第31話 これが、本当の理不尽というものだ

 イグニスがルナと合流してから二日、彼は学園で独自に調べた情報を事細かにルナへと伝達しつつ、作戦実行のための準備を整えていた。


 そして、彼らは満を辞して研究所への入り口となっている地下水路の壁を突き止めることに成功した。一見すると何もない単なる岩壁だが、魔力で解析すると秘密の通路が存在していることが判明したのだ。


 現場へと直接赴いたのは、イグニスとアテナ、それから複数名の構成員である。現在はアテナが監督の元、部下に入り口の扉に対して魔法的解析を行わせている。


「ここまで二日……。少し時間をかけ過ぎたか」


「も、申し訳ありません。奴らの足取りを追っていたのですが、途中で見失ってしまい……。総力を挙げて捜索し、ようやくここに辿り着いた次第です」


 イグニスの何気ない呟きを拾ったアテナが、慌てて頭を下げて謝罪を混ぜつつ捲し立てるように弁解をする。イグニスは扉の方に目を向けながら、手で謝る行為を制して口を開く。


「責めているわけではない。むしろ、僕が追いかけることができなかった方が申し訳ないと思っているところだ」


「そんな、滅相もありません!」


 頭を上げたアテナは、あくまで謙虚な態度を維持するイグニスに否定の意見を述べる。


「私どもの力が及ばないせいです。魔王様には、魔王様のするべきことがあるのですから。このような雑事、私たちだけでこなせるように精進いたします!」


 部下の必死な訴えに対して、イグニスは優しく微笑みながら彼女の頭に手を乗せてふんわりと雲を掴むように撫でた。


「アテナよ、お前のような人材が居てくれて本当に助かっている。常に向上を目指すその精神こそが、我ら魔王軍をより巨大な組織へと成長させるだろう。期待しているぞ」


「勿体なきお言葉……。えへ、えへへ〜」


 主人からの褒美がよほど効いたらしく、とても部下には見せられないアヘ顔に近い何かへと顔が歪んでしまっていた。あまり撫で過ぎて部下に醜態を晒すのも悪いと考えたイグニスが手を頭から撤退させると、アテナは残念そうにしながらも再び仕事モードに入った。


「アテナ様、イグニス様。解錠が終わりました。これより、中へと突入致します」


「うむ。どうやら、中には雑魚がウジのように湧いているらしい。そいつらの相手は任せた」


「承知いたしました。行くぞ、お前ら」


 魔王軍の先攻部隊が複数人、開いた扉の中に突入していく。アテナはイグニスの動向を確かめるべく、恐る恐る質問をする。


「では、王女の回収をご自身でなさると?」


「ああ。計画の要になる存在だ、丁重に扱わねばならん。我が威光を見せる良い機会でもあるからな」


「かしこまりました。では、すぐに私も……。分かりました。私はそちらに向かいます」


 アテナは耳に手を添えて何やら独り言を呟くと、イグニスに「申し訳ございません」と一礼した。


「どうした?」


「今、通信用アーティファクトから伝令が入りました。もう一人の首謀者が国外に脱出する手筈を整えているとのこと。私はそちらに向かいます」


「もう一人の首謀者……」


「はい。聡明な魔王様なら既にお気づきかとは思いますが、今回の一件は学園に勤める教師に偽装した二人が主体となり計画を推し進めていました」


「……そのパターンもあったか」


「え?」


 ぼそっと、何か聞いてはいけない音を拾ってしまった気がしたアテナ。


 いや、そんなはずはない。魔王イグニスともあろうお方が、まさか読み違えるなどあり得るわけがない。


「……あの、どうかなさいましたか? まさか、私たちに見落としが?」


 イグニスは暫く意味深に黙って口を閉じていたが、「いや、こちらの話だ」とだけ言った。


「必ず情報を吐かせ、その後は確実に始末しろ。いいな?」


「必ずや、やり遂げて見せます。では、失礼致します」


 アテナは下水道を通って首謀者の行手へと先回りをする。一方のイグニスは、開かれた扉の中へと歩みを進め……。


 そして現在、鋼鉄の扉を紙屑でも丸めるように破壊しまくり、ケビンの前へと姿を現していた。剣先が指す怯える獲物は彼にとっては羽虫同然、しかし例え羽虫であろうと不愉快なら踏み潰す。


