親父の甘甘南国夏休み

神虎

第1話 プロローグ

七月二十五日


 「ゴウ ガー ドガー。」

空が鳴いている。

見上げれば北側の白いホイップを浮かべた蒼い空と濃いグレーと暗闇が伴った空が凌ぎ合っている。

空の暗闇の中に、閃光が走った。数秒遅れて、「ゴゴゴ ドーン。」割れるように鳴り響く。

空の凌ぎ合いは、暗い空が勝ったようだ。間もなくカタブイ(片降り、スコール、極地雨)が襲ってくるだろう。

ちょっと遅めの昼食をオヤジにはまるで似合わないおしゃれなアジアンカフェで済ませ、車を停めてある公設市場の駐車場へ向かう途中に空が泣いた。大粒の雨粒に叩きつけられ眼鏡越しの視界もままならない。

走って市場のアーケードの下に逃げ込んだ。幸いビーチ用白い四人がけテーブルと椅子は濡れていない。

三つあるテーブルの二つは中国からの旅行者で賑やかに占められていた。

小さいがそれなりにフードコート的な役割を果たしている。何も注文せずに利用するのは気が引けたので、いつものカフェコーナーで熱いコーヒーを買い、席に戻ろうと振り向くと、スマホを置いていたテーブルに赤いキャップを被った長いブラウン色の髪の少女が座っている。

「ここ座っていいですか?」こんなオジサンが相席だと申し訳ない。先にテーブルを取っていたのは私のほうだが、何と無く若い女性には必要以上に気を遣ってしまう自分がいる。

「すいません。私のほうこそ。」サングラスを外し、こちらに向いた大きな瞳は蒼く深く澄んでいた。白いTシャツが濡れて青いブラジャーが透けて、目の遣り場に困る。

若い頃のようにドキドキする自分が妙に恥ずかしいような、少々嬉しいような…。

 会話がないのも重苦しくて、「コーヒー好きですか?ここのコーヒーなかなか美味しいんですよ!」と薦めると、「あ、はい。好きですよ。」という回答に心が軽くなった。

カフェの女性がたっぷりの笑顔を含めながら、「なかなかじゃなくて、めっちゃ美味しい!ですよ。」とトレーに一杯のコーヒーと豆乳ドーナツを二つ乗せてテーブルに置いてくれた。ドーナツは余りそうなのでサービスらしい。「うちの子迎えに行くんで、そのまま置いててください。」礼を言うと店を閉めて帰っていった。

徐々に雨音が静かになっていく。

「あ、お金。」と小さなショルダーバッグから財布を弄る彼女に「あ、いーから、熱いうちにどうぞ。」と薦めた。

「すいませーん。頂きまーす。」愛くるしい笑顔を振りまいて、大きくドーナツに齧り付く若さが眩しい。

何処かに誘いたい気分になったが、いかんいかん。私のすることじゃない!調子の乗りそうな自分を諭して席を立った。

「雨止みましたね。それじゃ。」

「すいませーん、ご馳走になっちゃって!」彼女が軽く頭を下げた。このまま居ると気が魅かれていきそうだ。コーヒーカップを手に軽く会釈をして背中を向けた。


ほんの数日前まで、仕事漬けの日々だった。長年日本のウェッジウッドとも称された有名な食器メーカーの営業部に所属していたが、コロナ禍の影響を受け、売上が目標額の30%まで低迷し、会社存続の危機と上は判断したようだ。中国系企業からのMAにより事実上の買収が決まり企業傘下に入ることになった。当然、人員削減の流れとなり、課長職以上の早期退職を募ることになる。所謂、「肩叩き」というやつだ。無理して残っても、会社の組織体系は先方の有利に進められて配置転換される。信頼出来る上司と熱心な部下に恵まれた充実した日々はもう戻らないだろう。数十年積み上げたキャリアが、足元から瓦解していくような気がした。上司と部下に引き止められたが、迷う事なく辞表を提出した。仲の良いクライアントの担当から、「こちらで一緒にやらないか?」と有り難い誘いもあったが長いサラリーマン人生に終止符を打つことにした。

