すいみつとう奇譚

@Ichor

***

 とても暑い、夏の盛りの頃でした。

 犬も日向を避けて歩くほどの陽差しで、道の先には逃げ水が光っていました。

 私は一人、西国の山あいの街を旅していました。これと言った目的も無く、ただ行き当たりばったりの気ままな旅でした。

 降るような蝉しぐれを浴びて、浴衣姿の人たちが古い家並の通りを行き交う様子を見ていると、何だか、古い時代にタイムスリップをしてしまったような感覚に包まれます。


 こぢんまりとした商店通りの辻を、山の鎮守様の方向へ曲がろうとしたとき、5歳ぐらいの小さな男の子が裸同然の格好で走って来て、危うくぶつかりそうになりました。

「あっ!」

 くるりと身体を翻して男の子を避けたものの、私は軽いめまいに襲われました。

 暑さのせいもあったのでしょう。私は目頭をつまんで、少しの間、曲がり角の辺りにしゃがんでいました。

 すると、「お嬢さん、おいしい水蜜桃をお試しあれ!」という声が聞こえたので、目を開けて声のした方を見ると、向かい角の家の軒下に“水菓子屋”という看板が見えました。

 店先で、大柄な短髪のおじさんが手招きをしていました。

「みずがしや?」

「水菓子は、“くだもの”のことだよ、お嬢さん」

 おじさんは、顔をくちゃくちゃにして笑いました。よく見ると、右の頬に大豆ほどの大きなホクロがあって、それがとても印象的でした。

 めまいも治まってきたので、私は水菓子屋を覗いてみることにしました。

「さあさあ、そこに座って」

 おじさんはそう言って、葦簀で囲った日陰の床几を指差しました。

「すみません」

 小さく会釈をして、私は床几の端に腰を下ろしました。

 涼しいところでホッとしていると、おじさんが、八つに切り分けた桃の実を小皿に乗せて持ってきてくれました。

「旅行かね?」

 小皿を私に勧めながら、おじさんは言いました。

「はい」

 ジワジワという、アブラゼミの声を聞きながら、私は桃をいただきました。

 柔らかくて甘くて、美味しい……でも何となく、ちょっと切なくなるような味でした。

「どうだい?」

 しばらくして、盆に乗せた麦茶を差し出しながら、おじさんが言いました。

 私は「とても美味しかったです。でも、ちょっと変わった味ですね」と応えました。

「この桃にはね、ちょっとした物語があるんだけど……聞いて行くかい?」

 そう言って、おじさんは少し照れくさそうに笑みを浮かべました。


 桃は縦に潰れた平たい形をしていました。

「これは蟠桃(ばんとう)と言って、由緒ある桃なんだよ」

 遥か昔のこと―

 一匹の石猿が我が物顔で天界を荒し回り、

 天の宮殿は蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。

 石猿はここぞ! とばかりに勢いづいて、西王母の桃園に乱入すると、たわわに実った不老不死の桃の実を、すべて平らげてしまいました。

 天帝はお怒りになり、石猿討伐の勅令を下されました。すると、二郎真君が先陣を切って兵を挙げ、乱戦苦戦の末、辛くも石猿を天界から追い払いました。


 思わず私が「それは孫悟空の話ですね」と言いますと、おじさんは笑顔でうん、うんと頷いて、話を続けました。


 天界を揺るがすような激しい闘いの中で、石猿が食い散らかした桃の種が一つ、雲間から下界へとこぼれ落ちて行きました。

 桃の種は東へ流されて、小さな島国の、小さな山の腹に落ちました。そして、その地に根付いた桃は、やがて大木となってふっくらとした艶やかな実を付けました。

 時代は下り、かの国で天皇がおおきみ(大王)と呼ばれていた頃のこと、一人の猟師が山に入り、一本の桃の大木を見つけました。

「この木は一体どうしたものか。こんな桃は見たことがない」

 天に広がる堂々とした樹形と、天女の頬とはこういうものではないか、と思わせるようなみずみずしい桃の実に、猟師はすっかり感心してしまいました。

「これは、さぞうまいに違いない」

 そう言って、猟師は手頃な実をひとつもぎ取ると、大口で一気に半分までもかぶりつきました。

「うりゃりゃ、うま過ぎる!」

