第38話 確認のキス
アセビは無事、ケートスの軌道を破片の落下コースに乗せることに成功した。
アセビが指示した飛行ルートを、ケートスは素直に飛行し続ける。
その先に自分が轟沈する未来が待っているというのに。
ほんの少し触れただけなのに、アセビはケートスのことが可哀想に思えた。
この子だって、もっと飛びたかっただろうに。月を壊して、人々に恨まれ恐れられ、最期は人知れず月の破片を受け止めて空に散る。
「あたしはあなたのこと、ちゃんと覚えているからね……」
操縦桿を撫でるアセビの心の中に、不安な気持ちがぶり返してきた。
そう、月を壊したのだ。二十年前、この艦を使って、母シオンが。
どうして、一体なにが起きて……。
そういえば、ピエリスが言っていた。ケートスへ行けば、失われてしまったピエリスの過去の記憶が分かるかもしれない。
ピエリスをシステムから切り離す作業をしているリナリアたちを振り返る。
すると、寝そべっていたピエリスが起き上がり、革靴を履いてアセビに歩み寄ってくる。
ひょっとしてケートスからの切り離しが終わったのだろうか。
期待に鼓動を弾ませるアセビとは反対に、ピエリスの表情は陰っていた。
「もう終わったの?」
ピエリスは答えず、視線を落としている。
身体の前で、両手の指をぎこちなく組んだり解いたりしている。まるで叱られる前の子どものような、ピエリスに似つかわしくない仕草。
「……どうかした?」
蛇のような不気味さが、アセビの足に絡みついてきた。
ピエリスが、やはり彼女らしからぬぼそぼそとした口調で答える。
「システムからの切り離しは、問題なく進められることが分かりました。それほど時間をかけず、わたしはケートスから解放されます」
「そ、そう。なら良かった」
「ですが……」
ピエリスの視線が、アセビを一瞬見つめてすぐ床に落ちる。
目が合ったほんの一瞬、ピエリスのアイリス色の瞳が怯えたように震えるのを、アセビは見逃さなかった。
不安は確信に変わり、アセビの身体を縛り付けた。
どうして、そんな目をするの?
「ぜんぶ、上手くいくんだよね? ピエリスは死なないし、一緒に旅ができるよね?」
操艦席を離れて、アセビはピエリスに歩み寄る。
ピエリスは相変わらず怯えた子どものように縮こまる。
アセビには、うつむいてしまったピエリスのつむじしか見えない。
助けを求めるようにアセビがリナリアを見る。しかし、リナリアもバツの悪い顔で視線を落としてしまった。
「二十年前の損傷で、わたしは通信障害、特に送信機能に不全を起こしていました」
出会ったばかりの、一緒に温泉に入ったときの記憶が蘇る。ピエリスの身体に刻まれた巨大な傷を思い出した。
「それが原因で、わたしの記憶のバックアップは二十年前、その傷を負った時点で止まっていました。それ以降、今日までのデータは、バックアップされていません」
なぜ、今になってそんな話を。
アセビは口も利けぬまま、ただ増してく不穏さに身体をがんじがらめにされていた。
「ケートスからの切り離しに際して、ケートス上にあるわたしの制御ソフトを、わたしの身体にダウンロードする必要があるそうです。そうしないと、切り離してもわたしはこの身体を、心を維持できないそうです」
だから? だからどうした。
どうしてそんな深刻そうな顔で言うんだ。
アセビは胸の奥から湧き起こってくる疑問を、喉の奥で押しとどめた。
もしそれを口にしてしまえば、ピエリスの答えは最悪のものになってしまう気がしたから。
けれど、アセビが口にせずとも、最悪はやってきた。
「制御ソフトをダウンロードすると、記憶のバックアップも同時にダウンロードされます。そして、わたしの身体にある記憶は上書き消去される、そうです……」
「……へぇ」
アセビの口から出たのは、気の抜けた一音だけだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、アセビ……わたしは、あなたと一緒に旅をするはずなのに」
「ちょ、ちょっとピエリス……まって、まってあたし意味が良く……」
いや、本当は分かっていた。だから、訊ねてしまって後悔した。
「わたしはアセビのことを忘れてしまいます」
聞きたくなかった。
ピエリスは、下手くそな微笑みを浮かべて、アセビに言う。
「ですが、アセビが知りたがっていたことは、分かると思います。二十年前の記憶を、わたしは代わりに取り戻すわけですから……」
「よくない! なんにも良くない! そんなの……!」
ピエリスが、あたしのことを忘れる?
