拝啓――

江戸文 灰斗

拝啓――

 嗜虐趣味は殺すことに本当の充足感を感じるのでしょうか。

 被虐趣味は殺されることに真の満足感を得られるのでしょうか。

 無論、間違いであることはわかっています。

 しかし思うのです。サディストの『痛めつけたい』という望みの先にあるのは他者の殺害であり、マゾヒストの『痛めつけられたい』という望みの先に待つのは自らの殺害であると。

 死、というのは恐れの対象であると同時に、人類に用意された最後の幸福なのかもしれません。

 しかし僕には皆と同じ幸福が用意されていませんでした。

 不躾ながら、いきなりこの手紙を貴方にお送りしたのは僕と同じ匂いのようなものを感じたからなのです。僕の告白を聞いて、違うと思うのでしたら即刻これを燃やして下さい。そして二度と見つからない常闇の奥深くに埋めてください。

 この告白は僕の勇気であり恥辱なのです。


 昔の話をしましょう。その日は或る友人に会う日でした。友人とは高校の同級生で、よく勉強だとか陸上競技だとかくだらないことで競い合った仲でした。

 バーに現れた彼は日曜だというのに出勤だったらしく、まだ持ち帰りの仕事があるから、とカフェラテをマスターに注文しました。かっちりした背広がよく似合っていて、シャツを着崩していた僕は気恥ずかしくなって捲っていた袖を伸ばしました。

 僕は彼が県外の大学へ進学し、有名企業であるT社に入社したという噂を聞いていました。少しほろ酔い気分で彼にそのことを聞くと、彼はにこやかに微笑みながら謙遜しましたが、噂は本当のようでした。

「君は、最近どうしているの?」

 そう聞かれた僕は途端に口ごもってしまいました。高校時代こそ互いに鎬を削るような間柄でしたが、数年経った頃には雲泥の差がついていたのです。

「小さな出版社の……、しがない記者さ」

 友人は意外そうな顔をして記者、と繰り返しました。僕はすかさず、T社のエースに比べれば蟻のようだけれどもね、と自嘲気味に続けました。友人はそんなことないさ、と曖昧に笑いました。


 自虐でした。


 どうせ傷つけられてしまうくらいなら自分で傷つけてやろうという魂胆でした。自虐こそが僕の脆くも肥えた自尊心に残された最後の砦だったのです。

 友人の『そんなことない』さえも僕には痛かった。――皮膚の裏が抵抗できないままにじくじくと痛むのです。痛みに耐えようと、僕は唇に歯を突き立てました。

 その後、共通の知り合いの安否や、仕事の話を聞きあったりして過ごしました。T社でも重要な仕事を任されている彼の愚痴を聞く度に自分の矮小さ加減が浮き彫りになった気がして、僕は酒をあおりました。しかし、酔いは回るどころか、どんどん頬から血の気が引いていきました。

 友人がしきりに時計を確認しだしたので(その時計もセンスのいいブランド物でした)、そろそろ帰ろうか、と僕は提案しました。

「そんなに仕事が溜まってるの」

「ああ、仕事のできない俺が悪いんだがね」

 そう言って彼は笑って立ち上がりました。

 財布を取り出すと、友人は左手で制して支払いを済ませてくれました。

「それじゃあ、また」

 彼は片手を挙げてひらひら振りました。僕もまた、と手を振り返しました。彼は小走りでしたがも何度もこちらを振り返りながら地平線に消えました。

 彼が背広を脱ぐことは最後までありませんでした。

 彼の影が見えなくなった頃、僕は口腔内の違和感に気が付きました。唇の裏側が変に盛り上がっていました。舌で触れると紙やすりを押し付けられたような痛みが走りました。強く噛みすぎたせいで口内炎ができていたのです。

 ツイてないな、と僕は舌打ちして家路につきました。

 ツイてないのはその後の方で、家についてからもそれはずっと邪魔をし続けてきました。ふと無意識に舐めてしまうのは当たり前、誤って尖った犬歯が触れようものなら、逆鱗に触れられた竜の如く怒り狂いました。ソファに身を沈め、とろんとした眠りに誘われようとしていたとしてもお構いなしにそれはやってきました。

 そんなこんなで口内炎は一週間もしないうちに鳴りを潜めました。

 

 しばらくして僕には二つの悩みが生まれていました。一つは仕事、もう一つは趣味のことでした。

 友人にも話していた通り、僕は記者でした。

 毎日取材ばかりかと思いきや案外暇で、寝ても醒めても目の前のディスプレイとにらめっこする日々。面白みなど欠片もありませんでしたが、僕はそんな日常が嫌ではありませんでした。

 嫌なのは時折訪れる理不尽でした。

 記者という生き物は性質上、誰かに怒りを向けられることの多い仕事です。しかし受けたストレスを元凶に向けることはできない。相手は大抵上司やインタビュイーで、僕にはつまらなくも安定した生活を捨ててまで楯突く勇気がなかったのだ。