 それが、魔王イグニスという厄災の化身であった。


「魔王、イグニスだと……? 馬鹿なことを……。魔王復活は聖皇国の聖女様の予言では、あと十年は先のはずだ! 戯言を抜かすなよ!」


「至って真面目なのだがな。目の前の現実を素直に受け入れられないとは、学者失格ではないか?」


「貴様如き下郎が、私の身分に口を挟むか! 身の程を弁えろ!」


「貴様こそ、身の程を弁えたらどうだ? 貴様は今、魔王の御前にいるのだぞ? 這いつくばり、頭を擦りつけ、命乞いをするのが正しい作法ではないか?」


「この……!」


 ケビンは恐怖に耐えながら剣をイグニスに振るう。彼の剣をイグニスは黒剣で難なく受け止めると、その実力差は既に目に見えて現れていた。


 ケビンの剣は彼の恐怖を体現したかのように事細かに揺れていたが、イグニスの方は絶対の自信の表れなのか微動だにしていない。イグニスの方は既に彼に興味を無くしたらしく、冷たい瞳で蔑みながらケビンの脇腹を魔力で強化した蹴りで吹き飛ばした。


「がはっ……!」


 一瞬、魔力でその部分を強化していなかったら腰が変形して死んでいただろう。何とか一命は取り留めたものの脇腹から伝わる激痛は尋常ではなく、内臓が潰れたのか吐血を余儀なくされる。


「なんて、馬鹿力だ……。魔力で強化した体をあっさりと貫通する勢いだったぞ……」


 床を自分の赤い血で汚しながら、遠くに見える強敵を睨みつける。そんな彼の目に飛び込んできたのは、今にも二人の王女の身柄を確保しようと剣を掲げたイグニスの姿だった。


「や、やめろおおおおお! それは、私の将来がかかった物だぞ! 手を出すなああああ!」


 内臓が焼けるように痛いのも、今にも恐怖で押し潰されそうなのも関係ない。彼は自分の大事なものを守るため、魔力を全力で解放して彼に突撃した。


 命のことなど勘定に入れていない勇気ある特攻は、その実、単に命を無駄に散らすだけの蛮勇であった。


 イグニスは剣を振るうまでもなく、ケビンの懐に飛び込むとグーパンを胸の中央に喰らわせた。拳が露骨にまで損傷を与えるほどのパワーが込められたことで、ケビンの体はバスケットボールのように景気良くバウンドしながら向こうの壁に激突した。


 イグニスは彼の行く末など興味もないらしく、邪魔者がいなくなったと分かると剣を一閃させて魔力タンクを破壊した。中から紫色の液体が零れ出ると共に、二人の王女が中から救出された。


「……がはっ! げほっ! こ、ここは……」


「げほっ! げほっ! ……あれ? 姉様?」


「……アリスちゃん、無事だったのね」


 二人はびしょびしょな体などお構いなしに、まずは互いの生存を確認すると安堵からか抱き合い喜んだ。まだ相手の温もりを感じられる距離にある、そのことが何より嬉しかったのだ。


 しかし、すぐに目の前の圧倒的な存在に目を向けざるを得なくなる。無視をしたくてもできないほど、強大な魔力を有した彼は何者なのか。


「……あの、あなたは一体……?」


 ユリティアの問いの答えを、彼は厳かな声音で発した。


「我が名は、魔王イグニス。魔族再興の篝火にして、世界最強の存在だ」


「魔王……」


「……イグニス?」


「それって、もしかして……」


 アリスティアの疑問が発せられることはなかった。何故なら、崩落した壁の中から蘇った者がいたからだ。


 瓦礫を押し除け出てきたケビンは、体中から血を流しフラフラになりながらも標的を再び睨みつける。さっきまでの畏怖の対象に向ける怯えは一切なく、今はただ抹殺すること以外の感情は含まれない純粋な殺気を込めた視線を飛ばす。


「魔王、イグニス……。確かに、貴様の力は強大だ。お陰で、私の人生設計は台無しになった。だが、いい気になれるのもそこまでだ! 私こそが! 魔導叡智研究会で偉大になる男! 貴様のような脳筋の凡愚如きが、阻んで良いような存在ではない!」


 狂気に堕ちたマッドサイエンティストには、もはや躊躇いなど微塵も存在しない。己の内側から湧き上がる怒りで理性を破壊し、隠し持っていた注射器三本を器用に指の間へ挟んで自分の首筋に押し当てた。