妻とも離婚し、両親も他界し、独り身だったので、退職後は冬でも暖かい南の島で生きていこうと考えていたこともあった。


そして今は南国の離島に居る。帰りのチケットは取っていない。安宿に滞在して、もうそろそろ一週間になる。まだ自分にこの島の暮らしが合うのかはわからない。何かの仕事を見つけるのか、商売でもするのか、焦らずゆっくりと見つけていこう。人生のストーリーはまだまだ先がある。


宿泊先のコンドミニアムに着く頃にはまたホイップを浮かべた蒼い空に戻っていた。「あの娘、あの後どうしているだろうか?」。「キャップにサングラスにデニムの短パンだから多分リゾバ(短期間で水商売のバイトに来る若い女の子達)だろうな。」

四十歳を越えたあたりから、キャバクラとか若い女の子中心の店が苦手になった。大げさ過ぎる身振り手振りに嬌声、作り笑いと派手な拍手、わざとらしいのは苦手だ。何度か、転職をしながら営業一筋に生きてきたから、時折人の心の内側が透けるように視えたり聴こえたりする。もう、若い女性に何かを期待するような歳でも無いだろう。


七月二十七日

 

昼食を食べてからドーナツの礼を兼ねて、公設市場へと足を運んだ。差し入れの和菓子を渡して、馴染みとなったカフェコーナーの女性にコーヒーを頼んだ。「こんなに暑いのに、よくホットばかり飲めますねー?」ちょっと苦笑しながら「歳いくと熱いほうがいいんだよ!」と応えた。幸いフードコートはアーケードがあって、日差しを凌げる。たまに心地よい風が吹き抜ける。傍らでは野菜や果物を売るオバア達が談笑に花を咲かせていた。

「あー、いたー!」赤いキャップにデニムの短パン姿の女性が信号を渡り駆け寄って来た。たっぷりの笑顔と大きな瞳が眩しい。瞳が蒼く見えるのはカラコンだろうか?「この前はありがとうございました!お礼言いたいと思って昨日も来たんですよ。」言いながらテーブルを挟んで向かいの席座った。「あ、私もホットくださーい!やっぱりコーヒーはホットですねー!」前髪を汗で濡らしながら、熱いコーヒーを啜った。


「何処から来たんですかー?旅行とか?」「旅行といえば旅行なんだけど…。」人懐っこい性格なのだろう。蒼く大きな丸い瞳がキラキラしている。どうやら、こんな親父に興味津々のようだ。若い女性と二人で他愛のない世間話に花を咲かせるのは何年ぶりだろう。親子以上の年齢差がありながら、不思議と趣味や価値観が合うのだろう、ゆるゆると流れる時間が楽しい。

 彼女はこの島に祖母と叔母が居て、夏休みで遊びに来てるようで、普段は京都の芸術系の大学の四回生で伝統工芸を学んでいるそうだ。優秀な学生なのか、もう卒業作品は提出していて、先生から合格を貰っているそうだ。ややギャルよりな見ためと違って、しっかりとしている。一見だけで判断した自分が少し恥ずかしい。

 彼女との会話は、まるで暑い肌にミストがかかるような優しさと刺激を感じる。心に浮かんだことに何の尾鰭も着けずに伝えて来るその言葉は透明で美しい。楽しい時間は、カフェコーナーの閉店と共にお開きになりそうだ。「何だか楽しかったー!あのぉ、LINEとか交換出来ます?」嬉しい申し出に心が踊る。


 ホテルに戻ってシャワーを浴びた。彼女からLINEが来ていないか気になって仕方がない。いい歳してこんなにソワソワするなんて、「親子位歳が離れてるのに何期待してんだ?期待したところで何もないだろ!」とはやる自分に言い聞かせる。


