第52話 魔王イグニス、浮世に降臨

 不気味なまでの静寂が、闘技場内を支配していた。この場の主導権を握った魔王イグニスは、圧倒的なまでの存在感と周囲を押しつぶさんとするプレッシャーを放ちながら会場全体の一挙手一投足に神経を張り巡らせる。


「う、嘘だ!」


 観客の誰かが声を上げた。まるで信じられんとでも言いたげな彼は、この悪夢のような現実を否定するべく蛮勇を掲げて吠えた。


「魔王は、とっくに滅びた! 予言にある魔王復活にも、時期には早過ぎる! お前が魔王なわけがない!」


「そうだ! その通りだ!」


「嘘まで吐いて、神聖な闘技場を汚さないで!」


 一人の叫びはやがて二人の叫びとなり、四人の叫びとなり、やがて会場全体へと非難の声が伝播した。彼らからすれば、これは悪い夢だからだ。


 単なる酔狂、変人のお遊び、イカレタ男の狂言、笑い話にもならない戯言、それが彼らの下した評価だった。


 しかし、魔王はそれらの非難の嵐の中央に立っているにも関わらず動揺するような様を見せていない。むしろ、彼の口の端は吊り上がっており、やがて堪えきれなくなったのか高らかに笑い声を響かせた。


「くく、くくく……。わーはっはっはっ! わーはっはっはっはっは! お前たちは寝言を起きて言うんだな。実に滑稽だ、まさか人族の質もここまで落ちぶれているとは情けない」


「何だと!?」


「黙れ」


 たった一言、殺気を込めた魔王の言霊で荒れ狂っていた開場の空気は強制的に静められる。何が起こっているか理解はしていないが、本能では既に理解させられていた。


 動いたら、声を上げたら、逆らったら、容赦なく殺される。それさえ分かっていれば、他には何も分からなくても十分なのだ。


「ならば教えてやろう。偽りの平和に身を浸し、腐り果てた愚民どもよ。お前たちがのうのうと生きている間に、我らがどれだけの苦渋を舐め啜り這い上がってきたか」


 パチン、と魔王が指を鳴らしたのとほぼ同時のことだ。いつの間にか、観客席や貴賓席の至る所に現れたのは黒いフードを被った者たちが姿を現した。


 彼らはその手に黒い剣を作り出すと、いつでも振れるよう臨戦体勢を整えた。これは即ち、この場にいる誰も彼もにとっての分かりやすい人質というわけだ。


「妙な動きはするなよ。この場にいる全員の命は、我ら魔王軍が握っている。もしも一足先にあの世に行きたいのなら、手伝ってやるがな」


 そして、魔王は視線だけ動かすと、その先に見据えた一人の少女に焦点を当てた。その相手とは、他でもないユイナ・ヨワイネ……勇者候補だった。


「貴様が、今代の勇者候補。ユイナ・ヨワイネだな?」


 暁のような艶やかな血色に染められた瞳と、目が合った。本当ならば「いえ、違います」と宣言して逃げ仰せたいところではあったが、彼女の立場上、この場から逃げれば勇者候補としての信用を失墜しかねない。


(わざわざこのタイミングで現れたのは、私と対峙する為ですか……。公衆の面前で、力の差を見せつけようというわけですね)


 前にルナという幹部と戦った際、魔王は自分に強さを求めていると言っていた。その理由は、自分が強ければ強いほど衆目に晒された状態で負ければ魔王の力を世に知らしめられるからだ。


(ここまでのことを見越して、わざわざ私に言伝を……。実力の底も知れませんが、何という知略……!)


