◇◇ 第三話 四月十三日、あと23日・夜(1)

 改めて言おう──転校という言葉は、なぜか特別だ。

 この場合は悠乃のような『転入』ではなく、その逆、旅立つ方の転校だ。

 やれ電車の窓から外を見たらクラスメイトが総出で走って見送りにきたとか、やれ転校それ自体を阻止するために奮闘するとか。三日と離れられないバカップルみたいに騒ぐ。

 スマホがなかった時代の人間には、距離の重みが違ったのだろう。

 逆に言えば、僕たち現代っ子はそうじゃない。

 電話やメールはもちろん、SNSなどを使えば、相手の生活をある程度は共有できる。オンライン設備が充実していれば、一緒にゲームもできるし映画も観られる。

 だから転校なんて、別に大騒ぎするようなことじゃない。

 そう思えていたのは──いざ自分が当事者になるまでだった。

「内緒にしておいてくれ」

 悠乃の電話を受けた僕は、転校するのかという問いに、少し間を置いてから答えた。

『…………』

 電話越しに届く悠乃の沈黙。

 理由を問い質されるかと構えていたが、耐えきれなくなって逆に尋ねる。

「というか、悠乃はどこで聞いたんだ? 担任にも口止めしたんだけどな」

『お母さん。真奈美さんから聞いたって』

「そっちか。まあ、ママ友にも言うななんて言えないよな」

『……どうして?』

 なぜ転校するのか、なぜ言わなかったのか、なぜ内緒にさせるのか──どれとも取れる質問だった。

「あー、なんというか……突発的な家庭の事情というか」

 眼鏡のブリッジを指で上げながら、言い訳めいたことを口にする。

「とにかく、もうしばらく秘密にしておいてほしいんだ。理由もちゃんと話す」

 こうなった以上、悠乃には詳しい事情を明かすべきだろう。

 むしろ『転校生』としては先輩になる悠乃なら、旅立つ者の機微を分かってくれるかもしれない。相談相手としては頼もしい。

『…………』

 しかし悠乃は再び沈黙、顔が見えないことがもどかしい。

『ごめん、私、やっちゃったかも……』

「え? やっちゃったって」

 聞いている間にも、嫌な予感が走っていた。

『お母さんから引っ越すって聞いた後、いま電話する前に、勘違いだといけないから確認したの。その……ちぃちゃんに』

 血の気が引いた。

『それで、ちぃちゃんも、すごく驚いて……』

 千亜希に確認したと。「セージが引っ越すって聞いたけど本当?」と尋ねたと。

『そしたらちぃちゃん、押し黙っちゃって、その後、電話も切られちゃったから……』

 仕方なく僕に直接電話で聞くことにしたらしい。

「それは……まずいな……」

 一番隠しておきたかった相手に、バレてしまった。

「僕……ただじゃ済まないかもしれない……」

『えっ、どういうこと? なんか怖いんだけど!?』

 悠乃も不穏な気配を感じたようだ。

 どうしようかと、対処法を模索していると、

 ぴん、ぽーん──と、家の呼び鈴が鳴らされた。

 電話越しに悠乃も聞いたようだ。息を呑む気配がする。

 まるで、ホラー映画か何かのようだと。

「……後でかけ直す」

 僕はスマホを耳から離して、『ちょっと、セージ!』と呼ぶ悠乃との通話を切った。

 ぴん、ぽーん……と、急かすように、再びの呼び鈴。

 連打というほどではないが、帰る気はないぞという意思を感じる。

「僕が出るよ」

 自室から顔を覗かせていた母を下がらせて、僕は玄関口に到着した。

 意識して呼吸を整えながら、扉を開いていく。

 ──怨霊みたいな目をした千亜希の顔が、開いた扉の隙間から見えた。

