第1章 事件
1日目、弓道場
学連の役員が待機する控室で、
拓真の隣では、黒いマッシュヘアの男がパソコンの画面を見つめていた。
「なぁ、成安。練習試合の運営に来てまで、また変なサイトでも見てんの?」
「変なサイトとは失礼だな。私は学連の委員長としてやる事をやっているまでだ。今度の大会運営で必要な書類の作成だよ」
「書類だったか。ま、俺は書類とか嫌いだから、そういうのは任せたわ。ところで成安の弁当食べていい?」
「駄目に決まっているだろう、何を言っているんだ君は。いくら君が金欠でも私の弁当は渡せない」
「お前は一人暮らしじゃないだろ。いろいろ大変なんだぞ? 特に食費な。貧乏大学生を助けてやろうと思わないのか?」
「思わないな。君にお金がないのは知っているけど、私にはどうしようもない」
「まぁな、言ってみただけだ」
拓真は宅配弁当を食べ終えたあと、机の上に置いてあったインカム(無線機)を片手で掴み、腰に巻いてある袴の帯に引っ掛ける。弓道衣の懐にはクリップのついた小型マイクを、右耳にはイヤホンを着けた。
拓真はカラになった弁当箱を持ち、椅子から立ち上がると成安のパソコン画面を覗いた。拓真の視線に気がついた成安は、パタンッとノートパソコンを閉じ、銀フレームの眼鏡を中指で押し上げ、クイクイッと動かす。
「なんだ、やっぱり全然関係ねえ事してんじゃん。それのどこが書類だよ」
「なはは、バレたか」
「2年間も一緒に学連やってんだ、成安の事はだいたい分かるんだよ」
「その言い方、なんだか気持ち悪いからやめてほしい」
「へいへい」
拓真は弁当箱を入口横にあるケースの中に置く。そこには、中身の入っている弁当箱が7個あった。拓真は引き戸になっている控室のドアを開け、廊下に出る。昼休憩中のためか、廊下はしんと静まり返っていた。真っ直ぐに続いている廊下は、茶褐色に染まっている。
拓真が靴の代わりに履いているのは白い足袋、腰から下は足首ほどまである黒い袴に、上は紺色の弓道衣を着ている。拓真は人影のない廊下を見渡す。
「練習試合に参加している選手達は、みんな弓道場の外で飯食べてんだな。まぁそりゃそうか、さすがは強豪校だけの練習試合だ。当然のようにマナーは守るか」
突然、弓道場の
「ちょっと、どこいくのよ!?」
拓真はその場で立ち止まると、右手側にある射場の様子を伺う。障子のような間仕切りで仕切られたその奥は、明るい茶褐色の空間。
射場と廊下の間にある出入り口からは、女性が勢いよく飛び出して来た。拓真の目の前を横切って、弓道場の廊下をパタパタと走り抜けていく。黒いおさげ髪の女性、やがて、その姿は視えなくなった。
「なんだ……弓道場の廊下を走るか普通?」
拓真は再び、廊下を真っ直ぐと進み始めた。そして2つ目の出入り口付近を通過するとき、射場を覗く。そこには弓を引く女性の姿がある、結んでいる髪は艶のある黒いポニーテール。白い弓道衣に、黒い袴姿の女性。
その少女は何事もなかったかのように、背の丈より長い
拓真の右耳で、ノイズが鳴る───。
インカムが鳴る音だ。イヤホンから声が聞こえてくる。
《さっき廊下を走っていた子を目撃しました! 決勝戦の前に、廊下を走らないように言っときますか?》
ノイズが消え、再びザザッ──と、ノイズが鳴った。
拓真は懐に着けていたマイクを口元に近付けたまま、親指でボタンを押し続ける。
「いや、別にいいだろ。あの子は決勝戦に残った選手だ、何かあったんだろ」
拓真はマイクのボタンを放した、ノイズが消え──カシュン、と、
そして──秋めく弓道場に、風が吹いた。
***
天気は快晴。
スポーツ施設の敷地内、その一画にある弓道場では、学生弓道連盟の役員8人らが大会運営をする、強豪校のみによる練習試合が行われていた。学連役員である拓真は、暇そうに
弓道場の射場は、ガレージの片面だけが開いたような広々とした空間。天井は5メートルほどある。
拓真から見て左手側は、木材で組まれた障子のような間仕切り壁。その面の両端には大きく開口した出入り口が2つあり、それぞれ扉2枚分の幅がある。拓真から見て右手側に壁はなく、フローリングの切れ目からその向こうには
その先には盛られた土の山、
弓道場の射場内では、白い弓道衣に黒い袴姿の男女が合計5人、間仕切り壁の前に置かれた弓具置き場で道具の調整をしている。拓真は机に頬杖をつき、その様子を眺めていた。
弓を手に持ち、T字型の定規を持つ男女がそれぞれ1人。
弓に張ってある
壁際で正座をして、右手に
T字型の定規は、弓の握り持つ部分から、張ってある弦までの間隔を測るための道具である。
拓真は、隣でノートパソコンの画面を見つめている成安に言った。
「なぁ成安、13時から個人決勝戦の招集開始でいいんだよな?」
「そうなるな。招集係が廊下で準備しているはずだよ」
2日間かけて行う大学弓道の練習試合1日目。公式戦とは内容が大きく違うスケジュールであるものの、参加校は全部で6校。そして昼からは個人戦の決勝戦を行う予定である。今回は練習試合なので、決勝戦は男女合同で行う。残ったのは各大学から1名づつ、女子3名、男子3名である。
