第一話「運のない彼と雨が似合う彼女」

 窓から見える空は、相変わらず鉛色の雲に覆われていた。冷房の効いた室内からでも、湿気を含んだ蒸し暑さが容易に想像できる。時刻は午後1時を少し回ったばかりだというのに、外の街はまるで夕方のように薄暗い。だが梅雨のこの時期には、さして珍しいことでもなかった。

 

 ふと向かいのラブホテルに目を向けると、一組のカップルが出て来るのが見えた。男は濃紺のスーツに、手には茶色のビジネスバックをぶら下げている。年齢は50代後半といったところだ。ロマンスグレーの髪の毛と年の割に均整のとれた身体つきは、年上好みの女性にしてみればさぞかし魅力的に映るのであろう。

 

 一方、女の方は涼しげな水色のワンピースに白のパンプス。ショートボブのヘアースタイルが、清楚な印象を与えていた。年齢は男よりかなり若い。恐らく20代前半といったところだろう。

 

 男の服装から察するに、今日は休日出勤だろうか? いいや、仕事の合間をぬってラブホテルで密会するほど、彼は若くは見えない。恐らく会社は休みのはずだ。

 

 既婚者の彼は不倫相手に会う為に ”休日くらいはどこかに連れて行ってっ!” と、ねだる妻子に ”今日は仕事だ” と、でも偽って家を出てきたのだろう。

その証拠にどっしりと構えている若い女に比べ、男の方は終始そわそわして、折角のダンディーなルックスが台無しだ。

 

 空に視線を戻す――天気予報では午後からの降水確率は90%。おまけに大雨洪水注意報も出ている。このクリニックを出る頃には、ドシャ降りになっているはずだ。

 

 勿論、傘は持ってきてはいるが、駅までは徒歩で10分ほどかかる。どうやら足元が濡れるのは免れないようだ。ったく、買ったばかりのニューバランス576が台無しじゃないか……。如月ハルは窓の外をぼんやりと眺めながら、小さく溜め息を漏らした。


「あのさあ、溜め息を漏らしたいのはこっちのほうなんだけど」

 

 相良琴音は頬杖をつきながら、呆れはてた表情を浮べた。すると如月は無言のまま窓の外に向けていた視線を、ゆっくりと彼女に移してゆく。

 

 シャム猫を思わせるシャープな目元に、余計な脂肪を全て削ぎ落としたような痩身な体躯。そんな彼女には、凛とした白衣がとてもよく似合っていた。

 

 いつもはコンタクトレンズの彼女だが、今日は小ぶりなメタルフレームの眼鏡をかけている。目元が若干、腫れているところをみると、今朝はコンタクトレンズが入りづらかったのだろう。

 

 むくみの原因――デスクに置かれた、マグカップに目線だけ移した。中身はいつものブラックコーヒーではなく、杏色の液体が見える。香りから察するに、恐らくジャスミンティーだろう。二日酔いに効果覿面なお茶だ。

 

 昨夜はどれほどのアルコールを消費したのだろう? 寂しがり屋の彼女のことだ、一人の呑みということはないはずだ。お相手は恐らくこのビルの1階にいる悪友だろう。

 

 白衣の裾から覗くスラックスには、センターラインの歪みとしわもいくつもあった。大方、帰宅するのが面倒になった彼女は、悪友宅にご厄介になったのだろう。そしてそのまま着替えもせずに、メイクも落とさぬままご就寝。そんなことをすれば、顔がむくむのも当然だ。そして今朝はギリギリまで寝ていたため、自宅には戻らずにそのままクリニックへと直行――と、まあそんなところだろうな。


「窓の外ばっかり見てさ……私の話、全然聞いてなかったでしょう?」

 

 またいつもの小言が始まったな……幼い頃から耳を塞がなくても、興味のない雑音を遮断するのは得意だった。如月は相変わらず黙秘権を行使しながら、心の中で溜め息を漏らした。

 

 デスクの上の砂時計に一瞬目を向けると、この部屋に入ってからおおよそ10分が経過していた。彼女のノートパソコンが開いてないところを見ると、恐らくいつものように、カウンセリングとは無関係な雑談でもしていたのだろう。


「一応確認するけど私の話は聞いてなかった、ってことでいいのね?」

 

 先程から黙秘権を行使したままの如月に対し、琴音は我が子を叱りつける母親のように、再度問いただした。


「先生がそう思いたいのなら、僕はそれでも構いませんけど」


「あのさあ、いつも思うんだけどこの距離でよく人のことシカト出来るわよね。一体どういう神経してるわけ?」

 