 ユイナは奥歯を食いしばってプレッシャーに逆らいながら立ち上がり、覚悟を示すために一歩前へと進み出た。


「そうです。私こそが、勇者候補のユイナ・ヨワイネです。一つ、お尋ねしたいことがあるのですが?」


「言ってみろ」


 戦う覚悟を決めたユイナの体はもう恐怖で震えてなどいない。魔王の威圧の籠った言葉一つ一つにビビるようなこともしない。


「前に、どこかでお会いしたことはありませんか?」


「……」


 ユイナは真っ直ぐに、赤く染め上げられた二つの満月を見据える。少しでも反応があればと期待はしたが、夜空に浮かぶそれと同様か、あるいはそれ以上に動くような気配を見せることはなかった。


「貴様のような娘は知らん。何故、そう思った?」


「……何だか、少し懐かしい感じがしましたので。他人の空似かもしれません」


 魔力の波長、雰囲気、威圧感、身長、筋肉のつき方、魔力量、容姿、性格、それらどれを取っても彼とは似ても似つかない。


 だが、ユイナの中には確信に近い何かがあった。魔王はもしかしたら、兄様ではないのかと。


 しかし、それを当の本人から……。何ら動揺をされることもせず、拒絶されたことが悲しくもあったが、彼の言葉を信じるなら少しだけほっとしている自分もいることは否定できなかった。


 本当に兄様ではないのか? そう直球で尋ねたかったが、これ以上の問答は許されないだろうと断念する。心にしこりができたかのような違和感は残ったが、彼が口を開いたことで意識は再び現実へと引き戻される。


「……剣を取れ。この我と、戦うが良い」


「素直に引き受けると?」


「拒否権はない。もし、断るのならば……。この場にいる者は皆殺しだ」


「……あなた方がどれだけ強かろうと、一人でも多く逃すことができるとは思いませんか?」


「思わんな。象が蟻を踏み潰すのに苦労などしないだろう? それに、貴様の方は我にそれを許した時点で勇者としての尊厳を失う。違うか?」


 魔王の言葉通り受け取るならば、それは種として生きているだけで何ら意識するまでもなく成せる業だということだ。それほどまでに、魔王は自分の力を絶対的な物だと信じているらしい。


 それに魔王の言う通り、この場にいる誰一人として殺させてはならない。勇者は魔王から遍く民を守らなければならない絶対的な存在なのだから。


(この自信は過信……いや、違う。これは、客観的な事実ですか。実際、今のところ魔王に勝てるビジョンが思い浮かばない)


 剣を握る前から、剣士はある程度は戦う相手と相対したら何手も、何十手も先読みをして勝ち筋を探っておくものだ。大抵、自分との実力差に開きがない限りはそれが見えてくる物だが……。


 魔王の場合は、どんな手段を用いたとしても完璧に塞がれる。それどころか、一切の反撃を許さずに敗北する予感すらある。


(ここまでの圧倒的な差を感じたのは、あの幹部と戦った時以来ですか……。魔王と名乗っている以上、彼女より格上なら今の私では……)


 どう足掻いても勝ち目なんてない。勇者なんて足枷がなければ、すぐにでも兄を引っ張り出して全力で逃げ出していたはずだ。


(でも、私は勇者になるんだ……。なら、例え勝ち目がなくても魔王を前に引き下がるわけにはいかない)


 モブAが言っていた、魔王を倒すのは勇者の役目だと。あの時は荒唐無稽な話だとも思いはしたが、思い返せばその通りなのかもしれない。


 そして、勇者の時代から引導を渡すのも魔王の役目だ。ならば、この戦いは避けては通れない。


「……その申し出、お受け致します。ですが、勝負を受けるからにはこの会場にいる全員、無事にお家へと帰してください」


「それは、貴様の努力次第だな。願いを押し倒したいのなら、まずは抗ってみよ。物を言うばかりで行動できぬ輩は、何も掴むことはできん」


「……仰る通りです」


「ユイナ……!」


 イオナはユイナを呼び止めた。何かを発しようとしていたようだが、ユイナが振り返っても口を開け閉めするばかりで言葉を発することはしなかった。


「大丈夫です。必ず、生きて戻ります」


「……ああ」


 イオナは戦いに巻き込まれないように舞台袖へと身を引き、イオナは彼と距離を取って向かい合うと腰の剣を引き抜いた。


 魔王イグニスも、闇より黒い剣を右手に出現させると自分の胸の前で構えた。王国流剣術とは明らかに違う構えに、ユイナは眉をピクリとさせてじっくり彼の挙動を観察する。


 明らかに隙だらけの構え方だ、ユイナはそう考えてすぐに否定する。


(これは、厄介ですね。どこに打ち込んでも跳ね返される、まるで隙がない)