 重油のような気持ちが胸の器に溜まる度、私は行き場のない無力感に苛まれました。そしていつも、強く握りこんだ拳を自ら開いてだらんと垂らすのでした。

 貶され、罵られ、不満解消の身代わり人形にされた帰り、僕は何故か優秀な友人のことを思い出すのでした。

 呪いの言葉のように決して口にはできない『羨ましい』。僕はそれを飲み込むために内頬を噛みました。

 ここでもう一つの悩み、自虐趣味が出てきます。

 一人の時に、文庫本を開いている時に、また鉄の味がしたことで発見しました。なにかしら、と舌で探ると、盛り上がっているところがありました。

 僕は無意識のうちに頬を奥歯で甘噛みしていたのでした。丁度嚙み切らない程度の力を込めて僕は自分を痛めつけていたのです。しかしながらそこに痛めつけているという自覚はありませんでした。むしろ淡い快感を伴ってさえいました。上顎と下顎の狭間で内頬の肉が弾力をもって変形するのが面白かったのです。

 よくよく日常を観察していると、それはストレスを感じたときによく行っていることがわかりました。

 常習的に噛むことで痛覚が麻痺し、より強い力で噛みしめるようになりました。毎度毎度血を流しているわけではありませんでしたが、口内炎はどんどんと増えていきました。

 新しい傷ができると、僕は指を抉れた傷跡にあてがい、指紋に血が染み込むのを楽しみました。なんと言いましょうか、僕は自らを犯していること、自らに犯されていることに一種の達成感を感じていたのです。

 奇妙な癖はゆっくりと日常の隙間に入り込んできましたが、僕にそれを拒む術も気力もありませんでした。というよりは、自虐は僕の心の救世主に他ならなかったのです。僕の心が強い怒りを向けられると、代わりに口の中で自分の怒りを発散させて日々をやり過ごしていたのです。


 雑誌の取材で、僕はとある女性を訪ねました。揺蕩う黒髪の、どこか陰のある美女でした。

 彼女のような人が最近増えているとのことで取材を申し込んだのですが、真夏だというのに頑なにカーデガンを手放さない彼女は僕と目を合わせようとはしてこず、アイスコーヒーのブラックを啜っていました。

 彼女と相対した僕はどこか対岸の火事を見るような気持ちでいました。

「あの、上川杏里さんでよろしかったでしょうか」

「はい」

「この度は取材を受けてくださりありがとうございます。早速質問してもよろしいですが」

「はい」

 淡々とした受け答えでした。僕が質問した以上のことは答える気がないような態度で構えていました。

 初めの質問を投げかけようとした時、上川がバッと顔を上げました。

「失礼、昼食がまだでして」

 上川はそう断ってウエイトレスにBLTサンドを注文しました。僕もまだ食べていなかったので、たまごサンドを続けて頼みました。

 長くなるか、早めに切り上げられるか。どちらにせよ面倒なことになりそうだと覚悟した時、上川は顔を顰めて僕の口を睨めつけてきました。

「記者さんの食べ方、変です」

「え?」

「どうして右側を避けるように食べてらっしゃるのですか」

 思わぬ指摘に僕は面食らいました。

 この頃、噛んでしまうと腫れ、腫れたが故にまた噛んでしまうという悪循環に陥り、慢性的な口内炎に悩まされていました。この右頬のものは数週間居座っている代物で、もうそこに存在することが自然だという領域まで踏み込んでいました。

「えっと、この前誤って口を噛んでしまいまして。口内炎がまだ治まらないものですから、こうして避けるように食べてしまうんですよ」

 早口になってしまわぬように注意しながら僕は答えました。

 彼女は僕から目を逸らさないようにしながらうなづいて、それにしては、と呟きました。唇が三日月型に歪んだのが見えました。

「慣れていらっしゃるのね。避けて食べるの」

「ええ、まあ」

 上川はずいっと前のめりになって僕の目を見てきました。急に上川の顔が近づいてきて、僕は気まずくなって目を逸らしました。

「もしかして、記者さんって――」

「待ってください」

 僕は小さく叫びました。上川は目を丸くして口をつぐみました。なんだか、重大な秘密をこじ開けられそうな気がしたのです。そこに根拠はありませんでした。

「続きを?」

 上川は不気味な笑いを浮かべながら聞いてきました。僕はごくりと唾を飲み込んで、小さく、大丈夫です、と言いました。

「もしかして記者さん、私と同じ人類なのではないですか?」

「同じ人類?」

「そう。」

 上川の言っていることが僕にはいまいちピンと来ませんでした。首を捻っていると上川はにやにやしてカーデガンを脱ぎました。

「記者さんもそうなんでしょう?」

 カーデガンの中はフリルのついたノースリーブのブラウスで真白の腕が顕になりました。突飛に表れた黒と白のコントラストに一瞬目を奪われましたが、すぐに別のところへ釘付けになってしまいました。上川は僕の無遠慮な視線を嫌がるどころかむしろ自慢げに僕の眼前に突きつけてきたのです。