 猟師が頓狂な大声を出しますと、山の鳥が一斉に鳴き止んでしまいました。

 天の桃は、下界の土で育ったために不老不死の効力を失っていました。けれども桃にはまだ、食べた者の身体を強くし、幸せな気持ちにさせる力がありました。

 いつしか、桃の木の周りには人々が集まるようになり、三つ目の夏が訪れる頃には小さな村が出来ました。そして村人は皆、壮健で長寿でありました。

 村の赤子が、初代から五代目を数えると、桃の木の噂は都にまで知れ渡るようになっていました。

 ある初夏の頃、ほころびの無い立派な着物を着た男が、数名の従者を伴ってやって来ました。従者たちは、それぞれ革の帯に太刀を帯び、背に大弓を携えていました。

 その姿を見ると、子らは一様に怯え、女たちも子と共に物陰に身を潜めました。

 立派な成りの男は村の中央へ進み出ると、大声で「我は山鳥兜麻呂と申す。この地の長は誰そ⁉」と言いました。

 すると、他よりも頭一つも大きな男が前に進み出ました。男は、獣の皮を掛けた太い首の辺りを熊手のような手でガシガシと掻きながら「わしが長のカラハツじゃ。いったい何の用かの?」と言いました。

 兜麻呂は、カラハツという男の異様に覚えず後退りそうになりましたが、寸でに踏み止まって眉頭をぎゅっと寄せました。

 そして胸を大きく張ると「詔勅である。衣を正し、そこにかしこまれ」と言いました。

「何のことだ?」

 カラハツは首を傾げました。

「愚か者め。もったいなくも、大王様直々の詔じゃ!」

 そう言うと、兜麻呂は懐中から書状を取り出し、両の手でうやうやしく額の前に差し上げて一礼をすると、朗々と読み上げました。


「ごちそうさまでした。……あの、お代は」

 水菓子屋のおじさんは、ちょっと怪訝な顔をしてから目を丸くして、手の平を顔の前で左右に振りました。

 私は、鎮守様をお参りしたら、また寄らせてもらいますと約束をしてお店を出ました。とても美味しい桃だったので、お土産に二つ、三つ買って帰ろうと思いました。

 鎮守様へつながる坂道は、石畳が敷いてあって、数メートル毎に段がありました。

 苔むした斜面に屹立して並ぶ杉並木に囲まれて、私は鼻腔に染み入る、杉の、どこか古の匂いを感じながら、ゆっくりと参道を登って行きました。

「涼しい」

 木々の、わずかに湿気をはらんだ呼気に包まれていると、蝉しぐれさえ涼し気な音に聞こえました。

 私は立ち止まって目をつむり、静かに深呼吸をしました。


「今、何と⁉」

 カラハツは兜麻呂の顔を睨みつけました。

「今一度、申し付ける! 桃の木を根ごと、ただちに朝廷へ献上せよ」

 カラハツは、今度はからからと笑い出し、「俺は“みことのり”なんちゅうもんは知らんが、そんな頼みは聞けっこねぇ。桃の実が欲しけりゃ分けてやるから、“おおきみ”とかいう奴にも、それで我慢しろと言っておけ」と言いました。

「貴様っ、無礼な‼」

 そう怒鳴って、太刀の柄に手を掛けた従者たちを、兜麻呂は広げた掌を背後に向けて制しました。

 そうしてカラハツを見据えると、奥歯が軋むような強さで「大君様に逆らうとは……後悔させてやる!」と言い放ち、踵を返して村を出て行きました。

 鬱蒼とした下生えを掻き分けて、太い杉の間を下って行きますと、少し開けた所があって、そこに小さな祠が祀ってありました。

「ここらの氏神か? ……ん、誰かおるな」

 兜麻呂が言うと、目の良い従者が凝らし見て「若い、女でございます」と言いました。


 灰色に色あせた社の正面に、大きな鈴が下がっていました。

 私は一礼して段を上がり、鈴の帯を引きました。けれども音がしません。もう一度、引いたり揺すったりしてみましたが、やっぱり音は鳴りませんでした。

「女、そこで何をしている?」

 そのとき突然、そんな声が聞こえたので、慌てて辺りを見回しましたが、誰もいませんでした。

「お、お供え物を……」

 今度は、女性の怯えた声が微かに聞こえました。

「裏の方かな?」

 今どき女性に、「女」などと呼びかける人は危ないかも知れないとは思いましたが、水菓子屋のおじさんが話してくれた“桃の村”のシャゲという娘さんの話と重なって、何となく気になりました。

