No More Tears
「鏡」 ①
「――うっわ、すっごいボロ」
「ボロだね」
ぎゅうぎゅうに荷物を積みこんだステーションワゴンから降りた兄弟たちは、今日から我が家となるその家を見て、思わずそんな声をあげた。
区画が整理された新しい住宅地からかなり外れた場所に、その家はぽつんと一軒だけ建っていた。少し離れた場所に見える、家に負けず劣らず古そうな木造の納屋の他には真っ直ぐに伸びた道と、それに沿って並ぶ電柱と、その向こう側を緑一色に染めているとうもろこし畑しかない。
夏の澄みきった空の下、その一角は光を拒否しているかのように昏く映った。コットンキャンディのような白い雲と青い空、そして風にそよぐ緑の絨毯を背景に、これから住むことになるその家と庭だけがフィルターを掛けたように彩度が低い。建てられてから百年は経っていそうな家屋は、長い年月を風雨に曝されていた所為なのか全体的に灰色で、石壁には這い登った
家を取り囲むように聳える大きな木々はなぜか、すべて葉を落としていた。広い庭も荒れ放題で、まるで
「ママー。なんでここだけ木や葉っぱが枯れてるの?」
エレンは車から降りると、そんな質問をしながら駆け寄ってきたタイラーを抱きとめた。
「それね。ママが前に見に来たときも話してたんだけど、誰かがいたずらで除草剤でも撒いたんじゃないかって」
「じょそうざい?」
「雑草を枯らしちゃうお薬のことよ。ま、お庭はそのうち、みんなで綺麗にしましょ。おうちは古いけど、中は広くてとっても素敵なのよ」
エレンはそう云ってハンドバッグだけを持ち、運転席のドアを閉めた。
「家の中は綺麗なの? 僕らひとりずつの部屋になる?」
「ちゃんとひとり一部屋使えるわよ。それでもまだ余るかも」
ザックがやった! と嬉しそうな顔をする。エレンはザックに微笑みかけると、「お片付け、手伝ってね。頼りにしてるわよ」と肩に手を置いた。
その傍らで、大きなペットキャリーを抱えているタイラーは、小さくにゃーと鳴く声に気づき、小窓から中を覗いた。
「ノックス、疲れた? もうちょっと待っててね、お部屋に行ったら出してあげるからね」
「お水とウィスカス、あげないとな。あとトイレも用意してやらないと」
ザックもそう云いながら、キャリーの中のノックスを見た。
長毛種の血を引いているらしいふわふわした黒猫のノックスは、九歳のザックと六歳のタイラーが物心ついたときには既にいた、ふたりにとって兄弟のような存在だ。ザックもタイラーもノックスが大好きで、家の中ではいつも片時も離れずに過ごしていた。
「とりあえず荷物はあとにして、中に入りましょ。お部屋、見たいでしょ?」
「うん、見たい!」
「広さと部屋の数以外は、期待してないけどね」
外観の古さに顔を顰め、ザックが云う。すると、「期待ないけどね」とタイラーがそれを真似た。ザックは「真似すんな」と足許に積もった枯葉を蹴り、タイラーも同じことをして返す。
エレンは笑いながらさくさくと枯葉を踏み進み、バッグから鍵を出した。その後を兄弟たちもついていく。よいしょ、よいしょとペットキャリーを運んでいたタイラーは、歩きながら「パパも一緒だったらよかったのに」と云った。
玄関の扉の前で思わず足を止め、エレンが振り返る。
「……タイラー。パパはもう、帰ってこないのよ。わかってるわよね?」
「……うん。わかってる。お墓に入れるの見たもん」
エレンはタイラーの前で屈み、愛しい息子の髪を撫でた。
「このおうちは、パパが買ってくれたの。パパがお金を遺してくれたから、ママはこれからずっと家にいて、絵を描くことを続けられるの。……寂しいけど、これからここで、三人でがんばりましょ?」
うん、とタイラーが頷くと、ザックがひとつ訂正した。
「四人だよ。ノックスもいる」
「そうね。ノックスも……家に慣れるまで、しばらくは大変かもしれないけど」
