さよならアイリスウィッチ

森上サナオ

一章 

第1話 不時着


 オーロラが荒れ狂う夜の海岸、黒髪の少女が語り出す。


「あの子が空から落ちてきた夜のことを、いまでもはっきりと憶えています。

彼女は魔女で、わたしは兵器。

 彼女は自由な空を愛し、わたしは自由な空を奪うことが使命。

 彼女とわたしは、相容れない存在でした。

 それでも、

 わたしは、彼女のことを、とても大切に想っていました。

 きっと、彼女もそう想っていてくれたはずです。

 これからお話するのは、わたしと彼女が出会い、惹かれ合い、そして離ればなれになるまでの、ひと夏の物語です」



          ◆     ◆     ◆



 ヒュン、と弾丸が耳元を掠め、アセビ・フウセンカズラは息を呑むのと同時に舵を左に切った。


 人機一体となったアセビが、夏の空を切り裂いて白い航跡を刻む。

 直後、アセビがいた空間を曳光弾の光の尾が切り裂いていく。

 強烈な日差しに焼かれた肌がひりつくように痛む。肌から緊張と興奮が汗となって吹き出し、吹き付ける風で瞬く間に蒸発し肌を冷却していく。


 寒い。凍えそうだ。だが絶対にアクセルを緩めるわけにはいかない。


 ギリギリの操縦精度を維持し続けなければ、次の瞬間、アセビの身体は口径二十ミリの徹甲弾でズタズタに引き裂かれてサメのエサになる。

 浮遊バイク——低出力の小型機なので一般には「原付」と呼ばれているが——を駆動させる浮遊鉱石アイリスリットが、カウルの中で頼もしい咆吼ほうこうを上げている。


(そうだ。まだ行ける。あんたならできる!)


 一万時間以上の時を共にしてきた相棒を、アセビは鼓舞し続ける。覗き見たミラーの中、追跡者の姿が映り込む。

 アセビが乗るバイクより二回り以上大きい。まるで魚のエイが空を飛んでいるような、黒くのっぺりとしたフォルムの無人戦闘機オルク

 ボディに繋ぎ目はなく、開口部は機首に穿たれた口径二十ミリの銃口のみ——

 銃口が光った。

 殴りつけるようにハンドルを右へ切る。身体中の骨が、内臓が、加重に悲鳴を上げる。

 雲の中に突っ込んだ。 


 湿った大気が更に体温を奪っていく。濡れた服が、アセビの恵まれた身体のラインにまとわりつく。

 一八才の女子にしては高めの身長。母譲りの、出るとこが出て、引っ込むところが引っ込んだ体つき。ここ半年の空の旅のせいで、肌はすっかりチョコレート色に焼けている。

 濃密な白で閉ざされた前方を、アセビは菖蒲アイリス色の瞳で凝視する。


 嫌な予感がする。何も見えないけど、前の方に何かがある気がする。


 六才で単独飛行を成功させてから、十八才の今日まで毎日空を飛び続けてきたアセビの第六感がサイレンを鳴らす。

 背後にはアセビをハチの巣にしようとするオルクの気配がある。もし、雲のなかに感じる気配がもう一機のオルクだとしたら……

 非武装の機体、それも低出力の原付でオルクに挟撃される……並の魔女アイリスウィッチなら、怯えてアイリスリットの出力が下がってしまう状況だ。

 アイリスリットは魔女の感情に反応する。魔女が怯えれば出力は下がり、逆に勇敢であれば鼓舞するように回転数を上げる。

 アセビはペロリと唇を舐め、口の端を釣り上げる。彼女のバイクのエンジンパワーはむしろ上昇し続けていた。


(やれるもんならやってみなさいっての!)


 己の飛行技術の全力を振り絞れるこの現状が、楽しくて仕方なかった。脳内麻薬でハイになった身体が、大胆さと繊細さをギリギリのところで両立させていた。

 しかし、


(なにこれ……。オルクじゃない)


 前方から感じていた違和感は、気配を越えて圧迫感にまで膨張していた。


(もっと大きい、まさか……!)


 相変わらず視界は雲に覆われ何も見えない。だが、研ぎ澄まされたアセビの感覚は、雲の向こうからかすかに響く「自分のエンジン音」を聞き逃さなかった。


「壁かッ!」


 ハンドルを胸に叩きつける勢いで引き寄せる。

 鳥のクチバシを思わせる原付の尖った機首が持ち上がり、原付が垂直上昇に転じる。加重がアセビの身体をシートへ押しつける。ゴーグルの表面に付着した水滴が逃げるように飛び散っていく。

 雲を抜けた。


 目と鼻の先に岩壁がそそり立っていた。

 アセビは灰色の岩肌にほとんど貼りつくようにして、急上昇を続ける。

 気を抜けば機首を下げようとするハンドルを引きつける。スロットルを全開。キャンプ道具や食料が満載された機体後部で二重反転プロペラが怪鳥の断末魔のような騒音を撒き散らす。

