二人の少女
黒神
第一章
1-1
「わ~見てください! 流石! タワーマンションの上層ですね。街並みを一望でき、なんていうか、勝ち組になったぞって気分になります。私もいつか、エリートなイケメン高身長、高収入男性を射止めて、玉の輿にのりたい……って宮部さん、苦笑いしないでくださいよ! 可能性はゼロじゃないんですからね! いつか、きっと、そのうち、叶う日がく」
「はい現場の松村さん、ありがとうございました」と、視界の宮部が松村アナの「る」を言い終える前に中継を切り、オリジナル五分アニメのコーナーが始まる。
内容にはこれっぽっちも興味はないし、何となく無音よりは落ち着くから付けているだけのニュース番組だが、宮部アナのクソ女感も松村司会の進行も実に見事で、洗礼されたコントを見ているよう。
「勝ち組、ね」
わざわざ高いところに行きたがる奴も、高いところに住みたがる奴も、愚かしい馬鹿だと思う。日本は世界で見ても自然災害、特に地震が多い。何とかプレートがぶつかるちょうど真上に位置するから地震が多いのだと、中学の地理で習った気がする。しかも地震が起きやすい場所には火山も多く、マンションから見渡せるあの浅間山も火山であり、江戸時代には大噴火したらしい。
地震だろうが噴火だろうが、高いところにいて逃れられる危機なんてない。以前、このマンションと同じ不動産会社の管理する物件で、耐震基準を満たしていない物件があると問題になった。きっと地震が起きれば真ん中からペキッと折れて、真下に立つ家々をプチプチと押しつぶしていき、一体に砂塵をまき散らすんだろうな。
「死ぬ前に一回、そういうの見てみたいな~」
ゴジラとかエヴァンゲリオンとか、そういう、死が舞台セットとして組まれている物を見ても『やっぱり死んだか』ぐらいにしか思えないけど、血だらけの死体を目の当たりにしたら変わるかな? プチプチっと潰されたあたりで、てっぺんにいる私も押しつぶされるか、窓から放り出されてコンクリートに叩きつけられるかしてるから無理だろうけど。
労せずして手に入れた十五階建ての高層マンションの最上階の一室。ここに住んでもう一か月になるけれど、勝ち組だと思ったことは一度も無い。高層マンションに憧れる人の気持ちも、それを嫉妬する人の気持ちも理解できないが、ただ一つ、ここに私を住まわせることにした人間の思考は簡単に理解できる。
――どこか遠くへ。あわよくば死んでくれ。
別にしがみついてでも生きたい理由なんてないけれど、思い通りに死んでやるのも癪だから、ちゃんと遊んでから死んでやろう。
沸騰を告げる、電気ケトルのパチンっといった音が聞こえたので、台所からノンシュガーのスティックコーヒーを一本取り出しコップに入れた。お湯を入れパチパチっと弾けて溶ける姿に「津波もこんな感じかな」と呟いて、少しづつ飲み干した。
七時半前の電車に乗り遅れると、その次の電車は一時間後、完全に遅刻する。一本早い電車は三十分前にあるけれど、朝は可能な限り家にいたい。ギリギリで行動をしたい訳じゃないけど、睡眠時間を削ってまでする五分前行動に意味はないと思う。
鞄に結び付けたストラップを引っ張り、改札窓口に立つ駅員へと定期を見せる。
「はい、いってらっしゃい」
「……っす」とほぼ口を開かず、漏れ出た空気に言葉をのせた。
階段を上り、三番線の札が垂れ下がる角まで行き、また階段を下る。既に停車している電車の扉が少し開かれていて、中を確認すると、もう何人か乗客がいる。田舎の常識に疎かった私は『切符は現金払い』ぐらいしか知らなかったし、それも実際違っていた。何故かクレジットカードだけ使えた。長い時間電車が停車していても故障ではないし、扉が自動で開かないのも仕様らしい。ここにきて初めて電車移動をした時、目的の電車が発車三十分前に既に停車しているとは思わず、それに乗って待っていることができることも知らなかった。この電車はいつ発車するのだろう? 目的の電車はいつ来るのだろう? と待ちぼうけた結果、「お客さん、乗るの? 乗らないの?」と急かされた。
