四、絶叫ノイズ女、降臨
だいたい、前に化け物に追われていたときに肩車したことあるんだから、のしかかったくらいで、あんなに動揺することはないはずだった。あのときは、うなじに奴の股間が密着してこすれて、えらいことになっていたし、奴がまたがるときに、ひるがえったスカートの奥に、ちらと白パンツが見えたのも覚えてる。だがあのときは、逃げるのに夢中で余裕がぜんぜんなかったし、すぐに男に戻って倒れたので、エロさもなにも感じなかった。
しかし、今夜はちがう。
そのあとは、特に何事もなく寝た。押入れに入る俺に、「なんでそんなとこに」などと聞いたが、添い寝なんかできるかっ。
しかし奴は布団をかぶって一時間もしないうちに起きて、ガタガタやりだした。ふすまをあけて見ると、「腹へった」と男の姿でカップメンを食っていた。そういや、女の格好は三時間しかもたないんだったが、カップが一個ですむから少女になったんじゃねえのかよ。まあ男に戻ってくれたほうが、気楽だから助かるが。
しかし、雄二のとこにやらなくて本当によかった。あいつはふだんまじめなだけに、さっきみたいなシチュになったら、いとも簡単に理性が飛びそうだ(って、人のこと言えんけど)。
まあズールにはその気なんかなくて、たんに面白がってからかってるんだろうが、どうも、それがヤバいってことが分かってなさげだ。男のときは無敵でも、少女になると無力もいいとこだし、もし相手を怒らせたら……。あれ、すぐ戻れれば問題ないのか。そのへんはどうなんだろう。
まあ、よしんば雄二とズールがバンド内で恋仲になったとしても、それはかまわないのだが、リーダーである俺がメンバーに手を出すのは、まずいと思う。気をつけねば。
しかし、一週間これじゃ、緊張で身がもたんかもな。あーあ。
などとぼんやり考えていると、「ほら和人くん、電源いれて」と言われて、あわてた。いかん、今は仕事中だ。
ズール襲来の翌日の夕方。
薄暗いパロロのホールで、ライブの準備をするわくわく感はたまらない。まだひとりで出来るレベルではないが、そのうち慣れたら、もしかして正社員登用、なんてことも……。
音楽やって食うつもりは毛頭ないが、それにたずさわる仕事だったら最高だ。
そういや、あの化け物バンドの連中は、俺が壁を壊してバックれさせて以来、来ていないという。店長もあいつらには困ってたし、いいことだ。
「おはようございます」
ステージでしゃがんで機材をいじってるところへ、いきなり後ろからあいさつされた。芸能関係者は、一日を通して朝のあいさつを使う。夜に起きる人もいるからだ。
あわてて振り向いて返すと、そこには細めの女が立っていた。腰まである流れるような長い黒髪に、整ったきれいな顔。服は黒で統一し、下はOLふうのスラックスで、大人の落ち着きがあった。全体の雰囲気は、まじめでおっとりした感じ。
「風祭海子(かざまつり・うみこ)です。今日は、よろしくお願いします」
ていねいに頭をさげて、店長のところへ行った。俺はなぜかその後姿に、ぼうっと見とれていた。
バンドのボーカルかなんかかと思ったが、彼女はエレキギターのほか、シーケンサーとかエフェクターとかの一抱えの機材をステージに持ち込み、床に置いたギターとコードでつないで、セッティングしだした。どうも、ひとりでやるらしい。
「君は海子さん、初めてだったね」
店長がにこやかに言った。
「よく出てらっしゃるんですか?」
「うちは二ヶ月ぶりだね。まあ、楽しみにしてて」
「はあ」
彼がこう言うってことは、そうとうのやり手にちがいない。俺も期待して手伝った。
ところが、いざリハーサルになると、アンプからブブブブという耳障りなノイズだけ出して、マイクから「あーあー」とテストだけして終わりだった。あとは「本番、よろしくお願いしまーす」と引っこんだ。
いや、こういうことは珍しくない。なんせこのパロロは「面白いこと」が基準だから、規格外のアーティストもよく来る。
ふつうのバンドや歌うたいのリハは、持ち曲をいくつかやって音あわせするが、詩人による詩の朗読なんかの場合は、ひとつの詩を全部は読まずに数行で終わりとか、あるいは声だしだけですますこともある。だからたいてい、リハの時間が異常に短い。この人も、そのたぐいかもしれない。