 私は段を降りて、恐る恐る社の裏へ回り込んで行きました。でも、そこに人の姿はありませんでした。

 私はふうっ、と小さく溜め息をついて、前屈みになっていた背を伸ばしました。

「確か、シャゲはこんな場所で……」

「それは何だ⁉」

 今度はすぐ背後から大きな声がして、思わずしゃがみ込みそうになるほど、身体がぎゅっと縮まりました。

 ゆっくり振り向いて見ると、歴史で習った聖徳太子のような格好をした若い男性が、仁王立ちでこちらを睨んでいました。

「あの……」

「その、手に持っている物は何だ⁉」

 そう言われて、私は自分の手を見ると、それは私の腕ではありませんでした。

 何色と言えばいいのか、くすんだ色の、麻のような布の袖から伸びた腕は、蔓を編んで作ったカゴを下げていて、その中に大きな桃の実が三つ、入っていました。

「これは、お供え物でございます」

 若い男は、カゴを覗き込むように顎を出すとニヤりと笑いました。

「桃か。……お前、名は何という」

「シャゲ、と申します」

 すると、従者らしい一人の武者が、若い男に近づいて何事か耳打ちをしました。

「ほほう、お前はカラハツの娘か」

 若い男がそう言って、ずいっと前に出たので、私は思わず、身体を引こうとしました。そのとき、背中が何かに当たって止まりました。

 首を傾けて肩越しに見ると、別の武者が立っていました。そして気がつくと、社の陰や裏手の森の中からも、数名の武者がこちらへ歩み寄るのが見えました。

「カラハツの娘というのは都合が良い。それに……なかなかに様子が良い女だ」

 若い男は従者の一人をちらと見ると、小さく顎を引きました。


 西の山の端に陽が掛かり始めた頃、村の若い衆が戻って来ました。

「ご苦労だった。それで、どうだ⁉」

 すぐにカラハツが走り寄って行きました。

 早朝、供え物を持って出かけた娘のシャゲが、まだ帰っていませんでした。

 若い衆はカラハツの顔を見ると、一様にうなだれて、弱々しく首を左右に振りました。

「シャゲ様は社にもおられなんだ。その代わり、裏手にこれが……」

 それは紛れも無く、シャゲが編んだ手カゴでした。

「それだけじゃねぇ」

 別の若い衆が前に出て「社の裏手にゃ、上等な編み靴の後がいっぱいあった」と言いました。

「編み靴だと⁉」

 カラハツは、冷たいものが丹田から背筋を這い上がるのを感じました。猟師の無骨な獣革の履物ではなく、上等と思われる靴跡は恐らく、昼間やって来た朝廷の使者、山鳥兜麻呂たちのものに違いなかったからです。

「おのれ‼ このままは置かん」

 カラハツはすぐに、村一番の大男ボエを伴って兜麻呂たちを追いました。

 三日と四晩が経ちました。けれども、ついに見つけることは出来ませんでした。

「きっと舟で川を下ったんだ!」

 ボエはそう言って、えいっとばかりに大人の腰ほどの太さもあるブナの木を蹴り倒しました。

 カラハツは、地面に這いつくばって全身を震わせながら、ドングリのような涙をぼろぼろとこぼしました。


 怖くて…悲しくて…悔しくて。

 そんな、身体の芯を捻り上げるような強い感情が、お腹の底から涌き出すように広がって行きました。

「苦しい……これはシャゲの思い?」

 足元を見ると、シャゲは素足でした。視界の中で、乱れた着物や髪が風に揺れていました。シャゲは裸同然の姿で、深い谷川を見下ろす切り岸の際に立って、ジリジリと近づいて来る男たちを、大きな黒い瞳でただ見つめていました。

「それ、後が無いぞ。馬鹿な真似はやめてこちらへ来い」

 男たちの真ん中で、兜麻呂が言いました。

「ケダモノに身体を汚されて、のめのめと生きてはいられない! 口惜しい……く、口惜しい‼ お前は鬼畜生だ‼」

「やめて、シャゲ‼」

 言葉が終わらぬうちに、シャゲの足は切り岸を離れていました。

 深い谷を落ちて行くうちに、私の脳裏に、いくつものシャゲの思い出が浮かんでは流れて行きました。そして、その何気ない日常の思い出の中で、シャゲはいつも笑っていました。

 切り岸の端に立って深い谷底を覗き込みながら、従者の一人が「これでは助かりますまい。惜しい人質を無くしましたな」と言いますと、兜麻呂は「なかなか良い生娘であったが……なに、大事無い」と言って鼻で笑いました。

