第8話

 時は遡り三年前、イザベルが両親を亡くしてから五度目の夏。

 傷だらけのキャリーケースを引き、継接ぎだらけの鞄を背負って、イザベルは歩いていた。廃屋と呼ぶべきか瓦礫の山と呼ぶべきか、崩壊したかつての住宅街。なるべく影になるところを選んでいるが、ずっと歩いているせいか身体は燃えるようだ。イザベルは、首にかけたぼろ布で噴き出た汗を乱暴に拭った。 

(早く楽になりたい)

 周辺の建物は、外壁が多少残っているものの損傷が大きくて、屋内――と呼べるほど外と隔たれていないが――に使えるような遺物はなさそうだ。

 ちょうどいい瓦礫を見つくろうと、イザベルは足を止めてキャリーケースを地面に倒した。今日はここで夜を越す。

 キャリーケースから毛布などの野営に使うものを取り出す。元々あったであろう屋根はあまりに心許ないので日避けを張り、それを終えるとイザベルは閉じたキャリーケースに腰を下ろした。自重から解放された足の裏が、途端に疲労を主張する。

(早く楽になりたい)

 縦長のベルトポーチに手を突っ込む。いつまでも手に馴染まないその硬質な感触を確かめて、イザベルは心を落ち着かせた。

 明るいうちに水を確保しなければならない。川の場所は幸いにも把握している。それでも再び立ち上がるのがひどく億劫だった。

 イザベルは、森が苦手だ。雨量が多くなければ水源の近くを生活拠点にしたほうが何かと楽ではあるのだが、理性よりも心のもっと根っこのところで忌避感がある。

 虫が嫌いだ。

 生き物の気配が嫌いだ。

(早く楽になりたい)

 イザベルの心は、限界だった。

 喉が渇いたら潤す。空腹が耐えがたければ満たす。手持ちの地図の、まだ印のない土地に向かう。眠る。探す。たどり着いた土地に×印をつける。そして、また違う土地に向かう。

 その繰り返しの毎日だ。

 法という秩序のない世界で、女の一人旅が安全なはずがない。命を奪われそうな場面をギリギリで脱したことも、一度や二度ではない。自由を、尊厳を、ギリギリのところで守り抜いてきた。ギリギリ、ギリギリとその度に心を軋ませて。

 早く楽になりたい。

 旅を、命を、自分の手で終わらせるという選択肢はなかった。頑張ったけど出来なかったという免罪符が欲しかった。

 死神を、待っていた。

「動かないで。変な動きをしたら殺す」

 背後から聞こえたのは、甘いソプラノだ。花のような甘い香りが鼻先に漂う。首元には、冷たく硬いものが押し当てられている感触があった。目視で確認はできないが、おそらくナイフだろう。

 ベルトポーチの中身に触りたい衝動に駆られるが、理性で押しとどめる。

 油断した。このところ寝不足だったのがいけない。緊張で呼吸が浅い。喉の渇きを強く感じる。

 相手は一人のようだ。疲れていたとはいえ、これほど接近を許すとは不覚だった。

「今から見せる似顔絵について、分かることを教えて」

 背後で物音がする。首元の圧迫感が緩むことはない。

「…………」

 唾を飲み込むことすら躊躇う緊張感。

 しかし、取り出すのに手間取っているのか、似顔絵とやらは一向に差し出されない。

「…………」

 血の気が引いていく。耳鳴りがする。音が遠のいて、視界がどんどん暗くなっていく。緊張、浅い呼吸、脱水症状。思い当たる原因は多い。

 どうにでもなれ、という気分で声を発した。

「すまない、横にならせてくれ」

 耳元に聞こえるのは、先ほどより低く怒気をはらんだ声だ。

「なんで? まさかお前、あいつの仲間?」

 お前の手際の悪さのせいで、『あいつ』が誰だかも分からん。

 感情的に返したい気持ちをギリギリで押しとどめた。

「具合が悪いんだ」

「だから何?」

「質問には答えてやるから、話を聞け。このままじゃ意識がなくなって答えられん」

 首の圧迫感が緩んだ。イザベルは崩れるようにキャリケースから降りて、地べたに横になった。目を閉じて、荒く呼吸をする。遠のいていた感覚が、ゆっくり戻ってくる。

 息が整うまでどれほどの時間を要しただろうか。背後から視線をずっと感じていた。

「すまない。待たせた」

 目を開けて、身体を起こす。服が砂で汚れているが、あえて掃うことはしない。自分に抵抗の意志はなくとも、背後の女がそれを『変な動き』と見なしたら、その瞬間に殺されるだろうから。