「これは、二本目以降の摂取は体を魔物化させる危険性のある薬品だ。だが、選ばれた私は三本目までは使いこなせる! 見よ、この特大の魔力を!」


 筋肉隆々にさせた筋肉達磨の体から漆黒の魔力が暴風となって吹き荒れる。まるで怒り狂う龍の如く周囲の施設を破壊し、一歩踏み出す毎に地面が唸り声を上げて砕け散る。


「嘘、何あれ……」


「……あんなものが王都に存在していたなんて、信じられません」


「あれを先生だと言っていた私たちも私たちね。もう先生なんかじゃない、単なるモンスターよ」


「恐れをなしたか? 私ほどの存在に出会ったことなどないだろう。貴様らはここで、私の研究の礎となるのだ! そのためにも、まずはイグニス……。くたばれええええええ!」


 汽車の最高速度を悠に追い越す勢いで接近、たった一撃で大地を割くほどの魔力が込められた攻撃がイグニスへと襲いかかる。普通の人間がまともに受けたのなら、剣を交えた瞬間に対象が跡形もなく蒸発してしまうだろう。


 しかし、最強の魔王はそんなこと意も介さない。


 イグニスはその手に持つ黒剣を縦に構えて美しい旋律を奏でるかのように魔力を纏わせると、天井まで伸びた漆黒の柱を全体重を乗せて羽虫へと振り下ろした。


 黒い炎は巨大な竜の顎門となり、敵を魔力の塊ごと飲み込んでしまう。眩い閃光が見る者の視界を埋め尽くし、ほと走る竜の唸り声が全身を硬直させる。


 極光が晴れた時、ケビンは下着一丁の姿で何とか生き残っていた。あれだけの攻撃で生きていたのは偏に、彼が魔力で自身を限界以上に強化していたお陰だろう。


 そうでなくとも、魔王が全力を出すのはこの空間内では叶わない。全力の攻撃を放ってしまえば、二人の王女と研究施設諸共吹き飛ばしてしまう恐れがあったからだ。


 だから、魔王は別の手段を用いて彼を始末する。それは、魔王にのみ許された暴虐の一撃である。


「……まだ、だ。まだ、私は生きている……。もう一度、同じ攻撃を……」


「もういい、貴様の舞踊は見るに値しない。そもそも、魔力を暴力的に振るうだけの攻撃など我には通じん。紛い物の力を借りてまで強くなったにも関わらず、我に傷一つ付けられないようなら……。もはや、存在価値は皆無だ」


「……何、だと?」


「良い機会だ、冥土の土産に教えてやろう。本当の、魔力の扱い方というものを」


 イグニスは黒剣を天高く掲げると、胸の中心に集めた魔力を剣を介して周囲へと解き放つ。


「奥魔時『僕だけの理不尽な世界』」


 魔力が部屋全体へと満ちた時、そこは薄暗い玉座の間だった。敷かれた高価なレッドカーペット、天井をひっそりと彩るシャンデリア、ここは彼の想像する魔王城の最奥を表現した世界である。


 玉座に座るのは当然、魔王イグニスだ。彼はそこから三人のことを見下ろす形で腰掛けており、逆に彼らはこの部屋の主人を見上げさせられていた。


 窓から見える景色は正しく逢魔時、夜色が見え隠れする幻想的な時間帯だ。このような芸当を可能にしているのは、彼の繊細かつ綿密な魔力操作と膨大な魔力量のお陰だった。


「くそ……。何なんだ……。何なんだ、これは!」


「ここは、我が領域。ここに足を踏み入れた者は、もはや我の攻撃から逃れることも叶わず」


「景色を変えた程度で、図に乗るな!」


 ケビンは立ち上がり、玉座は腰掛ける魔王に攻撃しようと剣を構える。しかし、そんなことを魔王が許した覚えはない。


「頭が高い。ひれ伏せ」


「……あ?」


 ガクンと、急に視界が低くなり文字通りひれ伏した。理解が追いつかず、不意にケビン自身の足元を見ると太ももの先が無くなっていた。


「ぎゃあああぁぁぁ!? な、何だこれはぁぁぁ!?」


 遅れてやってきた痛みで、ようやく自分の足が切断されたのだと理解させられる。切断面から溢れる血で作られた真紅の海に身を浸しながら、どうやって攻撃されたのかを小さな頭で必死に考える。


