行ってみよう」

 と、ザックが意外なことを云った。

「屋根裏に? でも、ノックスは入れないでしょ?」

「屋根裏の窓から出て、屋根の上から探すんだ。双眼鏡を持っていこう」

「屋根の上?」

 それを聞いてタイラーはそこから三歩後ろに退がり、屋根を見あげた。高い。下から見てこんなに高いのに、あそこに行って下を見るなんて絶対に怖いし、できないと思った。もしも落ちたりしたらどうするんだろう。

「……だめだよザック。あんな高いところ危ないよ」

 そう云うと、ザックはつかつかと近寄ってきてタイラーを両手で突き飛ばした。驚いたのと尻餅をついたショックで、思わず大きく目を見開いてザックを見る。

「タイラーの弱虫。真似っこ泣き虫のへたれ野郎」

 弱虫じゃないぃ……! と泣きだしたタイラーをひとりその場に残し、ザックは家の中に入っていってしまった。


 危ないからそう云っただけだもん、ぼくは弱虫じゃないもん、とタイラーがリビングでしゃくりあげていると、それを聞きつけエレンがアトリエから飛びだしてきた。

「どうしたのタイラー、なにがあったの? ザックは?」

 タイラーが泣きながらなにがあったかを話すと、エレンはわかったわ、待ってなさいと云って二階に向かった。

 ザックー? と呼びながら階段を上がっていくエレンを、タイラーはドアの陰から見あげていた。すると、ぎいぃぃ……と音がして、向かい側の部屋のドアが細く開いた。

「ザック……? そっちにいたの?」

 ママは二階に行っちゃったのに、と思いながら、タイラーはその部屋に入った。

 まだ手を入れていない部屋はカーテンがしっかりと閉じられて薄暗く、テーブルやソファなどの家具には白い布が掛けられていた。なんだか不気味だなあと落ち着かない気分で見まわしながら「ザック? どこ?」と声をかけ、奥へと進む。すると背後でさっと人影が動いた気配がし、開けたままだったドアがばたんと閉まった。

「ザック!?」

 タイラーはドアに駆け寄った。がちゃがちゃとノブを回したり、押したり引いたりしてみたが、ドアは開かなかった。タイラーは閉じこめられたと焦り、どんどんとドアを叩いた。

「ザック!? 開けてぇ、なんでこんなことするの」

 だがタイラーが涙声になっても、ドアは開けてもらえなかった。

 少しの間、蹲って泣きじゃくっていたタイラーは、不気味な白い布の向こうに窓があることに気がついた。窓から出ればいいのだとタイラーは立ちあがり、薄暗い中で亡霊のように行く手を阻む白い布を避け、端をまわってカーテンの閉じられた窓まで辿り着いた。

 そして、刺繍の施された重いカーテンをよいしょ、とタイラーが開けた、そのとき。

 ――きゃあああぁー! という悲鳴が耳に届いた。はっとして顔をあげたその瞬間、窓の向こうに母の顔が逆さまに落ちていくのが見えた。

「ママ!?」

 窓を開けないまま、外を見おろす。エレンは壊れた人形のように奇妙に脚を折り曲げ、地面に倒れていた。なにかに驚き見開いたらしいその目はまばたきもせず、なにも映してはいなかった。









「鏡」 ③ へ続く 🐾

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