この夏の思い出が、ピエリスの中から消え去ってしまう?
はじめはいけ好かない奴だった。
表情一つ変えずに縛り上げて、意味不明な理由で捕まえられて、原付は壊すし、料理はできないし、いきなり服は脱ぐし、部屋に銃いっぱい隠してるし……。
それでも、このひと夏でピエリスはアセビにとってかけがえのない存在になっていた。
転落したアセビを原付で助けてくれたピエリス。
一緒に飛ぶことの楽しさを分け合ったピエリス。
オムレツを不器用に食べるピエリス。
砂浜で線香花火を一緒に見つめたピエリス。
星空に包まれ、初めて唇を重ねたピエリス。
思い出の奔流がアセビに襲いかかり、涙になって溢れ出す。
「まって、まってよ……あたし、そんな、せっかくピエリスと、一緒に……」
涙が溢れ出し、ピエリスの姿がぐにゃりと歪む。ちゃんと彼女の顔を見たいと願うのに、拭っても拭っても目の前がぐにゃぐにゃになる。
息が出来ない。しゃべろうとしても、しゃっくりみたいに喉がひっくり返って、言葉が溺れてしまう。
立っているのが辛い。膝を抱えて、アセビはその場にうずくまる。
その背中を撫でる、ちいさな温もりがあった。
「ごめんなさい、アセビ。一緒に旅ができると、あんなに喜んでくれていたのに……こんな形で、こんな……」
ひぐ。聞いたことのないピエリスの声が落ちてきた。
「わ、わたし……どこかおかしいみたいです……こ、こんな、喋りにくい、ことっ、はじめて、でっ……目の前、もっ、ぜんぜん、見えなくて……」
ぽたり、とアセビの目の前の床に雫が散った。抱えていた膝を解いて、アセビが顔を上げる。
アイリス色の瞳から、透明な雫をあふれさせ、ピエリスがひざまづいていた。
「忘れたくない……わたしは、アセビのことを忘れたくありません……!」
「ピエリス……」
「嫌です……! どうして!? なぜ忘れなきゃいけないのですか! アセビを追いかけたときの暑さも、蚊取り線香と夏草の匂いも、いっしょに食べたオムレツの味も、一緒に話した台風の夜の風の音も、砂浜の熱さも線香花火の輝きも一緒に飛んだあの空の冷たさも、ぜんぶわたしのものなのにッ!!」
「ピエリス!」
アセビはピエリスを抱き締める。力強く抱き締める。そうしなければ、彼女が消えてしまうかのように、アセビはピエリスを自分の胸に抱き寄せた。
腕の中でピエリスが身じろぎする。
「わたしは、わたしが妬ましいです」
「……え」
「わたしはきっと、これからもアセビと一緒に旅をするのでしょう。けれど、そのわたしはもう、このわたしではありません」
ピエリスがアセビの背中に腕を回す。漂流者が流木にしがみつくように、子が親の足にすがり付くように。
「死にたくない。もっと生きていたい。でも、アセビを忘れたくない。でも、でも……」
ピエリスが顔を上げる。アイリス色の瞳は涙に溺れ、目尻は朱く腫れて、唇はかすかに震えていた。
しかし、覚悟を決めた者の眼差しでアセビを見つめた。
「あなたのことを忘れてしまうわたしがこんなことを言うのは、虫のいい話だと分かっています。でも、アセビ。どうか、」
再びピエリスの口が震える。
喉が震え、「っぐ」と言葉がつっかかり涙がひとすじ、赤くなった頬を伝う。
立ち止まってしまった言葉を、アセビが引き継ぐ。
「あたしは忘れないよ、ピエリス。あんたが忘れても、なにひとつ思い出せなくなっても、あんたと出会ったあの日から、今日までの思い出を忘れたりしない」
「……きっと、わたしは聞きたがると思います。わたしと、アセビの関係を」
「うん。そしたら教えてあげるね。時間がいくらかかってでも、話してあげる。だから、だから大丈夫……だいじょ……うぅっ……」