 眉間にしわを寄せながら、琴音は苛立ち気に白衣のポケットから煙草を取り出した。銘柄はジタン・カポラル。もみあげと赤いジャケットがトレードマークの大泥棒が、好んで吸っていたフランス産の煙草だ。彼女は小ぶりのジッポライターで火を点けると、背もたれに体を預けながら、ゆっくりと煙を吐き出した。

 

 どうも、今日は機嫌が悪いな……左手の薬指にいつもの指輪がないところを見ると、年下のワイルド系とお別れでもしたのだろうか? そんな不毛なことに考えを巡らせながら、琴音がくゆらす煙草の煙を如月はぼんやりと眺めた。


「先生……」


「なによ?」


 天井を見上げながら、琴音は煙を豪快に吐きだした。


「患者に副流煙を吸わせて、医者として罪悪感とか湧きませんか?」


「湧かないわよ、別に」


 琴音は開き直るようにいうと、如月の顔に勢いよく煙を吹きかけた。このクリニックに訪れるようになってから、随分と時が経つ。彼女とのこのようなやり取りも、すでに毎度のこととなっていた。


「それで、調子はどうなの?」


 ノートパソコンを開くと、琴音はジャスミンティーで喉を潤した。毎度おなじみの、カウンセリング開始の合図である。


「まあ、ぼちぼちですね」


「発作のほうはどう?」


「最近はありません」


「薬はちゃんと飲んでる?」


「はい」


「よろしい」


 キーボードを打鍵しながら、琴音は満足そうに微笑を浮かべた。どうやら素直な受け答えが、彼女の口角を上げさせたらしい。


「学校の方はどう、もう慣れた?」


「ええ。広い校舎を迷うことがなくなった程度には」


「いや、そういうことじゃなくてさ……友達とかは?」


「いません」


「即答ね。入学してもう3ヶ月でしょう。それで一人もいないわけ?」


「ええ。一人もいません」


「これまたはっきりと……あのさあ、高校に入ったら友人や彼女の一人くらい――」


「その必要はない、って前にもいいましたよね」


 如月はうんざりした表情を浮かべた。因みにこの問答は、彼が中学に上がった際にも何度か行われている。そして今回と同様にその答えは決まって ”必要ない” だった。


「……じゃあ、休み時間とかは一人で何してるわけ?」


 溜め息を漏らしながら、琴音は灰皿に煙草を押し付けた。


「窓際の席なんで、さっきみたいに外を眺めたり、校舎を徘徊したりとか……まあ、色々ですよ」


「校舎を徘徊って……楽しい? そんなこと一人でやってて」


「いいえ、全然」


 カウンセリング室に沈黙が訪れた。


「どうして、人と関わろうとしないのよ?」


「どうして、人と関わらなければいけないんですか?」


「いいこと? ハル君。社会生活を営むうえで、人と関わるのは絶対条件なの。人間は一人じゃ生きていけないんだから」


 琴音は出来の悪い我が子を、諭すかのように答えた。彼女がこういう表情をした時は、大抵機嫌が悪い。やっぱり彼氏とは破局したとみるのが妥当だろう。確かに気が立つのも分らないでもない。とはいえ、とばっちりはご免だ。如月はそう思いつつ、本日何度目かの溜め息を漏らした。


「僕だって最低限は人と関わってますよ。こうやって先生とくだらない無駄話をするくらいにはね」


「……ほんと、ああいえばこういうんだから」


「よくいわれます」


「昔はあんなに可愛かったのに……」


 幼い頃の如月を懐かしむように、琴音は遠い目で窓の外に視線を移してゆく。そしてすぐに、溜め息まじりでデスクの上の煙草に手を伸ばした。


「でも先生、一人でいるのはそんなに悪いことなんですか? 煩わしい人間関係もないですし、生きるうえでとても楽です。少なくても僕にとっては」


「分った、もういい。じゃあ、一生友達もいないまま一人寂しく生きていくのね?」


「ええ。それでも人は生きていけますから」


「そりゃ、そうだけど……まあ、人それぞれだから別に良いんだけどね」


 本人が必要ないといってるものを無理強いは出来ない、とでも思ったのか彼女にしては珍しくあっさりと引き下がったな。毎回このくらい、すんなりと引き下がってくれると、こっちとしても助かるんだけど。


「それじゃ、事件のことはどう。やっぱり未だに思い出す?」


「まあ、時々は……でも随分と昔の話ですからね、記憶は曖昧です」


「そうね……あれからもう12年だもんね」


 琴音はキーボードの手を一端休めると、感慨深い表情を浮かべた。すると暫しの沈黙が二人の間に訪れる。程なくして彼女は気を取り直すかのように、カウンセリングを再開した。


