春のひとあれ

高橋利行

前編

       一


 まったく。なんでいつもあたしが、とおみなはこめかみをきりきりさせながら古ぼけた茶箪笥に雑巾掛けをしていた。

 朝の早い長屋の住人たちはあらかた出払っていた。おみなの亭主もまた、おみなが目覚めるより早くに出かけていた。昨夜は根を詰めて針仕事をしたため、今朝は随分と陽が高くなってから起き出したのだが、掃除をするために風を通そうと開け放しておいた戸の向こうでは、路地のどぶ板の上で、丸顔の男の子が石ころを重ねて遊んでいるのが見えた。

「しんちゃん、そこの板落っこちやすいから気をつけるのよ」

 熟れた柿のような頬をした新太があおばなをすすりながら頷く。聞き取れないほどの小さな声で生返事をし、石の塔を積みあげる。

 先月末に長屋の月番を終えたと思ったら、奥二軒隣りの浪人、今月役番のはずの堺甚八から、「急遽仕事の口が入ったゆえ、月のほとんどを品川へ行かねばならず、そのあいだ月番の数日を、なんとか代わりに当ててはくれまいか」と、畳にめり込むほど頭を下げられてしまった。

 このご時世でもあるし、あぶれた浪人にとってひと月近くも続く人足仕事なぞなかなか得られるものでないことは、おみなもわかっていた。仕方なく渋々引き受けた。

 とはいえ、先月は先月で、同じく月番にあたっていたはずの向かいに住む若衆が月はじめから雲隠れしており、結局はおみなひとりで受け持つことになった。それを気の毒に思い、隣りの伊作夫婦が手を貸してくれたのでなんとか滞りなく役を終えたのだ。

 すると、見透かしたように一昨日の夕暮れどき、つまり先月の晦日みそかに若衆はひょっこり戻ってきた。聞けば板橋宿のさる塩問屋に泊まり込みで荷駄さばきに出ていたというが、どうだか。松三は一見してひょろっとした遊び人の風体で、荷駄さばきなんぞという力仕事とはとても縁がなさそうであった。

 それでも役番を負わせたおみなに悪いと思ってか、土産と称して炒り豆を差し入れてくれた。

 だが、真実どこで何をしていたのやらと、伊作の女房ともどもその顛末を胡散臭く語りあったのが昨日である。

 さらには甚八とともに月番を受けるはずだった寅吉がまた、先月から寝込んでおり、こちらも代役を探していた。そして昨日の今日で、また月番の話である。


 おみなの住む長屋は神田相生町の奥まった一角にある。この辺りでは珍しくもない裏店であるが、神田川を南に渡った向こうに広がる賑やかな町通りにも近いため、おみなはそこそこ気に入っている。

 また、この裏店が「しじみ長屋」と奇妙な名で呼ばれていることもなんとなく親しみを持つきっかけであった。本来、この長屋は家主の名をとって嘉右衛門長屋とでも呼ばれて然りなのだが。それがどんな因果で「しじみ」なぞ冠するようになったのか。

 ――曰く、家主の嘉右衛門が縮緬ちりめん(ちぢみ)の商いで身代を築いたから。

 ――曰く、ひと昔前、しじみの棒手振りが三人も住み着いていたから。

 ――曰く、嘉右衛門の国許、若狭に伝わるしじみ語りがもとである。

 いずれも真の源泉とは思えぬ言説が、指折りとおは挙げられる……。

 などと雑巾を片手に、昨夜散らかした端切れを畳みながら、埒もないことに思いを巡らしていた。


 ここまで考えたところで、疲れたのでやめた。

 ――結局あたしにお鉢が回ってくるのよね。

 おみなは手を休め、ため息をついた。

 春の陽気が戸前の地面に差し込むのが見える。そろそろ四ツ半を過ぎひるも近く、そのひだまりの中で新太が黙々と石を重ねているのが眩しい。積みあがる塔をより高く、と慎重に石を載せるのだが最後のひとつで崩れてしまう。それを繰り返しているのだが、新太は飽きずに何度もはじめから積みあげている。