「っ!?」

 しゃっくりのような悲鳴を上げた僕は、反射的に扉を閉めようとした。

 すると千亜希の手が別の生き物のように動き、扉の縁を掴んで止める。

「せいじくん」

「はい」

 軋む音を立てて扉が開き、千亜希の全貌が現れた。

 スウェットとスキニーパンツという簡素な格好だった。

「おはなしがあります」

「中へどうぞ」

 感情の読めない目と、表情の消えた顔に、逆らう気は起きなかった。

 すっかり暗くなった時間に部屋で二人というのもあれなので、リビングにお通しする。

「お、お茶でも」

「お構いなく」

 千亜希はリビングのソファーを指さした。

 僕は浮気がバレた夫のような気分で腰を降ろし、無表情な千亜希が対面に座る。

「ごめん。言うのが遅くなった」

 軽く頭を下げると、こわばっていた千亜希の肩が、諦めるように力を抜いた。

「引っ越し……転校、するの?」

「ああ」

「……いつ?」

「あと一ヶ月くらい。来月の、GW半ばには」

「…………三週間、だよ」

 壁のカレンダーを一瞥すると、引っ越し予定日まで三週間ほどだった。

 そうか、言えずにいたら週を跨いで、いつの間にか残り三週間になっていたのか。

「聞いて、ないよ……」

「ごめん」

 いま言ったんだから聞いてないのは当たり前だ──なんて口走るほどバカじゃない。

「聞いてない、聞いてない!」

 千亜希は同じ言葉を、今度は強い声量で繰り返した。

 僕は気圧されるまま、縋るような顔をした千亜希と目を合わせる。

「だって……これから、なのに……」

 千亜希の目端に涙が浮かぶ。

「新学期になって……ゆーちゃんも戻ってきて……私も……これからきっと、いい感じになるって思ったのに……なんで、今日なの?」

 千亜希の言葉は断片的になっていたが、何を言いたいのかは、よく分かる。

 実際、今日は幸先の良い一日だった。

 転校した幼馴染が戻ってくるという劇的な朝に始まり、クラスメイトたちとの親睦会も好感触で、悠乃と昔のように打ち解けられた。

 二年目の高校生活が楽しくなる──そんな予感を抱くことができた。

 なのに、今度は僕が転校するという。

 乗せて落とすとでも言うのか、誰が企図したわけでもないのに、弄ばれる気分だった。

「どう、して?」

 気持ちの整理を付けていたのか、長い間を置いてから、千亜希が問う。

 どうやら千亜希に伝わったのは、『転校する』という部分だけのようだ。

「それは……」

 説明すべきかどうか迷っていると、千亜希がふと顔を上げて、僕の背後を見た。

「お取り込み中だけど、私もいいかな?」

 リビングの入り口に、母の姿があった。

 スーツから簡素な部屋着に着替えていた母は、微苦笑しながら頬を指で掻いている。

「あ、えっと、またお邪魔してます……」

 千亜希も急な保護者の登場で冷却されたのか、気まずそうに姿勢を正す。

「母さん、悪いけどいまは……」

「ダメよ。若い子の大事な話に親が首突っ込んで悪いけど、引っ越しのことなら私だって当事者だもの。むしろ原因を作った身としては、ちゃんと説明するのが筋でしょ?」

 母は僕を黙らせ、気さくな口調で交ざってくる。

 そのまま場の空気を握ると、手早く全員分のお茶を入れて、ソファーに腰を下ろした。

「真奈美さん……原因って?」

 少しは落ち着きを取り戻してか、千亜希が改めて問いかける。

「うん、まあ簡単に言うと──」

 母はカップを置くと、千亜希に向き合う。

「デキちゃった☆」