「ねえ、今度の休みに服見に行こうよ。そろそろ夏物の新作が並ぶ頃だしさ」
「え~、また自転車で行くの?」
「大丈夫、お母さんが今度の休みなら乗っけてってくれるって」
「マジ? やった、これで電車代浮いた」
「浮いた分であれ食べようよ、サーティーワンの新作! レモンとミントのやつがあるから二人でシェアしてさ」
「いいね。結のお母さんサマサマだね」
何を電車代ごときで、と中学生の私が聞いていたら思っただろうな。昔住んでいたところの最寄駅から新宿まで、各駅で一時間かからずを三百五十円。ここで同じ時間電車にのっていれば倍以上の金額が発生する。
田舎の人間の足腰は都会の人間よりも頑丈にできていると思っていたけど、所詮は人間、何十キロという道を平気でこいで行けるやつなんてそうそういない。
ふとした時に郷愁に想い馳せるあたり、まだここを故郷と呼べるほどには田舎染まりしてないようだ。
――お母さんは、どうだったんだろう。
電車の扉が自動で開くことを、電車代がかからないことを、自転車何てなくても生活できることを、どれくらいで当たり前に思うようになったんだろうか。
駅ホームを出てからスクールバスに乗り、長い長い斜面を駆け上る。車窓から見渡せる景色はシャッター、シャッター、街の家電屋さん、シャッター、薬局、シャッター、シャッター。俗にいうシャッター商店街に面した道路を通り過ぎていく。
四十五度くらいありそうな坂をせっせことこぐ自転車の横を、電動アシスト付き自転車が追い抜く姿を見ていると物悲しい気持ちになってくる。優劣、いや貧富かな。私の中で上下がハッキリとついたことだけは解る。普通の人なら自転車一つでそこまで思いふけることもないんだろうけど、ママの影響かな、人を選別する目だけは養われてしまった。それも、特に貧富を見分ける目ばかり。
『ありゃ駄目だね、安酒飲みのうえ粘着質ときた。美憂、あの客はがしてきな』
『最近はスーツも時計もレンタルも全部レンタル。見かけだけいっぱしのエリート気取りばかりで嫌になるよ。金持ち身なりの一文無し。喋ればすぐにぼろを出すが、その手間すら惜しいこっちにしちゃ時間泥棒の何物でもないさね』
気が付けば愚痴をこぼしていたし、使えるものは子供でも使った。客のはがしに子供を使うのはどうかと思うけど、私も思いのほか楽しんで働いていた。『お母さん、宿題教えて』って計算ドリルを持っていくと、なぜか客の方が親身に教えてくれた。いい格好しいなのかって思ったけど、子持ちの子煩悩であり『昔の娘を思い出す』と私を通して幼き頃の娘を映していた。おかげで教師には困らなかったし、宿題をやり忘れたこともない。頑張った次の朝にはヤクルトが一本添えられたけど、今思えば完全に搾取されている。
「単純だな、私」
ぽろっと出た自嘲は、隣から漏れ聞こえる音楽に押し返され、私に戻ってくる。張り付いて、溶け込んで、よく馴染んだ。
K高の小さなロータリーもどきに停車し、全生徒が降りたと見るやすぐさま運転手はバスを走らせた。強めに踏み込まれただろうアクセルに、エンジンは悲鳴を上げ、冷たい空によく響く。バスは再び駅へと向かい、最初に乗り切れなかった生徒を迎えに行く。公立の、割と過疎ってる普通科高校には、バス二台分の賃金も払えないほど経営が切迫しているらしい。
「おい早くしろって、課題写すの間に合わねーだろ」
「いや、俺かんけーねーし」
扉のついていない汚れたスチールの下駄箱から乱暴にサンダルを取り出し、外靴を放り込む二人の男子生徒。白っぽいベージュの廊下をかぱかぱと、気の抜けた下駄みたく踏み鳴らし、正面の自販機を曲がり階段をばたばたと上る音が耳まで届く。
「チッ」