 おみなは雑巾を放り投げると、壁際に積み上げた行李に身を持たせかけながら、しばらくその姿をのんびりと眺めていた。木戸の向こうを流して歩く雪駄直しの売り声が、どこか遠くの方から聞こえる子守唄のように、耳に心地よかった。

 気候のせいもあり眠気がさしてきた。そのとろりとした視界に、ふと鮮やかな紫紅色が飛び込んだ。それは、まるで新太の手もとで花開いた椿のようだった。

 半分寝ぼけたおみなの意識には、初めは何かわからなかったが、どうやら一度丸めて広げた紙切れだと理解した。新太が石ころか何かを包んでいたもののようだ。

「それはなぁに? しんちゃん」間延びした自分の声を耳にすると、わけもわからず笑いが込みあげた。

 よっこいしょと身を起こし、ひんやりした草履をつっかけて新太のいるひだまりに出た。

「綺麗な色紙ね」新太の横にしゃがみ込むと、紙切れを指さす。

 地面に座り込んだまま手を休めない小さな棟梁は、石の塔から目を離さずふたたび頷いた。最後のひとつをそっと載せるところだった。……今度は崩れなかった。

」新太は満足の声をあげると、洟をぬぐいながら笑顔を見せた。

 紙片をおみなの目の前に広げてみせた。

 おみなは頓狂な言葉に面食らったが、それよりも広げられた紙きれが何ものであるかをはっきり知るにおよび、常ならしょぼついた椎の実ほどの目玉を慈姑くわいのように見開いた。

 それは鮮やかに彩色された一枚の版画絵であったのだが、描かれているのがあられも無い男女の痴態図であったからだ。おみなは思わず動揺してしまい、裏返った声を発していた。

「しんちゃん、これどうしたの?」


       二


「それでどうしたの?」

 麻里は大きな握り飯を頬張りながらのんびりと尋ねた。

 今日は湯島天満宮の植木市である。おみなと麻里は、ひるから待ち合わせて境内のすみにある藤棚下の水茶屋で、参詣客でいっぱいの腰掛けに窮屈に並んでいた。藤の花房はまだ蕾だというのに臨時に出された店は大いに繁盛していた。参道の人手は切れ目なく、また市の開かれている境内の広場は松や木蓮もくれんまきといった種々雑多な庭植え用の樹木のほか、鉢植えやら花卉なども並んでおり、品定めする客が引きも切らない。

「あたしの声にびっくりしちゃってね、泣きそうな顔で、貰ったって言ったのよ」

「こわがらせたのねぇ」

 違うわよ、とおみなは口を尖らせる。

「それで、どこから貰ってきたの?」

「それがね……」おみなは声をひそめた。

 おみなが落ち着きを取り戻して問いただしてみると、新太はべそをかきながら次第を打ち明けた。くだんの色つき絵――見れば錦絵のような上等なものではなく、墨摺絵すみずりえを彩色したものだった――をもたらしたのは、齢のころは新太に近いお栄という娘だという。よくよく聞けば娘はしじみ長屋のさらに北、下谷長者町の辺りに住んでいるらしく、時折長屋のある小路を、神田の大伝馬町方面へとお使いに通り抜けているらしかった。

 しじみ長屋にいる子どもといえば新太ひとりきりということもあり、幾度かの行き帰りのうちに、いつしか新太の遊び相手になったようである。

 新太と近い齢といえばまだ五つ六つといったところで、そんな小さな娘をひとりで出歩かせることがまず驚きだが、この娘もよほどしっかりものなのであろうかと、おみなは思った。