 気分も良いし、今夜は独り呑みに出ることにした。幸い何度か釣り旅行で来たことがあるので、いつも立ち寄る店が何軒かある。人気店ばかりだから、きっと今日も混んでいるだろう。たまには気分を変えて、新しく店を探してみよう。港近くで見かけた居酒屋が気になったので、歩いて行ってみることにした。海岸通りより、少し手前の路地に入ったところに「小料理碧」があった。昭和的な看板から地元客中心の店と思われる。何も情報を知らないまま飛び込むのも酒呑みの醍醐味の一つだ。暖簾をくぐり引戸を開けると「いらっしゃいまーせー!何名様ですか?」エプロン姿の宮古美人なママさんが迎えてくれた。短髪で割烹着を着た強面な大将が包丁を響かせている。ノスタルジックな雰囲気の店内には、煮物と炭火の良い香りが漂う。ご夫婦で経営されているようだ。案内された木造りのカウンターに腰掛け、まずはビールで喉を潤した。お腹が空いていることを告げ、女将と大将にビールを振る舞った。強面な大将の笑顔が可愛すぎて笑える。

席はカウンターと6人ほど入れる座敷が三つ、島らしい作りだ。小鉢、刺身、煮物と楽しんでいると、親父五人組そして小学生位の子供を二人連れた四人家族とたて続けに入ってきた。「忙しくなってきたし、ちょっと早めに出ようかな?」バッグから財布を取ろうとしていたら、カウンター越しの女将がスマホで電話をかけた。「サラちゃん、手伝いに来れる?」「混んできちゃったから、お願いねー!」

聞き覚えのある名前にドキッとした。そうあの赤いキャップの若い女子大生だ。出した財布を一旦仕舞って待つことにした。胸が高鳴るのが少々恥ずかしい。牛肉の炙りが出る頃、後ろの引戸が開いた。女将が「おはよー!ごめんねー!」と言った先にあの娘がいた。ちょっと驚いていたが、すぐにカウンターの中に入って、エプロンを着けた。お互い目が合って、「いらっしゃいませ。」軽く会釈した。混み合った店内は、バタバタと忙しく、話をする時間は無さそうだ。親父の長居は見苦しい、残念だけどそろそろ帰ることにしよう。バッグを膝に乗せると、私の席の後ろを通る際に「もうすぐ手が空きますから」と彼女が微笑んだ。


 親父五人組が泡盛の一升瓶を下ろし島名物のオトーリが、始まった。

女将「あー、始まっちゃった。うるさくてごめんねー!あれー?二人知り合い?」

彼女「一昨日市場で会ったの。今日も会ったけどね。」カウンター越しに愛くるしい笑顔で、「開けたら、いるんだもん。びっくりしたー!」。彼女が女将と大将に成り行きを話すと「それは、アンテナが近いからさぁ。周波数が合っとるんよ。会いたいとお互い思えば引き合うよ。」女将と大将が笑っていた。叔母が居酒屋をやっていると聞いていたが、どうやら女将が彼女が話していたその叔母らしい。大将はこの店に入る前は、内地から仕事で島のホテルの厨房で働いていた。この店は、元々彼女の叔母である女将と祖母でやっていたらしいが、大将が何度か呑みに来ているうちに、付き合うようになり結婚したそうだ。  

 移住予定で賃貸物件が見つかるまで暫くホテル滞在することを話すとこの店の二階と三階がゲストハウスになっていて、安くて朝食も付いてるそうだ。部屋も空いているし、こちらに来ないかと誘われた。今のホテルの半額位で朝食付き、これはありがたい。長期滞在も多いらしく、このご夫婦の経営なら居心地も良さそうだ。それに彼女もそこで管理人として寝泊まりしている。暫くの間、彼女と一つ屋根の下で一緒に暮らせる。偶然とは恐ろしい。たまたま入った店で、こんな幸運あっていいのだろうか?

 早速、明日引越することにした。荷物はデカいトランク一つ、釣り道具は車に積みっぱなしでよいだろう。今度は彼女も含め四人で乾杯して、雑談を楽しんでから店を後にした。「本当に現実か?展開良すぎない?」両手で頬を軽く叩いて、徒歩でホテルまで歩く。呑んだ後の登り坂は親父にはややキツいが、にやけた顔が戻らない。

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