 剣を持っていなかった状態ですらも勝てるイメージができていなかったのに、剣を持ったらより負のイメージが現実のものと化してきた。


 背の高さや腕の長さで既にリーチの差があるというのに、彼の持つ黒剣は一般的に使われている剣より僅かにリーチがある。


 刀身が妙に細いのも特徴的だ、あれでは軽すぎて弾き飛ばされそう物だが何より圧倒的なのはそれの内包する魔力量だった。


「その剣……。あなた自身の魔力で作っているのですか?」


「ご明察。我のこの一振りは、我だけのためにある。そう容易く崩せるとは思わぬことだ」


(魔力伝達効率、強度、形、それらを自在にコントロールできる正に自分だけの剣。柔な技術力では鈍にしかならないけど、あれには絶対の自信が宿っているように思える)


 しかし、こちらも今まで死ぬほど鍛錬を続けてきたのは同じこと。勇者として体現するために、私生活のほぼ全てを剣に捧げて生きてきた。


(この勝負、自分のプライドに賭けて負けられない……!)


 魔王はギラリと視線を実況席兼貴賓席の方に向ける。すると、今まで司会・解説をしていた彼女に顎をしゃくった。


 彼女は困惑して周囲に助けを求めるが、ここは流石と言うべきか助け舟を出したのはアリスティア王者だった。


「魔王の指示です。不本意ながら、ここは従うべきでしょう。ここも既に占拠されていますし、我々は抵抗する意味がありません」


「しかし、殿下! 魔王の言いなりになって舐められでもしたらお終いですぞ! すぐにでも、我々の手で魔王を討ち果たすべきです!」


「彼の強さは常識を外れています。私を含め、雑魚が何人襲い掛かっても勝てはしないでしょう。それとも、犬死にしたいと言うのですか?」


「む、むぅ……」


「ですから、ここは全員が魔王の指示に従ってもらいます。これは王女殿下としての命令です」


 あまり気乗りしない解説役の女の子ではあったが、王女の命令なら仕方ないと腹を括り、貴賓席と隣接している実況席にて持ち場についた。実況用のマイクとなる風魔法を付与した石に魔力を込め、すぅと息を吸い込み緊張を追い出すように喋り出した。


「ええ……。どうやら、この状況で私に視界兼判定役をやれとのことらしいです。何とも図々しいですが、私もこんなイレギュラーな一戦を実況せずにはいられないと思ってました! 実況は私! セツナ・カイセでお送りします!」


 会場からの歓声はない。こんな凍りついた空気感の中で盛り上がること自体が難しそうなものだが、彼女は構わず実況を続ける。


「皆様! 大変な一戦が幕を開けようとしています! 相手は魔王と名乗る男! イグニス! それは、数百年も前に当時の勇者が討ち滅ぼしたとされる伝説の魔族! 我々人族と熾烈な闘争を繰り広げた末に敗北し、現代の社会基盤を構成するきっかけともなりました! その彼が、今こうして現れたのは魔族再興のため! 即ち、我らへの宣戦布告です! その手始めに選んだ相手は、今代の勇者候補として絶大な期待を寄せられるユイナ・ヨワイネ! この大舞台で剣を交えることになったのは、もはや必然と言う他ありません! 果たして、ユイナ選手は魔王を倒し、我々に勇者としての威厳と誇りを見せてくれるのでしょうか! 注目の一戦です!」


 場の雰囲気に身を任せるようにして、両者が剣を構えて睨み合う。もう二人の間に問答など必要はない、言いたいことがあるのならば相手に勝利して屈服させるのみだ。


「では、両者準備が整ったようですので、そろそろ始めさせていただきます! 両者、見合って……。試合、開始!」

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