「そんな娘さんが?」麻里は茶碗に口をつけながら眉をあげた。

「あたしも会ったことはないのだけれど。伊作さん夫婦、しんちゃんの両親ふたりは何度か見かけてるらしいのよ」

 伊作は居職いしょく指物師さしものしで、夫婦ともに一日家にいることが多い。それゆえ、長屋を訪れるものをよく目にしている。

 お栄というのは小娘にしては色浅黒く、頑丈そうな身体つきに着こなしも大雑把なもので、初めて見たときは男の童かと見間違った。ひとり遊びばかりの新太が笑い声をあげているので覗いてみると、そのたくましげな小娘と独楽やら面子めんこ遊びをしたり、ときには相撲の真似事ではしゃいでいることもあった。女房のおはなからすると、いい遊び相手ができて喜んでいたのだ。いつも午過ぎに訪れ、小半刻ほど遊んだあと、伊作夫婦に挨拶をして去っていく。ただその挨拶の口上が少々変わっていて、調子はずれな端唄のようだったと。

「なぁにそれ、妙な子ね」麻里は吹きだした。忙しく通り過ぎる給仕女に茶のお代わりを催促した。となりで熱心に話しこむ壮年の大工ふたりを気にしたように視線を伏せると、声を落としながらおみなに身をよせた。 「だけどどうしてそんな……墨摺絵なんぞを持っていたのかしら」

 おみなはその様子を見ながら、くすりと鼻をならす。

「なんだか面白そうな子よね」なぜか浮き浮きした調子で伸びをした。

「しんちゃんのところへ寄るときにはいつもお土産を持ってくるんだって。四日前くらいと言っていたかな、そのときは面子を持ってきたらしいんだけど、それを包んでいたものみたいよ」

 麻里のとなりの職人たちが席を立つのを見計らうように、おみなは袂から折り畳んだ紙片を出した。

「え。持ってきたの?」

 麻里は頭のてっぺんから抜けるような声をあげた。

「見たいだろうと思って」

「なに言ってるのよ。見たくないわよ」身を折りながら笑い出す。

「ほら」自分は目をそむけながら、そっと皺だらけの四つ折りを麻里に開いてみせた。

 やめてよ、なによ見たいんでしょ、などとふたりして年甲斐もなくはしゃいでいると、

「あら、楽しそうね」とふいに声がかけられた。

 おみなは飛び上がらんばかりに慌てふためいて、紙片を隠した。

 声のぬしはと振り返ると、それはお供の若い男女を控えた、木槿むくげ地の麻柄という小ざっぱりとした旅装の女性であった。藤棚の手前で、万年青おもとの入った素焼き鉢を下げている。

「安東さん」

 おみなと麻里はバツが悪そうに、赤くなりながら待ち合わせのご当人に挨拶した。


 湯島中坂なかざかの中ほど、松か根屋の二階座敷である。八畳ほどの部屋の間仕切りの襖は開け放たれて広々しており、早めに灯された行灯が、ほの暗くなりつつある室内を暖かく照らしている。もうそろそろ暮六ツの鐘が鳴る刻限だが、たそがれの迫った窓下の坂道からはなかなか途切れない参拝客の気配が届く。

 おみなと麻里の前に現れた安東勢津は、武州多摩郡でも山あいに入りこむあたり、秋川あきがわ筋にほど近い伊奈村在の千人同心組頭の奥方である。生家が村の分限者ぶげんしゃであり、故あって伊奈村へ住居替えしてきた安東家に嫁した。そして安永に改元した年、長男が無事家督を継ぐと自適な隠居生活に入ったのだ。

 もともと花鳥風月を好む趣味人のたちであり、俳句や狂歌の連座に膝を交えるほどで、それが高じて数年前からは三月に一度の割りで江戸へも足を運び、句会に参ずるようになったのだった。此度も恰度ちょうどその句会の月に当たっており、かねて湯島の植木市で知り合ったおみなたちと久方ぶりの再会を期したのである。

 荷物を供のひとりの娘に持たせて滞在予定の旅籠へ先に向かわせると、直次と呼ばれる若衆を従え三人で天満宮を詣で、境内ところ狭しと展開する出店を存分に見てまわったのだった。