 そうして切り岸にくるりと背を向けると、衣を正してから「急ぎ立ち戻って手勢を集める。舟はどこぞ」と言いました。


 かまどの煙に薫き染められた木の匂い。

 土と、草と、風の匂い。

「おいおい、爺っさま! 娘っこが目ぇ覚ましたよぉ」

 白髪を丸まげに結ったおばあさんが、どこか向こうの方を向いて頓狂な声を張り上げました。

 ほどなく、ドンドンという床を踏む音がして、ゴマシオの髭を鎧の目の下面頬のように

蓄えたお爺さんが、まくった両の袖を下ろしながら近づいて来ました。

「なんじゃ、おかしな声を出すから、危うく薪ではのうて自分の膝を割るところじゃったぞ」

 お爺さんは言いました。

 木と草を編んだだけの粗末な天井の下、安堵の表情で覗き込む、お爺さんとお婆さんの顔がありました。

「ここは……うっ!」

 起き上がろうとすると、体中に激しい痛みが走りました。

 お婆さんが「まだ無理しちゃいかん」と言って、私の背を支えました。

「ひどい怪我だったで、生きとるだけでも奇跡じゃ」

 お爺さんが言いました。

「私……どうして、ここに」

「そりゃ、こっちが聞きたいがの。そうさな……ひと月前じゃった、わしが川で洗いもんしとったら……」


 川の上の方から、まん丸の大きな“モノ”がプカリプカリと流されて来ました。

『はて? 何じゃろう』

 お婆さんは立ち上がって首を伸ばし、眉の辺りに手をあてて、近づいて来る丸いものをよくよく見てみました。

『ありゃあ桃の実かい? あんなでっけぇ桃は見たことがないわ』

 着物の裾を端折ると、お婆さんは川へ入って行きました。

『爺っさまが喜ぶじゃろう』

 川底の石に気をつけながら、深みに落ち込む際まで進んで行きますと、桃は、丁度よくこちらへ寄って流れて来ました。

『いいぞ、いいぞ』

 ところが、川面の照り返しが目に入らないほどに桃が近づいたとき、お婆さんは覚えず「あっ」と言って腕を引っ込めました。

『こ、こりゃ人じゃ! 人の尻じゃ』


 帯の解けた薄手の着物だけを、かろうじて肩に引っ掛けて、うつ伏せで流れて来たのだと、お婆さんは言いました。

「よかった、よかった。あんときゃ、生きてんのか、死んでんのかと……頭ん中がこんなんなっちまってよ」

 そう言って、お婆さんは両手で頭を掻きむしるような仕草をしました。

 そう言えば、シャゲはどうなったのだろうと思いました。

「あの……もう一人、若い女の人は、いませんでしたか?」

 お婆さんは、ちょっと怪訝な顔で私を見下ろすと、「流れて来たのは、お前さんだけじゃったよ」と言いました。

「お前さん、名前は?」

「……シャゲ、と言います」

 私の口から、シャゲの声が名乗りました。

―何?―

 私は身体を起こそうとしましたが、激しい痛みで動く事が出来ませんでした。

「何も心配せんでええよ。やや児も元気にしとるで」

「やや児?」

 お婆さんは庭の方を指差して「お前さん、みごもっておったじゃろ? 怪我だらけのお前さんの腹から、赤ん坊が産まれて来たときゃ、さすがにたまげたわ。……ほれ。あすこにおるよ。たったひと月ほどで、まるで五歳も経ったように大きゅうなってしもうた」