 さっきまであんなに終わりたがってたくせに、実際に目前にすると逃れようとする往生際の悪さを、笑いたい気分だった。

 差し出されたのは、古い本から破り取られたであろう薄い紙で、二行ほど印字された旧文明の文字があるが、それは関係なさそうだ。掠れた茶色いインクで、男の顔が描いてある。よく観察すると、左腕になにか模様が描いてあるが潰れて判別できない。

「これは刺青か?」

 振り返ることはせずに、背後に問う。

「ニタついてる蛇のイラストが、そこに描いてあった」

「なるほど」

 疲れていた。動揺していた。苛ついていた。自暴自棄になっていた。相手が女だった。

 様々な要因が絡み合い、イザベルは柄にもなくリスキーな発言をした。

「本当に探す気があるのか?」

「は?」

 相手の殺気を感じ取り、口早に続ける。

「紙の質が悪くて劣化が激しい。それに、インクが滲んでいて分かりにくい」

 指摘については薄々感じていたようで、背後から反論はない。

「これよりいい紙とインクが、このキャリーケースに入っている。それをやるから、書き直すといい。私が動くのが信用ならないなら、荷物を自由に漁って構わない」

「……動いていいよ。だから、頂戴」

「顔を見ても、殺さないか?」

「殺さない」

 イザベルは、身体の緊張を解いた。警戒心は緩めずに、キャリーケースから紙とインクとペン、それから下敷き用に薄い板を取り出す。

「好きに使ってくれ。私は野営の準備をする」

 服についた汚れをはたき落としながら、イザベルは立ち上がる。そして、ようやく女の容姿を確認した。

 やや低い背丈と顔立ちのあどけなさから、可憐な印象を受ける。月明かりのような金髪は、ウェーブを描きながら腰まで伸びていた。

 女と、目が合う。

 深緑の瞳は、興味深そうにイザベルを観察している。そして、蕾がほころぶように女は笑った。

「ありがと」

「……ああ」

 死神にしては愛らしすぎるな、とイザベルは思った。

 

 女が描き直した人相書きに、心当たりはなかった。

「役に立てなくてすまないな」

 野営の準備を一通り終えたイザベルは、瓦礫に腰掛けながら言う。

「ううん。そんなことより、お礼したい。何のお肉がいい?」

 肉なのは決まってるのか、という言葉を飲み込む。

 どうやら懐かれたようで、シャノンはイザベルにきらきらした眼差しを向けている。純粋な好意がくすぐったくて、イザベルは居心地の悪さを感じた。

「じゃあ、食べやすいやつで頼む」

「分かった!」

 弾けるような笑顔で頷くと、女は弓と矢筒を背負って森の方へ走り出した。

(不思議な奴だ)

 遭遇時に見せた剥き出しの敵意。協力を申し出てからの天真爛漫な笑顔。自分自身に素直に生きているその姿が、イザベルには羨ましく思えた。

 ベルトポーチの中に手を伸ばし、杖の感触を確めてようやく人心地つく。

(使命なんて放り出してしまえたら、どれだけ楽だろう)

 自分の心に従うなんて、イザベルには到底出来そうになかった。


 緊張が緩んで、どうやら眠っていたらしい。イザベルが目を覚ますと、食欲をそそる刺激的な匂いが鼻孔をくすぐった。

「あ! もう少しでご飯できるよ~」

 女は、肉をふんだんに入れたスープを作っていた。荒らされた荷の有様を見るに、鍋も香辛料もイザベルのものを使っているらしい。イザベルは呆れたが、もはや文句はない。それどころか、好き勝手振舞う彼女に付き合わされるのも案外悪くないと思っていた。