「例の夢はどう。相変わらずまだ見る?」


「いいえ。もう随分と見てません」


「そう、良い傾向ね」


 細く華奢な指先で、琴音はキーボードをリズミカルに打鍵してゆく。そして打ち込みを終えると、ゆっくりと如月に視線を移した。


「じゃあ、今は犯人のことをどう思ってる?」


 事件が起こったあの暑い夏の日が近づくと、彼女は必ずこの質問を投げかけてくる。そう、このカウンセリングルームに訪れたあの日からずっと。


「特に何も」


「憎んでないの?」


「先生、怒りを持続させるのって意外と難しいんですよ」


 口に出す言葉がいつも本心とは限らない。如月は心の中でそう呟きながら、薄っすらと冷たい微笑を浮かべた。


「じゃあ、もし犯人がキミの目の前に現れたら?」


「さあ? 考えたことないですから」


「なら想像してみて。出来るだけリアルに」


 真剣な眼差しが如月に注がれた。すると彼は無言のまま瞼を閉じてゆく。そして数十秒後、ゆっくりと瞼を開けると静かに口を開いた。


「恐らく、僕は何もしません」


「……そっか」


 如月の冷めた言葉を聞くと、琴音は安心したようで、それでいてどこか寂し気な表情を浮かべた。


「よし、それじゃ今日のとこは、このくらいにしとこうか」


 琴音はそういって、ノートPCを閉じると如月に握手を求めた。毎度お決まりの、カウンセリング終了の合図だ。彼はそれに応えながら軽く頭を下げた。これもまた昔から、何一つ変わることのない光景である。だがそんな他愛もない日常も、いつかは必ず終わりが来る。それは……もうすぐだ。




「あっ、そういえば先生、一ついい忘れたことが……」

 

 カウンセリングルームのドアノブに手をかけると、如月は思い出したように振り返った。すると琴音は眼鏡のレンズを白衣の裾で拭きながら、小首をかしげてみせた。


「お酒はやっぱり嗜む程度が良いですよ。呑み過ぎは体にも毒ですし、下のお友達にも迷惑をかけることになりますからね」


「……ちょっと、どうしてそれ知ってんのよ」


 琴音は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐさま眉間にしわを寄せながら、鋭い眼差しを如月に向けた。


「じつは僕ね、先生のストーカーなんですよ……それじゃ失礼します」


 呆けた表情の琴音をよそに、如月は珍しくにこやかな微笑みを浮べた。人と関わるのは嫌いだけど、僕にもこれくらいの茶目っ気はあるんだ。彼はそう心の中で呟きながら、Sクリニックをあとにした。




 数多くの風俗店やラブホテル等がひしめき合う、大和やまと区陽だまり町の裏通り。そんないかにも治安の悪い一角に、築30年の古びた5階建てのビルがある。その最上階に琴音が開業する『Sクリニック』はあった。

 

 如月は場所もさることながら、名前のセンスも常日頃からいかがなものかと思っていた。普通に『相良クリニック』ではダメだったのだろうか? よりにもよって、どうして相良のSをアルファベット表記にしたのか? 

 

 周りの風俗店の影響から、どうしてもSMクラブを連想させてしまう。そういうことは考えなかったのだろうか? どう考えても疑問は一つじゃ済まない。

 

 以前どうしてこの場所でクリニックを開業したのか? と彼女に尋ねたことがあった。返ってきた答えは予想通り家賃が安かったから、という単純なものだった。多少家賃が高くても駅前などに場所を変えれば、客も増えるという考えには断じて至らないらしい。

 

 如月はSクリニックをあとにすると、同ビル1階の調剤薬局に向かうためエレベータに乗り込んだ。琴音はいつものと同じように、安定剤と抗鬱剤を処方した。如月は調剤薬局に入ると、慣れた様子で顔なじみの薬剤師に処方箋を手渡した。


「琴音、機嫌悪かったでしょう?」

 

 谷川美鈴は、処方箋に目を落としながら尋ねた。あか抜けない丸眼鏡に、童顔のおかっぱ頭。クールな印象を与える琴音とは、じつに対照的な見た目であった。そんな彼女は、先程も少しふれたが琴音の大学時代からの悪友である。


「ええ、若干」


「男と別れたからね。昨日はヤケ酒に付き合わされて、大変だったのよ」


「ああ、どうりで」


 なるほど。目が腫れていたのは、単に酒の飲み過ぎだけが原因じゃなかったわけだ。


「因みにお相手は、年下のワイルド系ですか?」


「うん、そうだけど……っていうか、あいつキミに男の話なんかしたりすんの?」


「いいえ。ただ半年くらい前から、相良先生の趣味とは思えないごついシルバーリングが左手の薬指にはまっていたんで、もしかしたらと思っただけです」


「ほんと、相変わらず目ざといわね」

 