 首をひねって指差す方を見ると、確かに4、5歳に見える男の子が、裸で土の上を走り回っていました。


 自分が赤ん坊を生んだと言われても、そんなことは到底あり得ないことでした。

 それでも、下の村人が“太郎”と名付けた少年は、見る見るうちに成長して、私を「おっ母ぁ」と呼ぶようになりました。

 それからまたひと月が過ぎ、太郎の背は私よりも高くなって、猪ほどもある大岩を軽々と持ち上げて、川の対岸に放り投げてしまう力自慢になりました。

 やがて胡桃の実が割れて落ちる頃、村の子供たちが歓喜して「太郎が、太郎が!」と叫びながら、やって来ました。

「太郎がどうしたぁ?」

 お婆さんが尋ねると、子供たちは口々に「鬼退治に行くって!」と言いました。

 すぐに村の入り口に行って見ると、都人と見える数十名の戦姿がありました。

「何があったのですか?」

 私は、太い胡桃の木のそばで遠巻きに見ている村人に聞いてみました。

「なんでも、上の村に鬼が湧いたそうじゃ。天子さまのご命令で退治に行くって。んで、途中の村々で力自慢を募っているらしい」

「そしたらシャゲさん、あんたとこの太郎がしゃしゃり出たんじゃ。ほれ、あすこに」

 もう一人の男衆がそう言って、入り口の広場の辺りを指差しました。

 見ると、太郎が仁王立ちでこちらに背を向けていて、身分のありそうな立派な着物姿の公達と向かい合っていました。

「あっ」

 その男の顔を見た途端、私の全身にむず痒いような悪寒が走りました。そして、身体が前と後ろに引き裂かれたような違和感があって、私はその場にしゃがみ込んでいました。

 しばらくして、すぐ近くで「おっ母ぁ‼」と叫ぶ太郎の声が聞こえた気がして、私は胡桃の幹を頼りに立ち上がりました。

 太郎は、向こう向きで私の足元に這いつくばって、地面の上の何かにすがって肩を震わせていました。

「太郎?」

 私が呼びかけても、太郎は気付かないようでした。

「太郎」

 もう一度呼んで、太郎の背に触れようと伸ばした手は空を切って、私は太郎に重なるように地面の上に膝をつきました。

「シャゲ⁈」

 私の下に、シャゲが横たわっていました。シャゲの顔は、雪のように真っ白でした。

「息をしとらん。なんで、こんな……あんなに元気じゃったのに」

 お婆さんが震える声で言いました。

 唐突に、シャゲは兜麻呂に乱暴され、谷川に飛び込んだとき、既に亡くなっていたのかも知れない、と思いました。

「ぜんぶ鬼のせいだっ‼」

 太郎は、足が地面に沈み込むほどに踏ん張って、涙も鼻水も、そのままだらだら流しながら、天に向かって叫びました。そうして、お爺さん、お婆さんの顔を真っすぐに見て、「本当にお世話になりました。太郎は、鬼退治に行って来ます」と言って、深々と頭を下げました。

「そうか、そうか。言い出したら聞かん子じゃし。……なら、ちょっと待て」

 お婆さんは家に向かうと、すぐに巻いた布を大事そうに抱えて戻って来ました。

「なんじゃ?」

 太郎が首を傾げると、お婆さんは「これはの、お前のおっ母さんが身につけとった着物じゃ。こうして帯に作り直して、元気になったら渡そうと思うとったんじゃが……」と言いました。

「おっ母ぁの……」

 そう呟いて、帯を受け取った太郎の太い指が、小さく震えていました。

「そうじゃ。その帯を絞めて行け。きっとお前を守ってくれる。……じゃがその前に、ちゃあんとおっ母さんを弔って行くのじゃぞ」

 お婆さんの言葉に、お爺さんも黙って頷いていました。


 これは夢なのでしょうか?