 千亜希の目が、漫画みたくまん丸になった。

 僕はといえば、自分で頭をコツンと叩く母の姿に、全ての気力を奪われている。

「で……え? えぇぇぇ!?」

 軽くお腹を撫でる母に、千亜希が口元を押さえながら腰を浮かす。

「端折りすぎだろ……」

「あら、結論から言うのは大事よ?」

 母の説明不足を咎めるも、ぬけぬけと返された。

「デキたって……真奈美さんそれ……赤、ちゃん?」

「そ。なんか今月は遅れてるなーって思ってたらオェェって吐いたの」

 そこは端折れよ──と言っていいのかどうか、男の僕には分からない。

「お、おめでとう、ございます……」

 家に来たときの怒りもどこへやら、千亜希は目を白黒させながらそう言った。

 無理もない。知人に妊娠を報告された高校生が驚きもしなかったら逆に怖い。

「ありがと。まあ、あの人には悪いかとも思ったけどね」

 母の言葉を聞いて、千亜希がハッとしてリビングの一角を見る。

 視線の先にあったのは、我が家の家族写真──他界した父の写る写真だ。

 家の別室に仏壇が置かれてから、もう三年が経つ。

 未亡人が再婚を考える月日として、ことさら早いということもないだろう。

「相手は私の地元に住んでる人でねー。あちらも奥さんを亡くしていて、他人事とは思えずにいたら、いつの間にかよ」

 母は事の次第を語り出す。

「本当は、お互いの子供が大人になってから、早くても誠治が高校を卒業するくらいまで待って再婚を切り出す予定だったんだけど……ちょっとコウノトリが飲酒運転をね?」

「なにがコウノトリだ……」

 要するに『酔った勢い』だ。僕は怒っていいと思う。

「ふぇ? じゃあ、誠治くんが妊娠に? 赤ちゃんして、お兄ちゃん産まれるの?」

 千亜希は混乱していた。さっきまで真面目に怒っていたところ、驚くほどめでたい理由を聞かされて、感情が向く方向を見失っている。

「ちなみに僕が聞いたのは先週、新学期の日の夜だった」

「あんた面白い顔で箸を落っことしてたもんねー」

 ケラケラと笑う母とは対照的に、僕はげんなりした顔をしていただろう。

「まあ、とにかくそうなった以上、取り急ぎ相手の家族と面談したんだ」

 この母に説明を任せるのは不安なので、僕が引き継ぐ。

「相手の人も、その連れ子さんも、事情が事情だからえらく恐縮した様子でさ。これもう再婚を認めるか認めないかとかいう問題じゃないだろ?」

 ああいう席では、親の再婚で義理のきょうだいになる連れ子同士が対面して、お互いの親がハラハラしながら見守るとか、そういうのが定番だ。

 そんなもん二の次だった。

 血の繋がらないきょうだいより先に、血の繋がっている弟か妹が『デキた』のだから。

「今後のために、できるだけ早く一緒に暮らそうってことになったんだ」

 いま振り返っても、順当な結論だったと思う。

 なにを優先するかと言えば、十月十日後にやってくる出産の支度に他ならない。

「私としては二度目だし、こっちで産んで誠治の卒業を待ってからでもよかったのよ? なんなら誠治はこの家で一人暮らしして、卒業してから合流って形でも──」

 母の強気な発言を聞いて、千亜希がハッとした。

 こちらを見る顔には、活路を見出したような色があったけど……

「駄目だ」

 きっぱりと、断言せざるを得なかった。

「まずこっちで産むのはハイリスクだ。一緒に暮らして手助けできる人間が僕くらいしかいない。逆に再婚相手の家は母さんの地元だ。新しい家族に、祖父さんや祖母さんからもサポートを期待できる。最優先すべきは、お腹の子だろ」