 皆の足が根をあげた時分には陽も大きく傾いていた。

 少し休みたいと言った麻里の言葉に、ころはよし、とみた勢津が以前から気になっていたという店で食事をしようとなった。

 松か根屋は、湯島では名の通った料理茶屋である。ご馳走すると言われたおみなと麻里は大いに恐縮したのだが、先に盛り上がっていた会話に興味津々の勢津は、食事代は持つから話を聞かせてくれたらいいとしきりに勧めたのだ。

「そうだったの。おふたりとも相変わらずお元気なのね」

 できればうやむやにしたかったおみなだが、結局は例の調子で面白おかしく話し終えたところである。麻里の間延びした合いの手も入り、勢津はいかにも楽しげに笑った。

 おみなは、違うんですと盛んに手を振りながら否定もしきれず、恥ずかしさで逆上のぼせそうになる。麻里はといえば、茶碗蒸しの碗に箸をつけながらただ笑ってるのみであった。

「けれどその奇体な娘さん、下谷の方から通ってらっしゃるらしいけれど、そんな小さな子をひとりでお使いに出すなんて、相当変わった親御さんね。大丈夫なのかしら」

「しんちゃんのご両親もはっきりとは聞いてないらしいんです。長者町ということだから、うちの長屋まではそんなに遠くはないらしいんですけど、あたしもこのことを知ったのがついこの間なので……」

 不思議な娘の件が尻すぼみになった後は、いつしかおみなが近頃熱心に集めている手拭いの話になり、座敷が火あかりに包まれるころようやく店を出ることになった。

 勢津は、それまでみなの片隅でかしこまっていた若衆に、お土産に干菓子を包ませてもらえるか聞いてちょうだいな、と促した。最後に出された紅白の砂糖菓子が余程気に入ったらしい。

 下足番に履きものを出してもらう段になり、麻里がおや? という表情で入り口の壁に並べて貼られた錦絵に目を止めた。店に入ったときには気づかなかった。

 後につかえたおみなが急かすと、麻里は草履をつっかけながらその絵に近づき、頭頂から抜けるような声を出した。「これ、鬼次おにじじゃない」

 それは大首絵おおくびえで、全部で十枚ほどあった。描かれた人物は芝居の役者のようなのだが、みな、どこかしら奇妙な風体であった。麻里が見ているそれは、顔の大きさに対し見栄をきる手が異様に小さいものであり、一見滑稽とすら見えた。しかし角ばった頬と吊り上がった目が強調され、衣装に記された定紋から、麻里にはそれが『やっこ江戸兵衛えどべえ』を演じる大谷鬼次であると見て取れたのだ。

「見たことのない役者絵ね。誰の絵かしら……東洲斎、写楽? 聞いたことのない名だわ」勢津も並んで絵に見入った。さらに顔を近づけると、これ贅沢よ、雲母きらをまわりに摺り込んでる、と唸った。

「こっちは鰕蔵えびぞうみたい。そうそうこの鉤鼻、これ観に行ったからよく覚えてる」麻里は並んだ十枚を順に覗き込んでははしゃいでいる。

「安東さんも知らない絵師なんですか」おみなはあまり興味なさげに口をすぼめている。

「わたしも絵は好きですけど、それほど詳しいというわけじゃありませんよ」と笑い、挨拶に出てきた手代にこれらの錦絵について尋ねた。しかし初老の男は知らないらしく、困った様子で頭を掻いている。

 すると、板間の奥からびんに白いものが目立つ恰幅のいい店主が現れた。帳簿を確認していたのか、分厚い大福帳を手に下げている。「写楽の絵についてお尋ねとか」

 愛想のよい声音でみなを見渡すと、お目に留まりましたか、と肩を揺すりながらいかにも嬉しそうに話しだした。

「この度は当店に足をお運びいただき有り難う存じます。わたくし、松か根屋主人の庄兵衛と申します。実はこの絵、二、三日前に耕書堂さんで売り出されたばかりなのですよ。わたくし絵草紙に目がないものでしてね」