 目を貫く夏の日射しを放つ太陽に向かって、アセビは原付と一体になり一直線に上昇する。そのほんの僅か五十センチ下方には岩壁。ハンドルを引き寄せる腕の力を少しでも抜けば、プロペラが岩肌に直撃し、コントロールを失った機体は岩壁に叩きつけられアセビもろともバラバラに砕け散る。


 突如、アセビの前を影がよぎる。新手のオルクかと肝が冷える。

 だが、その正体ははるか軌道上を漂う、二十年前に破壊された月の破片だ。


 ほっと安心するのも束の間、アセビの周囲を機銃弾の嵐が襲った。

 慌てて舵を切って射線から逃れたものの、弾丸が削り取った岩肌が散弾のようにアセビと原付を襲う。

 ばきっ! と嫌な音が主翼から聞こえてアセビの背筋が凍る。

 次の瞬間、垂直の岩肌が途切れた。


 岩壁を昇りきって、舞い上がった原付を反転。上昇と降下の一瞬の狭間で、アセビは眼下に広がる景色に目を見開いた。

 岩壁の正体は、巨大な浮遊島だった。


 まるで足首で切り落とした人の足のような形をした、奇妙に長細い浮遊島だった。

 足首の辺りは島唯一の山がそびえている。

 そこから南側、足で喩えるなら足の甲に当たる部分がなだらかな斜面。ヒマワリと果樹が天然の市松模様を作り出していた。

 爪先に当たる部分には街が見える。視線を転じてかかと側を見れば、長大な滑走路と建造物群がちらりと見える。

 滑走路の先は切れ堕ちた崖になっていて、そこをアセビ今しがた駆け昇って来たのだった。

 滑走路と建造物群には、まるで巨大な斧が振り下ろされたかのような、長大な亀裂が走っていた。


 亀裂の先、巨人の足のかかと部分は、数百メートル以上、海面から浮いていた。

 島の大部分が空中に浮かんでいる。爪先部分のほんの僅かな部分だけが海面と接していて、そこには砂浜や港が見て取れた。


(初めて見る島……。あの山がきっとアイリスリットの塊なんだ)


 引き延ばされていたアセビの時間が、飛来した機銃弾で強引に現実に戻される。

 上昇から一転、島に向かってアセビは稲妻のように降下する。かつては様々な作物が育てられていたであろう畑は、近くで見ると荒れ果て、雑草とそれを押し退けて咲き誇るヒマワリに覆われていた。

 ヒマワリの花弁を吹き飛ばしながら、アセビは右へ左へ不規則に舵を切る。アセビの後方に迫るオルクが放つ一撃必殺の鉄の雨は、アセビを捕らえられずにヒマワリ畑に巨大な爪痕を刻んでいく。


 ここまで、人の姿を一人も見ていない。ここもか……とアセビは落胆する。

 そのとき突然、アセビの右隣で「ベキッ!」と嫌な音が鳴り響いた。


「はぁ? あぁッ!!」


 異音の方を見れば、機体中央から左右に伸びる主翼の右側が、中程からへしゃげて折れ曲がっていた。

 その途端、原付がガクンと大きく揺れた。透明人間に嫌がらせをされているように、ハンドルがデタラメに暴れ回る。


「ちょっ、やめっ! くそっ!」


 悪態をつきながらアセビは周囲を見渡す。

 前方に大きな建物が見えた。三階建ての建物が三棟。建物の前には運動場らしき敷地がある。

 不時着するならあそこだ。

 のんびり着陸なんて望むべくもない。アセビはこれから決行するランディングを想像する。口元が引きつった。


「はっ、やるしかないでしょ……!」


 地面が近づく。暴れ回すハンドルを何とか片手で押さえ込んで、シート下部のスイッチに手を伸ばす。地上まであと、十メートル。


「今ッ!!」


 スイッチを指で弾く。バシュッ!と圧縮空気が弾ける音が響いて、原付の機体下部から係留用のアンカーが射出される。

 シュルシュルとワイヤーが伸びて、地面にアンカーが突き刺さる。

 機体を横倒しにすると同時に推進ローターの角度を進行方向へと向けスロットル全開、逆噴射をかける。

 原付はアンカーを支点にハンマー投げの鉄球のように円を描き、地表に迫っていく。

 機体底部が地面に触れる。地面と擦れたカウルが、おろし金ですりおろしたチーズのように削れていく。

 悲鳴を噛み殺し、アセビは歯を食いしばってハンドルにしがみついた。

 あと何秒耐えればこの恐怖から抜け出せるのだろう。そう思って前方を見つめた瞬間、あれだけ堪えていた悲鳴がアセビの口から溢れ出た。


「ぎゃぁあッ!?」

 

 アセビの原付が突っ込んでいくその先に、少女が立っていたからだ。

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