インカムから、ノイズが鳴る―――。
拓真は肘をついたまま、成安は左耳に指を添えた。
《
《
的場の両端には、
射った矢の回収作業は、練習試合に参加した大学の選手達が行うので、看的小屋で待機する。先ほどのインカムは、看的小屋を監視する役員からの連絡である。
そして、芝生を挟み込むように、左右には練習試合に参加した選手達が合計60人ほど待機していた。全員白い弓道衣、黒色の袴姿だ。
ここで、用語と位置関係を整理しておく。
拓真は視線を動かし目を細めた。廊下から射場へと、金髪の男が入ってきた。
「よっしゃ。決勝やな」
招集時間前ギリギリである。他の選手達は準備を済ませているのに、この男は悪びれる様子もない。決勝戦に残った5人の男女は、金髪の男に冷やかな視線を向けた。その視線になんとも思っていないのか、金髪の男は射場の隅に正座し、袋の中から
その態度に腹が立ったのか、ボウズ頭の選手が金髪の男を睨む。
「おい。射場に入ってきたなら、神棚に
「あぁ? そんなもん俺には必要ねぇ。そんな事しなくても俺は的にあてれる」
「そういう問題じゃねぇだろ、おまえには絶対負けねぇ!!」
「かってに言ってろや。ボウズなんかに負けねぇよ」
ピリピリした空間が漂う。拓真は椅子から立ち上がると、6人の選手達に声をかけた。
「それでは招集時間となりましたので、選手の皆様は道具を手に持ち、外にいる招集係の案内にしたがってください。矢は付き人である
選任達は
金髪の男は右手に
「ホント学連ってウゼーよな。毎回グダグダな運営しやがって、射が乱れんだよ」
「俺達の代に限ってグダグダな運営をしてきたつもりはない。それに、早く行かないと招集に遅れますよ」
「ケッ。えらそーなロン毛だな」
「選手はもう廊下に集まってますよ?」
「っち!!」
拓真は黒髪だが、襟足は肩より長いのが特徴である。正面から見れば顔まわりの髪はスッキリと短くなっているが、普通にロン毛である。拓真は好きでロン毛なんだと心でボヤいた。成安は射場の隅に置いてあったパイプ椅子を運びながら、クスクスと笑っていた
「拓真の襟足は、相変わらず
「まぁな、自覚してっから」
「なははは、まぁ君が好きならそれでいいんじゃないか。それより、射場に椅子を並べよう」
「はいよ」
拓真と成安は射場内にある本座と書かれた木の板を目安に、用意していた椅子を等間隔に6脚並べ終えた。拓真は弓が置いてあった壁際のほうへ移動する。
この時、射場に入ってきた放送係の女性役員と一緒に、成安はつい先ほどまで座っていた場所に戻った。拓真は弓立ての前に立ったまま、懐から冊子を取り出した。
ここで、決勝戦の試合形式を確認する。
試合の形式は
選手は矢を一本射ると、いったん射場に用意されたパイプ椅子へと座る、これを1順。このとき、的を射抜いた者は椅子に座るが、射抜けなかった者は椅子に座らず、射場から退場する。つまり、的に
1順し終えたあと、射場に残った者は付き人である介添えから矢を受け取り、役員の指示と同時に2順目を開始する。これを最後の1人になるまで繰り返す競技法である。
拓真は放送席に座る成安に、小声で言った。
「成安は記録を頼んだ」
「了解、藤本は?」
「選手の射を見て楽しんどく」
「相変わらず弓道が好きだな」
的場に設置してある的は6個。午前中は12個の的が設置されていた。そのため、的の間隔は広く、選手が弓を引く姿を観察しやすくなっている。
ここで、射場の中心に立ち、的場を見た視点で射場を左右半分に分割する。
後ろ
拓真は選手が弓を引く場所、立つ位置を確認したあと、後ろ射場側の出入り口から、射場へと入場してくる選手に目を凝らす。女性から1人づつ仕切りをまたぎ、
選手達はフローリングの床を、摺足でゆっくりと進んでいく。やがて弓を引く場所、立ち位置にある椅子へと座っていく。
前射場。
1、
2、
3、
後ろ射場。
1、
2、
3、
金髪の遠藤は入場したとき、神棚に浅い礼はしなかった。ただ、マナーを守るかどうかは個人の判断である、競技ルール上は問題ない。
選手の左手には長さ2メールほどの和弓、矢を持つ右手には茶色い
「これより個人決勝戦の射詰めを開始します」
前射場に隣接されている小さな放送席、ひな段をのぼり、白いシーツが被せてある長机、そこにあるパイプ椅子へ座っている女性がコクリと頷くと、スタンドマイクに向かって喋り始めた。滑舌の良い穏やかな声が弓道場内に響く。
『只今より、男女合同による個人決勝戦、
アナウンスの後、選手は椅子から立ち上がると執弓の姿勢となる。前射場の隅に設置された木の札を目安に一直線に立ち並ぶ。立ち止まると同時に、黒い袴の裾が揺らいだ。射場内に、緊張感のある空気が漂う。
拓真は大きく息を吸い込むと、お腹に力を込め、澄んだ声で号令を言い放った。
「おはいりください!!」
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