「私と同じ自傷癖なのでしょ?」

 彼女の手首には赤茶けた傷跡が無数に走っていました。今回の取材のテーマでしたから多少そういうものを見ることは想定していましたが、実際目の当たりにしてみると想像以上の生々しさに少し吐き気を催しました。

 僕が上川と同じ自傷癖だって? 初め、僕は信じられなかった、いや見下してさえいたかもしれません。自分の気持ちを自分で制御できないような社会不適合者の集まり程度に考えていました。そんな世界と僕が同じだなんて認められるはずがなかった。

 けれど、認めたくないのに、妙に腑に落ちてしまった。自傷という言葉が。

「捉えようによってはそうかもしれませんね」

 平静を装おうと思っても、怒ったような口調になってしまって動揺を隠すことができませんでした。

「まだ、抵抗するの?」

 一転、上川は顔を曇らせ、机の上を何度も指で叩き始めました。アイスコーヒーの湖面に波紋が生まれては新たな波紋に上書きされました。

「本質は私と同じ」

「違う」

 思わず強い語気で言ってしまいました。この期に及んでまだ彼女の言う『自傷』と僕の言う『自虐』を分けて考えようとしていたのです。

 上川は身動ぎひとつしませんでした。机をたたく音がクレッシェンドの指示を受けたように強まっていきます。僕の心音も釣られて大きくなりました。

 上川は指を止めました。周囲の景色や音が遥か彼方の方にいるような感じで、上川だけが目の前で強く存在感を放っていました。

「同じよ。解放できていないだけ」

「自らを傷つけるような歪んだ性癖を持っているような人間じゃないんだ僕は」

「じゃあその口内炎は?」

「ただの事故さ」

「事故ね、詭弁だわ」

「詭弁なんかではない」

 お互いに声を荒らげたせいで店中の視線が僕らに集まっていました。居心地の悪さを感じた僕はひとつ咳払いをしました。

「ともかくだね、僕は君と同じ人種なんかでは決してないし、無意識に口を噛むのだってただの癖なんだ」

 そう言い終わるや否や僕は席を立ちました。もう仕事どころではなく、五千円札を机にたたきつけて僕は店を出ました。

 踵を返した時、解放してみればいいのに、と心底残念そうな声でこぼしたのが聞こえましたが、返事はしませんでした。

 帰りのタクシーの中、無意識に頬を噛んでいることに気が付きました。これではあの女と同じではないかとすぐさまやめたのですが、しばらくするとまた同じことをしている自分がいました。

 『解放してみればいいのに』。彼女の言葉がぐるぐると螺旋状に僕の脳内を蝕み続けました。

 もし。もし仮に。もしも。僕が彼女のように解放するのだとしたら? 何となく考え始めました。

 家の引き出しからカッターナイフを取り出して、上川のように手首へ押し当てました。ですが高揚感が得られるどころか、恐ろしくってカッターを持つ手が震えてしまうのでした。

 だとしたら、やっぱり。

 僕は初めて、自らの意思を以て内頬を奥歯で挟みました。すると先程までの恐怖感がすっと消え失せました。

 時間をかけて『いけないこと』のボーダーラインを引き下げてきたことで、生存本能さえも僕を阻もうとはしませんでした。

 僕は小さく息を吐きました。

 食感で言えば、固い海老のようでした。切り離された途端に僕の一部はただの肉片へと変貌し、口の中に異物感が立ち込めました。

 醜く釣りあがった唇の端から血と唾の混ざった液体が一筋垂れました。粘っこく糸を引く液を指でとって眺めて初めて僕は口を噛みきったことを本当の意味で認識しました。刹那、自分の許容量を超える濁流が咽頭を侵略し始め、僕は逃れることのできない苦しみに襲われました。

 僕は膝をついて、少ししてから床に横たわりました。事態の深刻さとは裏腹に僕の頭は冷えきっていました。不必要に頭に昇った血が引いていく感覚が気持ちよくて、ふわふわした視界さえも愉しんでいました。着っぱなしのコートが汚れることなんてどうでも良いのでした。

 全身が末端から徐々に弛緩して、鼻もよく利かなくなりました。壁にかかっていた時計が時を刻む音だけが馬鹿みたいに大きく聞こえました。

 肺を満たしきった混合液が口を溢れて床に水溜まりを作りはじめました。上川の言っていたことがやっとわかった気がしました。

 優秀な友人のことを思い出してペンを執り、僕は深い眠りにつきました。


  江戸文灰斗


《追伸》

 傷をつけるのは結構だけれど、きちんと隠れるところにすべきです。夏に背広は不自然極まりないと思うので。

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拝啓―― 江戸文 灰斗 @jekyll-hyde

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