「あんた、このあたりに住んでるのか?」

 イザベルが訪ねると、女は不満げに頬を膨らませた。

「シャノン」

「え?」

「名前! あんた、じゃなくて、シャノン」

「ああ。……シャノンは、このあたりに住んでるのか?」

 人の名前を呼ぶのは、久しぶりだった。

 旅の途上で物を売り買いしたり、世話になってその礼をしたり、人との関わりはそれなりにあったが、大抵は二人称で済むことだった。

「ううん。さっき見せた人のこと探してるんだけど、なかなか見つからなくて。あっちの方から来た」

 女――シャノンが指差すのは日が沈んだばかりの方角。イザベルの目指す方角だ。

 イザベルはベルトポーチから地図を取り出して、シャノンに見せるように地面に置いた。

「この地図でいうと、どの辺りだ? 地形や汚染区域の情報があれば教えてほしい」

 シャノンは地図を一瞥して、首を傾げた。

「分かんない」

 本当に闇雲に捜し歩いているのだろう。他人事ながら、彼女の旅路が心配になる。

 そんなことより、とシャノンがニコニコしながら問う。

「あなたの名前は?」

「……イザベル」

「イザベルは、どこから来たの?」

「私は――」

 本当のことを言うか逡巡したが、真っすぐに自分を見つめる翡翠の瞳の圧に負けて、ぽつり、ぽつりと、イザベルは話し始めた。

「東から。生まれてからずっと、旅をしている」

 イザベルはベルトポーチから、細く短い杖を取り出した。

「世界を救う力を秘めた杖、らしい。聖杖と両親は呼んでいた。この杖の、真の持ち主を探すこと。それが旅の目的だ」

 イザベルは、両親からその使命を託された。両親もまた、別の誰かから託されたのだという。正しい持ち主に杖を渡すために、両親はその一生を捧げた。

「すごい。じゃあ、あなたは救世主だね」

 シャノンは鍋の世話をする手をとめて、目を輝かせていた。

「はあ? 話聞いてたか。私が救世主を探してるんだ」

「でも、救世主とその杖がいっしょになってはじめて、救世の力?を発揮できるんでしょ。だったら、生まれついての救世主よりすごいよ。イザベルは救世主を救世主にする救世主だよ!」

 爛々と輝く瞳に圧倒されて、イザベルは何も言えなかった。

「それだけじゃなくて、これまで諦めずに次の人へ託してくれた、イザベルのお父さんもお母さんも、お父さんとお母さんに託してくれた人も、みんな、みーんな、救世主だねえ」

 出来上がったらしいスープを器に盛りつけて、シャノンはそれをイザベルに渡した。受け取ると、器から手にじんわりと熱が伝わる。

 何も、変わらない。

 これからも途方もなく長い旅が続くこと。きっと、一生を費やしても、見つかるはずなんてないこと。それは、これまでもこれからも、何も、変わらないはずなのだ。

 イザベルの言葉を聞いて胸にこみあげてきた感情を否定したくなって、イザベルはぶっきらぼうに続けた。

「正直、私は両親の言葉を信じてない。だって、杖を触っても私には何の力も感じられない。悪い奴に騙されたか、頭のおかしな人間の戯言を真に受けたか、そんな発端なんだろうと考えている」

 シャノンが自分の器に料理をよそいながら、穏やかな声で問う。

「じゃあ、どうして今日まで続けてきたの?」

「……怖かったからだ。万が一、本物だったら。私が諦めたら、世界が救われないのは私のせいだ」

「強いね」

「強い? 弱いの間違いだろう」

(だって私は、こんなにも終わりたい)

 自嘲気味に笑うイザベルに、シャノンは不思議そうな表情で返す。

「強いよ。だって、世界が終わっても、誰も責めないでしょ。責める人も死んでるだろうし。もし誰か生きてたとしても、自分が原因だなんて、誰にも分かりっこないよ」

「もう、お前が知ってしまっただろう」

 日もとうに沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。薄闇の中で焚火だけが明るく、シャノンの顔を照らしている。

「じゃあ、二人だけの秘密にしよっか」

 唇に人差し指を当てて、シャノンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 涼やかな夜風が、イザベルの頬を撫でていく。

 不安だった。寂しかった。つらかった。

 自分には重すぎる荷なんて、早く下ろしてしまいたかった。辞める言い訳を探しながら、そんな自分の卑劣を詰っていた。

 それが、こんな子ども騙しみたいな言葉に救われてしまうなんて、どうかしている。

「さ、食べよ!」

 スープを口に運んで、シャノンは楽しそうに笑う。

 イザベルも思わずつられて笑みをこぼす。

 もう少し頑張れそうな気がしていた。

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