 水菓子屋のおじさんの話を聞いて、きっとその夢を見ているだけなんだろう、と私は思いました。

「太郎‼ あの人は、兜麻呂はダメ‼ ……あの人は……」

 夢の中では声は伝わらず、手は空を切って……私は、兜麻呂の元へ走って行く太郎を止めることは出来ませんでした。

 シャゲは、村の胡桃の木の下に埋められました。私は、太郎が墓印に置いた人の頭ほどの石に手を合わせ、彼女の冥福をお祈りしました。

 そうして、しばらく目を閉じて首を垂れていると、何やら周りが騒がしいことに気がつきました。

「何の用だ?」

 聞き覚えのある声……たぶんカラハツらしい声が聞こえました。

「鬼はどこじゃ⁉」

 被せるように、木霊が返るかと思うほどの声が轟きました。間違いなく、それは太郎の声でした。

 私は覚えず、顔を上げました。

 そこに胡桃の木は無く、黒く太い木の幹が見えました。

「桃の木……ここは上の、桃の村?」

 いつの間にか、私は上の村の桃の木の下に立っていました。

「ここには鬼なんぞおらん」

 カラハツが言いました。

 私は声が聞こえた方へ行ってみました。

 村の入り口からつながる、すり鉢状に凹んだ広場に大勢の人が集まっていました。

 そのちょうど中央に、カラハツと太郎が睨み合っているのが見えます。幸い誰も私に気づかないようだったので、思い切って二人のすぐ横まで歩いて行きました。

 カラハツの横には大柄なボエが立ち、その後ろには、多くの村人たちが手に手に木の棒や石の礫を握って集まっています。

 そして対峙する太郎の後ろには、兜麻呂を囲むように武人たちが並んでいます。武人の中には猟犬を引き連れた者もいました。

「あの、右の頬に大きなホクロのある男が、鬼の頭だ」

 そう言って、兜麻呂はカラハツを指差しました。

 太郎が、ずいっと一歩出て「お前、鬼だな⁉」と言うと、カラハツはちょっと首を傾げながら「お前は鬼というものを見たことがあるんか?」と問い返しました。

 太郎は間髪を入れず「ない!」と言いました。

「では何故、俺が鬼だとわかる⁉」

 カラハツはそう言って、笑いながら太郎を睨みつけました。

「兜麻呂が、そう言った!」

 太郎の言葉に、カラハツはかんらからからと大口を開けて笑いました。

「馬鹿め! ……お前はどこのもんじゃ⁉ なんで鬼を討つ?」

 太郎は拳を突き出して「おらぁ下の村の太郎じゃ。鬼は、おっ母ぁを川に流して殺した! 鬼は、おっ母ぁの仇じゃ‼」と言うと、奥歯をごりごりと噛み締めて犬のように唸りました。

「鬼が川に流しただとぉ?」

 カラハツは兜麻呂をちらと見てから、太郎に「おっ母ぁの名は?」と問いました。

 すると兜麻呂が前に出て「もう十分だ」と言い、右手の掌を顔の横に上げました。その手は、下ろせば「闘いを始めろ」という合図でした。

「シャゲ‼ おらのおっ母ぁの名は、シャゲじゃ‼」

 太郎はかまわず叫びました。

「何だと⁉」

 言ったカラハツは、ふと、太郎の絞めている帯に目が止まりました。

「まさか、その帯は……」

 太郎は帯をふた撫ですると「こりゃあ、おっ母ぁが着てた着物でこさえた帯じゃ‼」と言いました。

 カラハツと兜麻呂は、ほとんど同時に、でも全く違う目で太郎の顔を見つめました。

「長、あの童は……」

 ボエがカラハツの耳元で言いました。

「にわかには信じられんが、どうやらシャゲの子らしい」

 カラハツは、太郎に視線を向けたまま呟きました。

「馬鹿な! あの谷へ落ちて生きていたと言うのかっ。それにこの童が……まさか、そんなはずがない! 日が足りぬ。」

 兜麻呂は、うろたえたように一歩退きました。

「聞こえたぞ兜麻呂‼ おのれ! 俺の娘に何をした⁉」

 カラハツは、岩の塊のような拳を突き出して怒鳴りました。

 そのとき太郎は、地べたに胡座をかいて腕を組み、瞼を固く閉じました。兜麻呂は、その様子を見ると鼻で笑い「所詮、蛮人の子は蛮人よのう」と吐き捨てました。そして、カラハツを見据えると「あの娘には、我の子を授けてやった。だが不遜にも、それを不服として勝手に谷へ身を投げたのだ」

 堂々と言って、兜麻呂は呆れたように両手を広げました。

「そうか。なら、お前と闘う理由が出来たっちゅうことじゃな」

 カラハツの眉が炎のように逆立つと、それが合図であったかのように、村人たちから、膨れ上がるほどの圧力が放たれました。

 その圧力を真っ向から受けて、太郎は立ち上がると、傍らに立ちすくむ私の方へ顔を向けました。

 その目は、真っすぐに私を見ていました。

「見えるの?」と、私が言うと、太郎は優しい眼差しで「おっ母ぁに代わって、おらを生んでくれた人じゃ」と言いました。

「えっ、私が?」

「もうここに居ちゃ、いけねぇ!」

 言うが早いか、太郎は私を持ち上げて、村の外へ放り投げていました。


 鎮守の森が夕日に赤く染まり始めた頃、私は参道の石畳を下りていました。

 境内の案内板には、あの有名な桃太郎の話が書かれていました。でも私には、それは何か都合の悪い出来事を覆い隠すために作られた物語に思われました。

「お姉ちゃん」

 呼びかけられて振り向くと、街の辻でぶつかりそうになった少年が立っていました。

「これ」

 そう言って、少年は私に桃をひとつ手渡すと、跳ねるように参道を駆け上がって行きました。

 私は石畳の先を見上げて、本当に佳き人たちが虐げられることのない世の中を想っていました。



<終>

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