 まだ見ぬ弟か妹のために、そこは妥協してはならない。

「僕が一人暮らしするっていうのは、一度は考えたけど……」

 表情を陰らせた千亜希に向けて、もう少し言葉を尽くす。

「父親……再婚相手の人は、会って話してみた限り真剣だった。連れ子さんも急なことで驚いただろうに、家族として一緒に暮らそうって言ってくれたんだ──誠意があった」

 名前に誠の一字を持つのが密かな信条。なら、相手の誠意も軽んじてはいけない。

「それを、卒業するまで二年間も先送りにするのは、長すぎる」

 再婚家庭の関係を親密にするなら、早い方がいい。

 母だけでなく僕自身も、人生の変化に対応しなきゃいけない。

 その大切な時期に、今後の人生を幸いにするための重大な局面に──

「友達と離れるのが嫌だからって理由だけじゃ、背は向けられない」

 そのとき千亜希が見せた表情の変化には、痛みを感じた。

 分かっている。動機は誠意だったとしても、傷付ける言葉だ。

 お前と一緒にいるより大事なことがある──と、面と向かって言ったのだから。

「大人なんだか未熟者なんだか」

 母の複雑そうな呆れ声は聞き流した。

「とにかく、今日悠乃が転入してきたってのに変な話だけど」

 僕は、改めて千亜希に宣言する。

「僕、転校することになった」

「…………」

 僕を見る千亜希の表情には見覚えがあった。

 昔、引っ越しのため車に乗った悠乃を見送ったときの表情だ。

 車が遠くなって、見えなくなって、もう手は届かないのだと痛感したときの顔だった。

「そっか……」

 千亜希はやがて苦笑いを浮かべ、諦めたような声音で続ける。

「そういうことなら、仕方ない、よね」

 母の妊娠という理由を聞いてしまった以上、引っ越しや転校に異議は挟めなくなった。

 ただ、それでもやっぱり、これは『卑怯』だ。

 異論を申し立てたら悪者になってしまうという意味で、これは卑怯だった。

「ごめんね、ちぃちゃん。大人の勝手で」

 母も同じ事を思ってか、千亜希に静かな口調で詫びを入れる。

「謝っちゃダメです」

 しかし千亜希は、明確な笑みと強めの口調でそう答えた。

「お相手の方、いい人なんですよね?」

「そりゃもう。息子の人生も懸かってるもの。前の旦那より厳しい目で選んだつもりよ」

「お引っ越しも、新しいご家族と、みんなで幸せになるためなんですよね?」

「ええ、考え抜いた末に決めたの」

 真剣に問う千亜希に、母も──息子の僕すら初めて見るような風格で応答する。

「なら、ごめんなんて言っちゃダメです。いまは真奈美さんが一番大事なんですから」

「っ……ありがとう。ちぃちゃん、大人になったね」

 励ますような笑顔だった千亜希に、母は涙ぐんで礼を言った。

 高校生の男子ごときには計り知れない、女同士の何かが強く働いているように見えた。

「えっと、じゃあそろそろお暇します。すみません、こんな時間に上がり込んで」

 千亜希はソファーから立ち上がる。

 このまま帰していいのかとは思うが、引き留める理由もない。

「じゃあ、送っていくよ」

「いいよ、すぐそこだもん」

 千亜希を追う形で玄関に行くも、家まで送ることは断られる。

「いや、でも──」

「ごめん。続きは、頭を冷やしてからがいい……」

 食い下がろうとした僕に、千亜希は背を向けたまま、静かな口調で胸中を伝えた。

 触れがたい気配に、僕はその場で立ち尽くす。

「それじゃ、お邪魔しました」

 千亜希は僕というより後ろの母に頭を下げると、我が家を出て行った。

「うちの子、一丁前に女を泣かせるようになったのねぇ」

「言ってる場合かよ。どうするかなこれ……思い詰めて悪化されると後が怖いぞ」

 母の揶揄を聞き流し、僕は軽く頭を掻いた。

 これで関係がこじれて、気まずいまま転校することになるというのは、流石に嫌だ。

「たぶん平気よ」

 だと言うのに、母は平然とした様子で言う。

 僕は責めるような顔で振り返るが、母は予測済みだったような笑みでこう続けた。

「思い詰める前に相談できるお友達なら、ちょうど今日、帰ってきたところでしょ?」

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