 美鈴は感心しながら、紅茶の入ったティーカップを如月に手渡した。


「ありがとうございます」


 薬の調合が済むまで、彼はいつものように薬局のソファーに腰を下ろして、美鈴が入れたダージリンの香りを楽しむ。ふと窓の外に目を向けると、雨はまだ降っていないようだった。運が良ければ自宅までもつかもしれない。まあ、今まで運が良かったことなど1度としてないのだけど……。如月は窓の外を見つめながら、自嘲した笑みを浮かべた。



「それで高校生活のほうはどうなの。彼女の一人でも出来た?」

 

 数分後、調剤を終えた美鈴が薬袋を手にして現れた。


「相良先生と同じことを聞きますね。でも残念ながら、今年も彼女どころか友人すらいません。僕には必要のないものです。これからも、ずっと永遠に」


 ティーカップを彼女に返すと、如月は心からの本心を述べた。


「勿体ないわねえ。せっかく可愛い顔してんのに……あっ! それじゃあ、琴音のこと何とかしてくんない? 私さあ、あいつが失恋するたびにヤケ酒つき合わされんの、流石にもう嫌なのよね」


「まあ、僕で良ければ喜んで相良先生の性奴隷くらいにはなりますけど」


「あら、本当? 喜ぶわよあいつ。だっていつもキミのこと、目の中に入れても、私の大事なところに入れても痛くない! ってよくいってるもの」


「私の大事なところって……」


「あれ、引いた?」


「まあ、若干ですけど」


「だろうね。でも要は、それくらいキミが可愛くて仕方がないってことよ」


「……分ってますよ」


 薄く笑みを浮かべると、如月は静かに頷いた。


「そう? だったらあんまり琴音に心配かけなさんなよ、少年」


「はい」


 如月は再度、頷くと紅茶の礼をいって薬局をあとにした。




 外に出ると相変わらずの蒸し暑さが、体にまとわりついてくる。クーラーの効いた場所に暫くいたせいか、寒暖の差に彼は一瞬立ち眩みを覚えた。空を見上げると、相変わらず鉛色の雲が見える。だが幸い雨はまだ降っていなかった。


「よし、最短ルートで行くか」


 如月は小さく呟くと、風俗通りを抜け大和駅へと歩みを進めてゆく。普段なら治安の悪いこの通りは避け、迂回して駅へと向かうのだが、豪雨が迫っている現在はこのルートを選択するしかなかった。

 

 風俗街は土曜日にしては人通りもまばらで、客引きたちは暇そうにしている。彼らに声をかけられるのも面倒だ、と思いつつ如月は少しばかり歩調を速めた。

 

 暫く歩いたところで一際目立つ豪華なラブホテルから、3人の男女が出てくるのが見えた。男の方は不自然なくらい日焼けした顔に、ド派手なシャツの胸元から除くゴールドのネックレスが、この風俗通りに違和感なく溶け込んでいた。

 

 年の頃は若作りしているようだが、40代後半といったところだろう。どう見ても会社勤めのサラリーマンには見えない。飲み屋や風俗店を数件経営している小金持ち、そんな感じがしっくりとくる。恐らく手にぶらさげている、ブランド物のセカンドバックには、分厚い財布が入ってることだろう。

 

 一方、女たちのほうはかなり若い。大人びた服装こそしてはいるが恐らく中学生? いいや、高校生といったところだろう――援助交際。今時はさして珍しくもない光景だ。だが2人の女のうち、一方には見覚えがあった。伏し目がちに俯く整った顔立ち。彼女はクラスメイトの三島小夜だった。

 

 恵まれた容姿と、誰とでもすぐ打ち解ける人当たりの良い性格は、生徒たちは勿論のこと教師連中からの信頼も厚い。要するに才色兼備を地でいく優等生、ということだ。

 

 如月は目を合せずに、小夜の隣を通り過ぎてゆく。そして暫く歩いたところで、ゆっくりと振り返った。すると彼女はこちらを見つめながら、ぼんやりと佇んでいた。丁度その時だった、鉛色の雲から静かに雨が降り注いできた。

 

 雨に打たれながら、こちらを無表情で見つめてくる三島小夜――その光景は一枚の絵画のようで、とても蠱惑こわく的だった。やっぱり僕は運がないらしい……。如月は心の中でそう呟くと、持っていた傘を開き小走りで大和駅へと向かった。

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