「……何が起きたのか、分からなかった」


「突然、足が切断された。状況はシンプルだけど、それ故に分からない。別に剣を振ったわけでもないのに」


 イグニスは指先一つ、足先一つ動かすことはしていない。彼はその身を微動だにしないまま、彼の足を切って見せたのだ。


「この、私が負けるなど……」


「認めぬか、己の敗北を。なれば、翼を折れば諦めもつくか?」


「……はっ?」


 何故か、ケビンは床にうつ伏せになっていた。自分の鮮血で彩られた床に寝そべり、血の気が引くと同時に肌が血に触れたところから沸々と熱を帯びていく。


 起き上がらなければ。そう思って腕を動かそうとするが、何故か上手く起きがることができなかった。


 ようやく理解した。己の両腕は、既にないのだと。


「そ、そんな……。そんなことが、あるのか……」


 もはや痛みを感じる余裕もない。感覚は麻痺し、唐突に現れた理不尽な前にただ無様に泣きじゃくることしかできない。


「わ、私の計画は順調だったはずだ……。もう少しで、私はアウターに……。あの方々に認められて、出世するはずだった……。今までの努力が、こんな簡単に崩れて良いはずが……」


「これこそが、理不尽というものだ」


 彼の言葉を遮る形で、上から魔王の言霊が降り注ぐ。二人の王女も今はただ、彼の言葉に耳を傾ける。


「突然の交通事故で利き腕が使えなくなる。唐突な災害で金の価値がなくなる。突飛なことで建物の倒壊に巻き込まれて寝たきりになる。伏線も何もなく自分より圧倒的に強い者が現れる。予測し得ない自分にとっての天災、それが理不尽というものだ。これに抗うことは本来、不可能に等しい。それが叶うのなら、其奴はきっと未来視か予知能力者なのだろうな。心底羨ましい」