さ、入りましょうとエレンが鍵を開ける。ノブを握り、大きく重い扉を押すとぎいぃ……と錆びついた音がした。ふっと黴臭いような、饐えた臭いが鼻を突く。と同時に、キャリーの中でノックスがみぎゃあぁぁあーーと、聴いたことがないような声で鳴いた。
「ノックス? どうしたの」
タイラーはペットキャリーを枯葉の積もったポーチに置き、ジッパーを少しだけ開けて手を入れた。よしよし、と撫でてやろうとし――走った熱さに驚き手を引っこめる。手の甲に赤く細い傷ができ、そこから血が滲んでいた。ノックスが引っ掻いたのだ。
「痛い……ノックス、なんで?」
「どうした?」
ザックがその様子に気がつき、しゃがみこんだ。エレンは既に家の中に入り、次々と窓を開けてまわっていてタイラーを見ていなかった。「引っ掻かれた? おまえ、なにしたんだ」と、ザックはなにもしなければノックスが引っ掻いたりするわけがないと思い、タイラーにそう云った。
「なんにもしてないぃ、ノックスが鳴いたから、撫でてあげようとしただけなのに――」
そのとき。足許にあるキャリーが揺れた。僅かに開いていた隙間から、ノックスが頭を覗かせている。キャリーから出ようとしているのだとわかり、ザックは「こらこら」とジッパーを閉めようと手を伸ばした。だがノックスはまたにゃあぁーと鋭く鳴き、するりとキャリーから抜け出るといきなりザックの手にパンチで攻撃した。
「あっ、ノックス!」
ノックスは敏捷な動きであっという間にタイラーたちから離れ、一度だけこっちを振り返った。なにかを警戒するように身を低くし、耳はぺたんと横に伏せている。自慢のふさふさな尻尾も丸めこみ、後肢のあいだに隠してしまっていた。なにかに怯えているのだ。
「どうしたんだノックス。大丈夫だよ、こっちに戻っておいで」
しかしノックスは背中を丸くして毛を逆立て、ふーっと唸り声をあげるとさらに遠ざかった。ノックスぅ、とタイラーが半泣きの声をだす。いつものノックスなら、タイラーがぐずっていると傍に来てぴたりと寄り添ってくれるのだが――
ノックスは再び威嚇するように高い鳴き声をあげ、どこかへ走り去ってしまった。
ノックスが逃げちゃった、知らないところだから迷子になって帰ってこれなかったらどうしようと、タイラーは玄関を入ってすぐのところに留まり、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。ザックは「おまえがあんなところで開けたからだろ!」と大きな声で怒り、タイラーはますます大きな声をあげて泣き続けた。
エレンもノックスのことは気掛かりだったが、今は引っ越し作業のほうを優先しなければならなかった。この家には、古いが高価そうな家具がまだ充分に使える状態で残されていて、アパートメントで使っていたチープな棚などはすべて処分してきた。なので、車に積んできた必要な荷物を家の中に運びこみ、片付けるだけではあるが――エレンひとりで、最低でも今夜眠れるようにだけはしなければいけない。
エレンはぐずぐずと泣き続けるタイラーの傍に行き、膝を折って目を合わせた。
「タイラー、ノックスは大丈夫よ。猫ってね、知らないところでもちゃんと来た道がわかるの。だから、お腹が空いたらきっと帰ってくるわ」
「……ほんとに? 絶対?」
「ほんとよ。だから、それまでにちゃんとお部屋を片付けておきましょ」
ひっく、としゃくりあげながらタイラーはうん、わかったと頷いた。
「じゃ、ママは車から荷物を取ってくるから、タイラーはザックと一緒に二階に上がって、自分のお部屋を決めてきてね」
それを聞いて俄然張りきりだしたのはザックである。
「よし、タイラー。
「探検……行く」
手の甲で涙を拭い、タイラーは階段を上がっていくザックの後を追いかけた。
家のほぼ中心にある階段を上がると、そのすぐ正面にあるのは広い寝室だった。ドアを開けるとその両脇にベッドがあり、その足許側にクローゼットが備え付けられている。その部屋の右手と、さらにその右隣、玄関側にも部屋があり、こちらにはゆったりとしたバスルームまであった。