 特に役者絵が、と芝居がかった仕草でほの赤い行灯に照らしだされるそれら錦絵を示した。

「随分と、その……おもしろみのある絵柄ですが、写楽さんとは、どういったお方でございますの?」少々気押された風であったが、勢津は尋ねた手前話しを続けた。

「いや、それがわたしも初めて耳にした名でして」

 耕書堂さん、例のご沙汰で身代を取り上げられたあとは美人画で世間の話題をかっさらいましたが、今度は役者絵へご執心のようですな。しかし最初目にしたときはびっくりしました。なんといっても……こんな不細工、といっちゃ悪いが見栄えの悪い絵柄を錦絵で、しかも背景に雲母を摺り込むなんてのは聞いたこともないですからねと、主人は腕を組んで熱っぽく自説を連ねている。

「わたくし、丁度河原崎座でこの芝居を観たばかりでしてね。なんとも生なましい絵面じゃなかろうかと。しかしですな、店先でこうつらつら眺めていますとこれが案外いい味に思えてきまして」

 結局、『恋女房染分手綱そめわけたづな』と『義経千本桜』の十枚を揃いで買い入れたのだという。

「耕書堂ですって」おみなが麻里の後ろで小さく囁いた。

 麻里が頷きながら耳打ちで返す。「蔦重つたじゅうのところよね。……おようさんちの近く」

 それを耳ざとく聞きとめた主人が、今度は麻里に向かって気を吐いた。

「そう、その蔦重です。このところ、しげく店先を覗いても歌麿ばかりでぱっとした新作があるわけでなし、気を揉んでいたところなんですよ」

 今か今かと待ちかねていたところで、写楽の大首絵が一気に並んだのだという。

「それが今話題の錦絵なのかしら」おみなが麻里の背後から問いかける。

「ところがですね。店のもに言わせると客の多くは手にはとるものの、買って行くひとはほとんどいないとのことでしたな」まあ、贔屓の役者をこんな風に描かれてはね、と主人は仰向きながら鼻息を吐き出した。

「そうですね……」矢面に立たされた麻里はいまいましく苦笑いしながら肘でおみなをこづいた。

 いつの間にか玄関先に出て旅装の裾を直していた勢津が言った。

「蔦屋さんにとっては、ひとつの博奕みたいなものかもしれませんわね。これが当たれば役者絵でも大きな話題になりそうですし。

 松か根屋さん、本日はご馳走様でした。しかも売り出されたばかりの錦絵まで拝見させていただいて。本当幸運でしたわ。それでは麻里さん、おみなさん。お暇いたしましょう。直次、忘れ物はないわね」直次は上品な掛け紙の包みを三つ、ついと持ち上げてみせた。

 勢津はにっこり頷くと、当たり障りのない挨拶で話をそれとなく打ち切った。

 主人の方はまだ話し足りなそうであったが、釜場の方から暖簾越しに呼びかけてきたのをしおに、それではまたのおいでをお待ちしております、と未練がましく引っ込んだ。


       三


 三人は提灯で足元を照らす直次の後について、夕闇に沈む中坂をゆるゆると降っていった。両側に並ぶ店の灯りがまばゆい。どこからか、春の夜風に乗って微かに三味線を爪弾くのが聞こえてくる。