アセビを見上げるピエリスの頬に、ぽたり、と雫が散る。
「出会った人の思い出を大切にするのはっ、魔女の……あたしの、役目、だからっ、あだし、がっ、ピエリスに、話してあげる、からぁ……っ」
気丈に語っていたアセビの声も、嗚咽に溺れていく。
やがて二人は抱き合ったまま、子どものように泣いた。
コンソールと星の光が、涙を流すふたりを静かに包みこんでいた。
「リナ姉は先に行って」
システムからの切り離し、それに伴う制御ソフトと移行はタイマー設定で行うことにした。
完了するのは、ケートスが月の破片を受け止める直前。
目尻を赤く染め、震えが残る声でアセビはリナリアに告げた。
「あたしたちは、ギリギリまで残る」
ケートスから離れすぎるとシステムからの切り離しに不都合が生じるかもしれない。それに、コルベットで脱出してしまえば、のんびり話すことも難しくなる。
物言いたげな顔のリナリアに、アセビは言う。
「海に置き去りにしちゃった兵隊さんたち、迎えに行かなきゃでしょ?」
「ちゃんと、生きて帰るのよ」
「もちろん」
「……ふたりとも」
「……うん。ありがと、リナ姉」
「ありがとうございます。リナリア」
リナリアは自分に礼を言う二人の少女を見つめる。
揃いも揃って目を潤ませ、目尻を赤くして、情けなく洟を啜っている。
ふっ、とリナリアの口から笑みが零れた。
大丈夫だ。この二人なら。
そうでしょ? シオン。
胸の中で問いかけて、リナリアは手を振る。
「またね」
そう言って振り返ることなく、リナリアは艦橋から姿を消した。
リナリアの駆るカルガモが、艦橋のすぐ脇を通過する。
アイリスリットの煌めきをかすかに散りばめながら、カルガモはケートスとは反対方向へ、雲の中に消えていった。
「ばいばい、リナ姉」
ガラスに手をついて、アセビは呟く。
見上げると、星空の一角が黒く塗り潰されている。
ゆっくりと、着実に、終わりが近づいている。
二人は手を繋ぎ、空が一望できる艦橋最前列のコンソールの上に腰を下ろした。
「ねえピエリス」
アセビが雲海を見つめながら囁いた。
「もしピエリスがこのままがいいなら……あたしも付き合うよ?」
一瞬の沈黙の後、つないだピエリスの手に力がこもる。
「だめです」
きっぱりと断られて、アセビは笑う。ああそうだ、ピエリスはそういう奴だった。
笑って、笑い声がかすれて、アセビはピエリスの肩に顔を寄せた。
「やっぱりイヤだよ……! せっかく、これkら面白くなるはずだったのに……!」
洟を啜って、喉を震わせて、アセビはうめく。
その髪を、ピエリスの手が優しく梳いた。
「その痛みが、わたしがいた証明です。今は辛くても、痛みが強いほど、わたしたちのこの夏は、アセビの中に強く生き続けるんです」
「そんなズルい言い方……どこで覚えたのよ」
「アセビと一緒にいると、情緒豊かになるんです」
「……なんか、馬鹿にされた気がするんだけど」
むくれるアセビの額に、ピエリスが口づけする。
「アセビはわたしの、いちばん大切なひとです」
「……あたしのこと忘れたら、ママがいちばん大切になるくせに。この浮気者」
ぐ、とピエリスが言葉に詰まり、アセビの髪を梳く手が止まる。
「……では、今のうちに、確認……しておきますか……?」
ぎこちないピエリスの声に、アセビが顔を上げる。
ピエリスは真っ直ぐ前を向いたまま、鼻の先を赤くしてごにょごにょと言い訳を始めた。
「た、たしかに……アセビの言うとおりかもしれません……でも、いまこの瞬間のわたしは、だれよりもアセビを大切に、かけがえなく思っているんです。誓います」
「確認って?」
「ですから、それは――!?」
アセビがピエリスの唇を、おなじ場所でふさいだ。