「すげえや、ほんとに広い」
「広いね」
吹き抜けを廻りこんで戻り、階段を過ぎて最初に見た寝室の左のドアを開ける。そこはさっき部屋の中にあったより広いバスルームだった。
「またお風呂」
「すげえ。やっぱりアパートメントとは全然違うや」
「違うや」
レトロなデザインのタイルを暫し眺めるとザックはドアを閉め、またひとつ隣の扉の前で立ち止まった。他とは違う両開きのその扉を開けてみる――階段の踊り場にある窓からの光も届かず、中は暗くてよく見えなかった。窓がないのだ。
なんだここ? とザックは暗い中で目を凝らした。きょろきょろと中を見まわし、ゆらりとなにかが動いた気配にはっとする。左手を向き、その片隅になにか白いものがぼうっと浮かびあがるのを見て、ザックは身を強張らせた。
目を逸らしたいのに逸らせない。ザックは凍りついたようにその場から動けないまま、思いついて壁に手を伸ばした。どこかに明かりのスイッチがあるはずだ。入って右か左か、二分の一の確率を手探りで確かめる。
視線の先にはさっきよりも小さいなにかが、さわさわと蠢いていた。だから左側に手を伸ばす気にはなれなかった。やがて右側に伸ばした指先がそれらしいものに触れると、ザックはぱちりと明かりをつけ――ほっと全身の緊張を解いた。
「なんだ、鏡かよ。脅かすなよ……」
そこにあったのは細長い姿見で、なにか白いものが動いていると思ったのはザック自身だった。蠢いていた小さいものも、どうやらスイッチを探していた手が映っていただけらしい。
なぁんだ、とあらためて中をよく見る――三方には枕棚と、その少し下にパイプが設えられていた。ここは部屋でなく、ウォークインクローゼットだったのだ。
だから窓がなかったのか、と思いながら、ザックは明かりを消して扉を閉めた。
「ザーック、こっちのお部屋も広いよ」
「タイラー! おまえ、どこにいたんだ」
タイラーは廊下の突き当たりにあるドアから顔をだしていた。どうやらそこが二階の最後の部屋らしい。また部屋の中に戻ったタイラーについてザックも中に入る――入ってすぐは他の部屋と変わらない感じだったが、右手の奥、ちょうどさっきのウォークインクローゼットの裏に当たる場所に隠れ家のようなスペースがあった。
「ほら見て、ここ、机があるんだよ、棚もいっぱい」
「書斎だ。きっとママが使うだろうから、ここはママの寝室に決定だな」
ということで、タイラーは階段の正面の部屋、ザックはその右隣、バスルームのあった部屋はお客さん用、ということに決まった。もっとも、客など来る当てはなかったが。
「さ、もう
「あ、待ってザック。……あれ、なに?」
階段を下りようとしていたザックは足を止め、タイラーが指さす先を見た。母の部屋と決めたそのドアの手前、廊下の突き当たりの天井の一部に、四角い枠のようなものが見える。ザックはタイラーのところまで戻り、それをじっと見あげた。枠はおとなひとりがちょうど通れるくらいの長方形で、真ん中には小さなリング状の金具が付いている。
「……屋根裏へ上がる入口だよ、きっと」
「屋根裏? 入れるの?」
「たぶん、棒みたいなやつを使って引っ張るんだよ。TVで見たことある。梯子がでてくるんだ」
ザックがそう云うと、タイラーはぱぁっと顔を輝かせた。
「屋根裏行きたい! ザック、探検しよう!」
「無理だよ。開けるための棒がないだろ。それに、鼠とかいるかもしれないぞ」
ザックは頗る厭そうに顔を顰めて鼠と云ったが、タイラーは「鼠……」と呟き、天井を見あげた。
「ノックス、屋根裏にいるかも」
「いないよ。さっきどっかに走ってっちゃっただろ」
するとタイラーはノックスぅ、と小さく名前を呼びながら、泣きだしてしまった。
「あーもう、泣くな! ノックスはお腹が空いたら帰ってくるって、ママが云ってたろ? もう、この泣き虫! 泣くなって」
泣きじゃくる弟にザックが困り果てていると、階段の下から声が聞こえた。