 イグニスは玉座からゆっくりと立ち上がり、その右手を天高く伸ばした。そこに見えない何かを、彼にしか見えない何かを掴み取るように。


「僕はただ、抗いたかった。そういった理不尽なことから、この身を守るために。そして、誰も考えもしなかった究極の答えに辿り着いた」


 虚空を掴み取り、手元へと引き寄せる。それはまさに、彼が転生と研鑽の末に掴み取った唯一無二の解だった。


「理不尽に抗う方法はただ一つ、僕が理不尽な存在になればいい!」


「そんな、馬鹿なことが……」


「……終わりだ」


 彼は格好良く指をパチンと鳴らした。それは終焉の訪れを知らせるコーラス開演の合図でもあった。


 彼の体がまるで端から削り取られるように消失していく。肉片、血の一滴も粒子レベルで細切れにされ、体を構成する体積はどんどん小さくなっていく。


「ぎゃああああぁぁぁぁ!? 嫌だ! 嫌だ嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!」


「そうして命乞いをした魔族を、貴様らは容赦なく殺してきたのだろう? 自らがしてきた行いの報いを受けろ」


「お願いします! 何でもします! 金も、名誉も、地位も差し上げます! 私が手放せる全てのものを、貴方様に献上します! だから、どうか命だけは!」


「くどい。せいぜい、悲痛の中で苦しみ踠きながら逝ね」


「まおぉぉいぐぅぅにぃぃぃすぅぅぅぅ……」


 やがて声も出せなくなった彼は、顔を絶望の色で艶やかに染めながら消えていった。


「……これが、魔王の力。格が違い過ぎる」


「こんなの、私たちじゃ絶対に勝てない……。もし、今攻撃されたら……」


 二人は身を寄せ合い、命乞いの眼差しで魔王を見つめることしかできない。この領域が展開されている限り、ここは彼の独壇場なのを理解したからだ。


 生かすも殺すも彼次第。二人は今から下される審判の時を、首筋に突きつけられた死神の鎌に怯えながら待っていた。


 イグニスが再び指を鳴らす。二人は思わず目を閉じたが、何も起こった気配はない。


 恐る恐る目を開けてみれば、魔力が紫色の糸を解きながら霧散していく。彼は二人を始末することはせず、景色を元に戻してしまったのだ。


 重力を無視して消えた玉座から地面へとゆっくり着地し、そして二人の前に歩み出る。


「……来い、半魔。貴様は我らの計画に必要だ」


「な、何よ! あんたも姉様が目的なの!? 絶対渡さないわよ!」


 アリスティアがユリティアを庇うように立ち塞がる。剣は勿体無い、恐らく連れ去られた時に取られたのだろう。


 それでも、ほんの僅かでも対抗できる可能性があるのなら抗うつもりでいた。彼女の瞳は、諦めという言葉を知らないらしかった。


「自分で決めろ。この世界を変えたいと願うのか、それとも今のままで良いのか。戦う意志があるのなら、我が篝火の元に来ると良い」


 彼女は迷った。彼の手を取るべきか、払うべきか。


「こんな奴の言うことを聞く必要はない! 姉様、早く学園に戻りましょう! 一緒に、姉妹をやり直すの!」


 そうだ、その通りだ。私たちはこれから、姉妹としてすれ違っていた分の時間を取り戻さなくてはならないのだ。


 私は行かない。そう言葉にしかけた時、彼は先回りして言葉を紡いだ。


「今の僕は主人公だ。だから、その力がある」


「……っ! あなたは……」


「共に戦おう。フィクションを、現実のものとするために」


 ユリティアは、もう迷わなかった。だって、何よりも彼が側に居るのだから。


「……ごめんなさい、アリスちゃん。せっかく仲直りできたけど、今のままじゃダメなの」


「どうして!? 姉様が半魔だってことは、黙ってれば良いじゃない!」


「……いずれはバレてしまうわ。だから、私は世界を変えるために戦う。彼と共に」


「姉様待って! 行かないで! ねえ、お願い!」


「……アリスちゃん。私も、あの時からずっと謝りたかった。ごめんね、私、実は半魔なの」


「……じっでるわよ、ぞんなごどぉ……」


 涙の滝と鼻水で顔中を汚しながら、嗚咽混じりに言った。その告白が七年前のあの日のものであれば、結果はもっと違うものになっていたかもしれない。


「お願い、私を……。私を置いて行かないでよ……。もう、一人になんてしないでよぉ……」


 滲んだ視界に大好きな姉の罪悪感を悲しげな笑顔で上塗りした表情が薄らと浮かび上がる。ユリティアの頰を一滴の涙が伝うが、彼女はそれを拭うといつになくキリッとした覚悟を決めた視線で妹を射抜いた。


「……待ってて。必ず、また二人で仲良く暮らせる世界を作ってみせるから」


「姉様! まっ……て……」


 アリスティアがユリティアを抑えようとすると、イグニスが彼女の首筋をトンと叩いた。視界が次第に薄暗くなっていき、やがて主人なき人形のように事切れた。


「……気絶させたの?」


「これでも、一番優しい方法なはずだ」


「……そうね。アリスちゃんなら、きっと理解してくれる。だって、私より賢いもの」


「では、行くか」


「……ええ。貴方との約束も、果たさないとだもの。魔王イグニスさん」


 その日、魔導叡智研究会の研究施設の一つは壊滅した。


 アリスティア王女は学園の正門前で気絶しているところを騎士団に発見された。彼女の体に異常はなかったが、代わりにユリティア王女の行方は未だ知れず。


 アリスティアの証言では、ユリティアのことに関しては分からないとのことだった。ケビンと、彼の所属している魔導叡智研究会なる存在に連れ去られ、謎の研究施設で実験体にされていたが、その後のことは覚えてないらしい。


 だが、騎士団は魔導叡智研究会の存在を信じなかった。そんな危ないものが王都の何処かに潜んでいて、今まで見つかっていないことが何よりの根拠となった。


 アリスティア王女の言動については、攫われたトラウマによる脳の一時的な混乱という精神障害で片付けられた。話を信じてもらえなかったことで病室で暴れ回ったことが、ユリティアを失ったことで精神に重大な損傷を負ったことを裏付けてしまったのだ。


 彼女らを攫ったと思われる容疑者ケビンも、魔導叡智研究会なる組織の構成員も特に見つからず、誘拐事件の現場と思われる場所が発見されたのは一週間が経ってからのことだった。そして、そこには研究施設らしき跡地は存在せず、ただ瓦礫の山が連なるだけの廃墟と化していた。


 結局、今回の事件は陰謀も何もなく、単に王女二人が容疑者ケビンに攫われ、その実、彼の目的がユリティアのみだったため、一人逃げ出したアリスティアを追って来なかったとして処理されることになる。


 騎士団は誘拐事件の容疑者であるケビンとユリティアの行方を引き続き追う方針を国に提案するが、何故か却下される。代わりに、ユリティアは地下下水道の崩落に巻き込まれて死亡、ケビンもその後を追ったこととして一旦事件の幕は降りた。


 最後に、アリスティアは魔王の存在を騎士団の取り調べで話さなかった。その彼女は魔王に対して何を思うのか……それは、彼女の胸の内でしか分からないことだった。

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