ずいぶん音量をでかくしていたから、ノイズ・ミュージシャンの可能性が高い。風祭海子という名前は聞いたことがないが、裏では有名な人かもしれない。知る人ぞ知る、というやつである。俺が憧れてきたアーティストは皆、そういうかっこいい存在だった。俺はいやでも彼女に注目した。
いつものように出演バンド四組、一バンドの持ち時間三十分。海子さんはトリだった。アングラの小さいハコ(ライブハウス)なのに、なんと満席になった。こんなの初めて見る。客は若い子が多いが、年配もちらほら。男女の比率は半々くらいか。
ふつうのバンドが三組続いたあと、いよいよ彼女が出てきた。驚いたのは、来たときと同じ格好なのだ。拍手と声援の嵐が起こり、ていねいに頭を下げてから、スタンドからマイクを取って持ったまま、しゃがんで機材をいじりだし、そのまま本番。
俺は目が点になった。
ノイズを出すのは分かっていたが、その出し方があまりにもすさまじかった。いきなり足元のエフェクターのボタンを「きえええっ!」と乱暴に踏むと、アンプから轟音ノイズが暴風のように炸裂し、彼女はそれと同時にマイクに向かい、「ぎゃああああ――!」と金切り声をあげだした。
長い髪を振り乱して猛烈にヘドバンし、いきなり床に倒れてのたうちまわって、「ぐええええ! ぐぎゃあああ! げほおおおお――!」と狂ったようにわめき、叫び、うめき、這いつくばって機材のボタンを指で何度も押しててはノイズを連打し、またそれにあわせて絶叫しまくる。まるで、客席に向かって死に物狂いで機関銃を撃ちまくるようだ。その声も音も、鋭利な弾丸の塊だった。その絹を引き裂くような声に、俺も客もずたずたに切り裂かれ、肉片になってあたりに飛び散った気がした。
数分わめきまくって、やっと音が止まると、客は総立ちで、こぶしをあげて歓声を送った。乱れきった黒髪を腰までざらりとたらし、顔が隠れてたたずむ姿は、リングの貞子そのものだ。
髪をかきあげると、海子さんはまたしゃがんで背を向け、今度は低く地を這うような音を出した。地鳴りのような重い轟音が俺の骨の髄までガクガクと揺るがし、宇宙船で大気圏外へ飛び立つような、じわじわした興奮に包まれた。気づけば俺は宇宙にいた。体がなくなり、魂だけがゆらゆらと無限の空間を漂った。
いつまでもこうしていたかったが、音は徐々に消え、水を打った静寂が、すべてを支配した。
時計を見ると、なんと残りあと五分だった。
割れるような拍手と叫びの中、彼女はまた登場と同じように単発でノイズをぶっぱなし、マイクに絶叫しまくって、ひっくり返って機材に頭をぶつけて顔面じゅうに流血しながら、のたうちまわって暴れた。だが、これだけ荒々しく動きながら、ものを壊すことはなかった。その引きつったもだえっぷりは、自分を壊しているかのようだった。
終わると、また会釈してさっさと楽屋に引っ込んだ。
俺は、しばらく感動で固まってなにも出来なかった。あとで知ったが、店長以下のスタッフはみんなそれを分かって、ほっといてくれたらしい。
俺ははっと目覚めると、ただちに楽屋へ突入した。
パイプ椅子に座ってタオルで顔を拭いていた海子さんは、ふつうじゃない雰囲気の俺を見るや、眉をさげて言った。
「あ、すみません……」
そして暗い顔で、申し訳なさそうに目をうるませ、ひとこと。
「う、うるさかったですか……?」
「へ?」
一瞬なんだか分からなかったが、すぐに謝っていると知り、彼女の両手をかたく握って言った。
「とんでもありませんっ! さいっこうでしたああ!」と半ば泣きそうになって、わめくように続ける。「すばらしかったです! ほんともう、死んでもいいっす!」
「そ、それは、ありがとうございます……」
苦笑して返す海子さん。絶叫のときは甲高かったが、話すと声はけっこう低くて色っぽい。
俺が怒っているわけではないと分かって、安心はしてくれたようだが、やはり困ったようだ。額とほほのバンソウコウが痛々しいはずなのに、彼女の顔は、すごく生き生きと輝いて見えた。
俺は自分を抑えきれず、怒とうの津波のように賞賛の言葉がぼろぼろ出まくった。