「タイラー、どうしたの? 下りてらっしゃい。ザック? タイラーと一緒に下りてきて、少し手伝ってちょうだい」
はーい、と返事をし、ザックはタイラーの手を引き、階段を下りていった。
* * *
そうして、なんとかすべての荷物をあるべき部屋に運び、疲れた躰をゆっくり
環境の変化の所為かなかなか寝つくことができず、ザックは何度も寝返りを打っていた。泣き虫で甘えん坊なタイラーの面倒をみるのは飽き飽きで、ずっとひとり部屋がほしいと思っていたのは本当だが、こうして実際に部屋でひとりきりで眠るのは少し心細かった。
ノックスがいないからだ。ノックスを逃がしちゃったタイラーの所為だ、と思い、そういえばノックスはどうしてるだろうと、ザックはカーテンの掛かった窓のほうを向いた。
まだお腹が空かないのかな、明日は帰ってくるかな、とノックスのことを考えていると――ぎぃ、とドアの軋む音がした。ぎょっとしてベッドからそっちを見る。暗がりから顔を覗かせたのは、Tシャツにハーフパンツという自分と同じ恰好をしたタイラーだった。
「なんだタイラー、ノックくらいしろよ」
ザックは半身を起こし、サイドテーブルに置いた時計を見た。時計の短針はもう12を過ぎたところにあった。タイラーはさらにドアを開けて一歩部屋に入り、「ザック、ちょっと来て」と手招きをした。
「なんだよ、こんな夜中に。トイレはおまえの部屋のほうが近いだろ」
「ひとりで行ったよ、トイレ。そしたら、廊下に棒が落ちてたから」
「棒?」
それを聞くとザックはベッドを出て、サイドテーブルに置かれたランプの紐を引いた。オレンジがかった暖かな光が部屋を照らし、なんとなくほっとする。ザックは立ちあがると靴を履き、部屋を出てタイラーについていった。
階段を過ぎ、バスルームのドアの前で左へ折れる。なぜかウォークインクローゼットの扉が片方、開いていた。眉をひそめながら視線を落とす――壁に等間隔に並んだ常夜灯が微かに照らす床の上に、なにかが落ちていた。目を凝らしてよく見ると、先にフックの付いた棒であることがわかった。
それがまるで、クローゼットの中から倒れてきたかのように、ぽつんと床に落ちている。
「あれでしょ? 屋根裏に上がる棒って」
「あそこ、おまえが開けたのか?」
「ううん、僕が見たらもう開いてた」
――ママがみつけて、仕舞ったときに扉を閉め忘れたのだろうか。
ザックは恐る恐るその棒に近づき、拾いあげた。扉の中はやはり真っ暗で、ザックは昼間のことを思いだし、棒を中に放りこむとぱたんと扉を閉めてしまった。
「あっ、せっかくみつけたのに」
「こんな時間に上がっていけるわけないだろ。探検するにしても、明るいときにちゃんと支度して行かなきゃ」
「支度って?」
「えっと……懐中電灯と、武器とかだよ。鼠がでたらやっつけるための」
「
「
とにかく今はもう寝よう、とザックはタイラーの背中を押し、少し考えて「ひとりで眠れるか? 眠れないなら今日だけ、一緒に寝てやってもいいけど」と付け足した。
「いいの? じゃあ、ザックが来ればいいよ。僕の部屋もうひとつベッドがあるもん」
「そうだ。じゃ、そうしよう」
そうしてザックはいったん自分の部屋に戻り、ブランケットとピローを持ってタイラーの部屋で眠ることにした。そしてふと思いつき、まだ片付け途中の箱の中から古いラジオプレイヤーを出し、それも持っていく。
深夜放送のラジオ番組を小さく流しながらタイラーと向かい合い、ザックはやっと眠りに落ちることができた。寝付けなかっただけで、長時間のドライブで躰は疲れていたのだろう、それきり朝まで目を覚ますこともなかった。
尤も、たとえ起きていたとしても、ラジオの音が遮ってしまい、気づくことはなかったかもしれない――再びクローゼットの扉が開き、倒れた棒が床を打った音に。
「鏡」 ② へ続く 🐾
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