「松か根屋さん、相当な入れ込みようでしたね」おみなが思い出しながら小さく笑った。

 つられた勢津も、よっぽどお好きなんでしょうねえと少々呆れ気味に肩を震わしている。

「麻里もあのお芝居観に行ったのよね」

「河原崎座は観に行ったわよ」

「あの錦絵って、どうなの?」

「見たときにどの役者かがすぐわかったのよ。だけど……なんというか」麻里は眉根を寄せて煮え切らない風に答えた。

 勢津があとを継いだ。

「今までの絵草紙の挿絵やら墨摺絵では見たことのない絵柄でしたね。が強いというか……」

に目が釘付けだったわ。あたし」

 おみなが顎を撫でる仕草をすると、竹村定之進を演ずる市川鰕蔵の図を指したのがわかったのだろう、麻里が吹き出した。「あれね」

 同じ絵面を思い浮かべたのか、勢津も口を押さえている。

「それにしても、おもしろい浮世絵師が出てきましたね。そうそう、役者絵といえば年明けに豊国が売り出されたと聞きましたけど、そちらの評判はどうだったのかしら?」

麻里がのめり気味に「ああ、わたしが通いで入っているめし屋に一枚貼ってあります。女将さんがやっぱり好きみたいで。それが、役者の立ち姿に風情があっていいんです」

 おみなが麻里を冷やかし、掛け合いが始まるかと思うころには坂下の丁字路が見えていた。人通りの少なくなった両側の道筋には、延々と武家屋敷の壁が延びていた。神田相生町の長屋へ戻るおみなと旅籠へ向かう勢津は右へ、下谷広小路を抜け寺町を横目に浅草寺前を横ぎって吾妻橋を渡る麻里は、直次に送ってもらうことになっている。

 そこに、人が倒れていた。

 直次が提灯をかざすと、何やら大道芸人でもあるのか、派手な小袖に脚絆きゃはん履き、総髪髷の男で、壁に頭をもたれてぐったりとしたまま念仏のように何かを呟いている。

「奥様……」戸惑いながら立ち止まり、勢津を振りむく。

 勢津は頷き、介抱するよう促した。

「怪我しているのかしら」おみなが用心しながら直次の後ろから屈みこむと、押し寄せる酒臭さでむせた。

「どうやら酔漢のようです」直次が苦笑いしながら三人を見渡した。

 どうりで、道ゆくひとがありながらも放って置かれているはずである。

「どれ、この姿勢じゃ息が苦しかろうに」提灯を置き、楽な姿勢になるよう壁に寄りかからせてやった。

「まるで正体がないわね」麻里が袖に手を入れて肩をすくめた。と、男の手から何やら転がるのが目に入った。紙を丸めたもののようであり、鮮やかな色味が認められた。

 何かしら? 麻里は何の気なしに拾い上げ、開いてみた。

 途端に悲鳴とも遠吠えともつかないひと声をあげ、真っ赤になりながら笑い出した。

 おみなと勢津がなにごとかと覗き込み、同様に笑い出した。

 いぶかしむ直次に対して、勢津は気にしなくていいのよとしきりに手を振り、紙を丸めて元どおり男の手に握らせた。そして涙を拭ってひと息ついたあと、恐縮するふたりに例の菓子の包みをひとつずつ渡しながら、それじゃ麻里さんをしっかりお送りするんですよと言いふくめそれぞれの方向へと別れた。


 ふたりは、勢津の宿がある神田旅籠町方面に向かって武家屋敷の塀沿いを延々歩いた。神田明神下の急な坂を横目に金沢町の町筋に入るとぽつぽつ人通りもあり、ここまで来れば勢津の宿泊先はごく間近だ。おみなの住むしじみ長屋までは東へ数町先である。

 おみなは、先ほど目にした紙片についてどう切り出したものかと思案し続けていたのだが、旅籠の看板下まで来たところで、躊躇ためらいつつもついに話さずにいられなかった。 

「安藤さん。あの男のひとが握りしめていた紙切れ、もうびっくりですよ……今日いろいろ話題にしていた錦絵やら絵草紙やらが、最後の最後であんなかたちで現れるなんて」

 男が握りしめていた紙切れ、そこには麻里をからかうために持参してきた例の恥ずかしい絵と似たり寄ったりの痴態図が色鮮やかに展開していたのだ。

「お江戸ではいろんなことがあるものですね。伊奈のような田舎ではなかなかない経験ですよ」

 と勢津がおどけた風に返すと、ふたりで苦笑した。

(続く)

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春のひとあれ 高橋利行 @Tettgonias

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