突然のキスにまん丸になっていたピエリスの瞳が、ゆっくりと、愛おしげに細められていく。
星の光が、艦橋の床に唇を重ね合う二人の少女の影を落とした。
二人はお互いの髪に手を差しこみ、手を重ね指を絡めて、ひな鳥のように身を寄せ合った。
このまま時が止まってしまえばいい。アセビの頬を涙が伝った。
息が途切れて、二人の唇が離れる。
のぼせたように頬を赤くして視線を泳がせるピエリスに、アセビは額をくっ付け合って訊ねた。
「確認、これでよかった?」
コクン、とピエリスは無言で頷く。
恋する少女のような、恥じらいを隠せない表情に、アセビの胸は切なくなる。
「可愛い」
「はいっ?」
「ピエリス可愛いよ。ちょーかわいい。う~! こうしてやる~!」
わしゃわしゃわしゃ~っと、アセビはピエリスの髪を、頬を、腕を背中を抱き締め撫で回した。
「ちょ、アセビ……! 何するんですか……!」
身をくねらせるピエリスを、アセビは逃がすまいと抱き締める。
「あたしも、ピエリスがいちばん大切。これからもずっと、ずっと」
「はい」
「あたしを忘れても、ママのことが一番になっても、もう一回、好きにさせてやる」
ピエリスはしがみついたアセビの耳もとで囁く。
「はい。楽しみにしてます」
キン、とケートスのアイリスリットが緊張する音が聞こえた。
「なに、いまの……」
アセビが顔を上げた瞬間、艦橋を真っ白な光が埋め尽くした。
直後、アセビの身体が浮き上がるほどの衝撃が襲った。
床に転がったアセビは、自分の身体がズルズルと横滑りしていることに背筋が凍る。
「なに!?」
「アセビ、左舷が!」
悲鳴のようなピエリスの声にアセビは跳ね起き、ガラスに飛びつく。
ケートスの巨大な船体、その左舷主翼中央部に巨大な弾痕が穿たれていた。
「破片の一部が、予想より早く降ってきたようです」
レーダーを凝視するピエリスが状況を分析する。アセビは大穴が穿たれたケートスの翼から目が離せない。
大規模な火災が起きている。船体は傾いで、艦橋にけたたましいアラートが鳴り響いている。
ハッとしてアセビは立ち上がった。
「このままじゃコースから外れる!」
操艦席に駆け込み、操縦桿に飛びつく。
まずはこの傾斜を戻さなければ。
慎重に操縦桿を操作するが、そもそも舵が遅い上に舵の利きが悪くなっている。
「アイリスリットの出力を調整しましょう」
操縦桿を握るアセビの身体の前に、ピエリスがするりと滑り込んできた。
アセビの手に自分の両手を重ねると、ピエリスがケートスのアイリスリットに接続するのがわかった。
「微調整はこちらでやります。アセビは操舵を」
「了解!」
「右舷のアイリスリット出力を七十パーセントに制限。ピッチ二度、バンク角七度」
「ピッチ二度、バンク角七度……了解」
「艦首が下がっています。メインエンジン出力上昇。ピッチ角プラス三度」
「りょうかい……!」
全幅二千メートル以上の超巨大航空機を、針に糸を通す繊細さでアセビは操る。
ピエリスの出力調整と、アセビの操舵が少しずつケートスの姿勢と軌道を回復させていく。
だが、すこしでも気を抜けば再びケートスの船体は大きく傾いてしまう。
操艦席にアセビとピエリスは釘付けにされていた。
「このままでは脱出するタイミングを失います、あとはわたしが引き受けます。アセビは脱出の準備を」
「でも」
「はやく!」
ピエリスの悲痛な叫びに、アセビは操縦桿から手を離す。
小さな身体で操艦席に収まったピエリスの後頭部に、そっとキスして、アセビは艦橋から飛び出した。
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