ああいう、廊下を野原のように駆け回る輩がいるせいで、私の足先は寒い寒いと風晒しにされている。廊下は走れなくていいし、サンダルであることも許容できるけど、このスッカスカの穴の開いたようなサンダルだけは即刻廃止してほしい、心から。
ぺた、ぺた、ぺた。
三階まで上り、奥に見える『1-1』の札を目指して歩く。『1-3』を通り過ぎる度、羨ましく恨めしい感情が湧きたつ。『1-3』から『1-1』まで二十メートルってもんだろうけど、塵も積もればなんとやらで、毎日二十メートル余分に蓄積された疲労は確実に身体を蝕んでいる。とりあえず、体力測定のトラック一周分ぐらい免除にならないかな、ならないよね。
教室の扉は既に開いていて、半数以上の生徒が騒ぎひしめいている。
ああ、うるさい。
ライブハウスの方がよっぽど声高で、人が密集していたはずなのに、こっちの方が耳に痛いのは何故だろう。
クラスの真ん中最後尾、名簿順で割り振られた『竹内』と『武部』の間。『武井』でも『竹前』でもなく、『武花美憂』に用意されたVIP席。ガタイのよい野球部竹内の背に隠れ、居眠りしようがスマホを見ようがおとがめなし。私は一限目の英語の教科書を机に置き、筆箱を枕に突っ伏した。
「ねぇ、もう掲示板アカフォローした?」
「したした、フォロバもされたし」
「どんな感じどんな感じ!」
「まだできたばっかって感じ。でも載ってる情報事態はホントっぽい。名前はイニシャルでふせられてたけど、三年生の女子生徒と去年来てた教育実習の先生がデキてたって投稿、あれマジっぽい。部活の先輩が同じクラスらしいんだけど、妙に仲良かったし、お昼に一人で抜け出してたとか。極めつけはこれ。顔はモザイクかかってるけど車から降りてくる私服の二人、聞いたら間違いなくあの二人だって言ってた」
「マジ、確定じゃん」
「ね」
その後も二人の女子生徒は「ばれたらどうなんのかな?」とか「免許剥奪されてニュースになったら面白くない?」とか。新しい遊びでも見つけた子供のように、耳障りで、鬱陶しい。母親の子宮の中に『配慮』を置いてきたらしい。可哀そうに。
『その気になればいつでも殺せる』って考え方は、一時的に沸いた悪意を押し留めるのに有効だと<あの男>で検証し、成功して以来よくやる処世術。できるだけ具体的に、ドラマのセリフでしか聞かないようなワードをチョイスするのがいい。
今回は『ぴーちくぱーちくうるせぇんだよ。その汚ねぇ口塞いだまま死んでくれや』と他殺スイッチを二回、押した。これで脳内の二人はあの世に行った、さようなら。
「あ、今日フライデーの発売日だ」
ガタンゴトン、キキィーの音に、電車が発車と停車を繰り返すたび乱されている気がする。小さい画面の文字を追うのに疲れ、軽く目をこする。落ち着いて漫画も読めやしない。もしも、私が小説を好んで読むような文学少女なら、こんな無機質な音にかき乱されることもないのかな。
「……」
あの子みたいに。
真っ黒いショートボブの、薄い紅の口紅でもしたら日本人形のように精巧な作りの顔。ブレザーなんかよりも白三本のセーラー服を着て図書館にいたら映えるような、まさに文学少女。漫画の図書委員といえば三つ編みだけどボブもいいな、なんて考えているあたり、私は文学少女にはなれそうにない。
最寄り駅の二駅前で降りる彼女から目を逸らし、一ページ前から読み直した。
駅構内の売店には寄らず、歩いて五分のコンビニで『週間少年フライデー』を買った。
『合計 三百十九円』
二百円で一ポイントがつき、当然、百十九円は切り捨て。毎回一ポイントのために五分歩く。時給換算で十二円と、我ながら無駄な足労をしているなと思う。いつも使っていたコンビニが緑のコンビニってだけで、そこの店員にも商品にも愛着はない。ただ、特別帰る理由もないから、今まで通りを繰り返しているだけ。
これで家に帰って即漫画としゃれこめれば、五分の寄り道も軽いのだけれど……
「遅い、駅からマンションまで歩くのに何時間かかっているの」