そして、ついに。
「どうか、お願いです! うちでボーカルやってください!」
「えっ、それは、ちょっと……」
目をそらしたので、俺は手を離して下がった。
「だ、ダメでしょうか……」
「ごめんなさい、私、歌をうたうつもりはなくて……」
「歌なんてとんでもない! さっきのまんまで、ぜんぜんかまいませんっ!」
一ミリもめげずに、また高ぶる俺。
「いや、むしろあれじゃないと! じつは、俺のバンドも、ノイズなんです!」
「えっ、そうなんですか?!」
彼女は驚がくし、急に涙ぐんだ。
そして、ぽつりと言った。
「うそ……この世界にも、ノイズやる人がいたんですね……!」
ノイズ・ミュージック。
それは、たぶん八十年代ごろに欧米で始まった音楽ジャンルだが、正確には音楽とはいえない代物だ。
よくテレビで放送禁止用語が出ると鳴るピー音とか、ラジオの電波に入るザーッという雑音なんかを思い浮かべて欲しい。それを、そのまま音楽として使ったもの。それがノイズ・ミュージックである。
つまりメロディもリズムもなく、ただの音がえんえん続く、はっきりいってふつうの人にはなにも楽しくない、文字通りの「ノイズ」でしかないのだが、それを既成の音楽に飽きた物好きが、アートとして表現しだしたわけである。エレキギターやキーボードを使ったりするとメロディがついたりするが、それも不協和音だったり、とくにかくポップさからは程遠い「純粋芸術」みたいな感じだ。
とくに欧米のはそうだが、日本だと感情が先走るせいで音が極端にでかく、勢いがついてロックっぽくなる。一時、ジャパノイズといわれて海外から注目されたこともある。日本国内でもそこそこライブが行われてそれなりに受けたが、二十一世紀も二十年目を迎えようというこんにちでは、アイドルブームに押されて、そのようなアバンギャルド系は、すっかりナリをひそめている。
ところが海子さんの話によると、ここヤパナジカルでは、そもそもノイズなるジャンルじたいが存在していないらしいのだ。べつに見た目が中世ヨーロッパだから、国民が好む音楽の傾向も古くさいというわけではなく、俺たちのいた世界にあったような電気を使ったやかましいロックは定着しているし、エレキギターのような楽器も機材もあり、パンク、ヘビーメタルのようないわゆるラウドロックは、今の日本より、はるかに大衆の人気を博しているほどである。轟音のメタルバンドが、べつにV系(ビジュアル系)でもないのにハコ(ライブハウス)を客でいっぱいにするなど、日本では考えられない欧米な光景がよく見られる。
だが、閑古鳥が鳴くジャンルもある。ノイズだ。
メロディもリズムもない勢いだけの音の塊は、まだここの民衆には理解されないようである。
「私は若い女なので、そこそこお客さんは来ますけどね」
そう言って海子さんは半ば自虐的に笑った。半ばアイドルの変り種あつかい、ってとこだろう。
正直、俺が路上でゲリラライブをやったときも、ほとんどの通行人は「なんだこいつ、やべえぞ、かかわんないようにしよう」みたいな反応しかしなかった。ただ、足をとめて見てくれる人も、たまにはいた。その直後に、おまわり(近衛兵)が来て、あわてて逃げるはめになったので、彼らがどう思ったのかは分からない。ただ、興味を持ってくれたのは確かだ。
そのときは、それだけで充分だった。あと、もうちょいだと思った。関心の次には、きっとなにかを感じてくれる。そのためには、もっと人前でやらなきゃダメだ。やはりライブハウスだ。パロロだ。
半ばアイドルの海子さんが入ったからって、人気が出るかは分からなかったが、少なくとも、俺がボーカルやるよりは、よっぽどマシだ。
もちろん、人気ほしさに彼女にお願いしたんじゃない(少しはあるが)。彼女にほれたのだ。恋愛ってことじゃなく、そのオーラと才能にだ。
せまい空間に宇宙を現出させる、その底知れない秘宝のような何か。あの壮絶だが温かい宇宙にこの身が漂ったとき、俺はこの人にどこまでもついていこう、と決心した。
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