早川はこちらを見向きもせず、そう言った。「人とお話する時は、まず相手の目を見ましょうね愛美ちゃん」なんて言ったら拳が飛んできそうなので「学校でちょっとね」と適当に嘘をついた。毎週毎週、こんなくだらないことに駆り出されているのだから、少し寛容になろう。
リビングの真ん中に置かれたテーブルの上に、何やら大きめのサイズの手帳を広げ、それを見てはカタカタとノートパソコンに何か打ち込んでいる。お世辞にも早いとは言えない。多分、私がフリック入力で打ち込んであげた方が早い気がする。
早川は「ふぅ」っと息をつき、ノートパソコンを閉じてから立ち上がると、冷蔵庫から見慣れないザクロのような赤々しい色のボトルを取り出した。蓋を開け、みせつけるように喉をならし、それを飲み下す。まるで、若い女の生き血でも蓄えるように。そこで私はようやく、ボトルの柄ではなく液体そのものが赤いことに気が付いた。
「あら、気になるの?」
私がものほしそうに見ているとでも思ったのか、いやらしく頬を吊り上げて聞いていた。
「これはただのハーブティじゃないの。ボトルの底にドライフルーツが転がってるでしょ? キウイ、クランベリー、パイン、オレンジ、レモンピール、アプリコット。六種類のフルーツの甘さが溶けて出して、少しクセのあるハーブティもまろやかにしてくれるのよ。おいしくておまけにデザートの栄養も摂れて、とってもお手軽なの。まあ、高校生が買うには少し高いだろうけど」
聞いてもいないことをべらべらと語った早川は実に満足そうな笑みを浮かべ、また一口飲む。勝手に人の家の冷蔵庫を使った事、ドライフルーツをくちゃくちゃ咀嚼していること、透明なボトルに黒字で「MY BOTTTLE」とプリントされていたこと、全部が全部癇に障る。
こんな女を秘書に置いておくなんて、あの男の程度も知れたものだ。
あの時、オフィスの会議室で見た早川は、やけに胸元のあいたストライプの白ブラウスにの薄いベージュのジャケット、赤みががかったブラウンのフレアスカートと、少し艶っぽい社長秘書とみえる出で立ちをしていた。
だが実際に蓋を開けてみればこのありさまだ。品性のカケラもない。
しかも私に会う時は黒いスーツのズボンに濃紺のジャケットと、見た目すら繕うこともない。以前(これまた聞いてもいないのに)、『私は仕事として、あの人のために仕方なくここに来ているの。間違っても、私を母親代わりなんて勘違いされたら困るからね』と言っていた。
よくもまあ、これほど恥ずかしげもなく恥をさらして生きていけるものだと感心する。誰からも道徳を教わることなく、子供のまま、ただ歳を積み重ねてしまった成人。
「……あなた、私の話聞いてるの?」
「え、ああ聞いてます聞いてます。お高いんですよね、ハーブティ」
「ったく、今どきの高校生は話もまともに聞いていられないのかしら。年々スマホに毒されて集中力が落ちてるっていうけど、本当にそのとおりね。」
「そっすねー、スマホヤバいっすねー」
適当に相槌を打ったのが気に入らなかったのか、早川は続けざまに口を開く。
「<亡き恩師の娘>だかなんだか知らないけどね、あの人が純然たる好意で、こんな身分不相応の場所に住まわせてもらっていることをよく自覚しなさい。高層マンションなんて高校生には無用の長物よ」
その後も「自分の遊ぶお金は自分で稼ぐ」だの「自分を磨いたから今の地位にいる」だの、人生訓を模った自己顕示欲を発露し、私の近況を五分とかからず聞き終えると、机に置かれた鼻紙も捨てずにそのまま帰っていった。いつもなら他殺スイッチの一つでも押しているところだが、私の頭からとっくに早川のことなど
「亡き恩師の娘……はっ、いい肩書だこと」
こんな身分、こっちから投げ返してやる。
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