玻璃のように舞う

喜多川慧華@碧床

第一章

第一話 自称美人と舞茸

紗愛さら、ちゃんとお薬飲んだ?」


「うん。ありがとママ。行ってきます」


「気を付けるのよ」


 高校生にもなって、と思われるかもしれないが、私は毎朝お母さんにハグとキスをしてから家を出る。もちろんお父さんは、私が中学生になったタイミングでハグだけになってしまったけれど、今年中学生になる弟とは、今でも普通に挨拶がわりのハグとキスをする。うちの両親は留学経験もなければ海外旅行の経験もない、ともに九州の片田舎出身のごくごくありふれた日本人だが、このハグとキスという西洋式の愛情表現は、どうやら私が生まれた日から始まった、二人にとっての記念碑的習慣らしい。

 だから私も、物心つく前から愛に溢れたこの習慣が大好きで、それはいつしか毎朝食卓に並ぶ、四枚のきつね色の食パンのようになっていた。

 しかし斯様かようにして両親から厖大ぼうだいな量の愛情を注がれすくすくと育った結果、私は西洋人並の速度で縦に巨大化した。年々伸びているとされる小六女子の平均身長でもいまだ百五十センチ足らずだというのに、私の身長はその時点で百六十九センチあった。端的に言って異物混入である。ただあまりにデカかったため、小学校ではうらやましがられることのほうが多かったように記憶している。


 ところが地元の公立中学に入ってからは言わずもがな。チビのいがぐり坊主どもは、そんな私を「誰々先生もどき」だの「スカイツリー」だのと言ってからかったが、私も負けじと「子猿の群れがブツブツ言ってるわぁ」とか「お前らって上から見てると豆粒にしか見えないわぁ」とか、今思うとラッパーのディスみたいな発言を事あるごとに繰り返してしまい、その当時好きだった生徒会長の高田君にドン引きされてしまったのを、今でも鮮明におぼえている。

 そうして周囲が徐々に私のデカさと性格の悪さを認識していくなか、理由付けのためむ無くバスケ部に入部した私の身長も、その悪態のボキャブラリーに比例してぐんぐんと伸びていった。百七十一、百七十二、百七十三、百七十四…伸びれば伸びるほど同級生の女の顔は遠のいていき、男たちは「でっか」と言いながら、さも牛久うしくの大仏を見るときのような表情で私の顔を見上げた。


 そして中一の夏休みに入る少し前、水着を買いに行った際、生理が少し遅いかもしれないという話になり、私はお母さんに連れられ都内のクリニックで検査を受けることになった。ものの、そこでは幸か不幸かなんの異常も見当たらないと言われた。

 生理が来たら身長も止まるんだろ! 早く来いよ!

 クラスの女子の「エッチしたら止まる」という噂と、ネットの「生理が来れば止まるかも」という曖昧な情報。そのしょうもない虚実混淆きょじつこんこうに私はますますいら立ち、自分の腹にムチをいれるようにして毎日心の中でそうツッコミまくっていた。

 しかし私がこんなにも辛い思いを抱え、一人苦艱くかんの只中に立たされているというのに、クラスの男どもはあれでシコったとかこれで抜いたとか、いつまで経ってもオナニーの話しかしない。そんな楽しそうな男どもを見て私は「あぁ、この身体にペニスとたまたまがあったらどんなに楽だろう」と、その時ばかりは本気で男に生まれなかったことを後悔した。しかも私の初潮は本当に遅くて、初めて来たのが確か中二の六月とかだった。

 今思い返してみても、この中一から中二にかけての一年間は瀝青れきせいを煮しめたような暗黒期でしかなく、二次性徴の欠片もない未熟な肉体と、独りでに増えていく性知識との容赦ない相剋そうこくによって、私の性に対する執着と憂恚ゆうい日毎ひごと苛烈かれつさを増していった。


 そうしてコンプレックスと成長痛に苦しみながら迎えた中三の身体測定。

 結果は無念の百八十。入学当初百六十センチ代後半だった身長も、気づけばあっという間にお父さんの背丈を超えていた。

 休日のお出かけでも、この頃になるともう毎回外が恐かった。信号待ちで後ろから「モデル? デカくない?」みたいな声が聞こえてくるし、電車に乗ると理由わけもなく子供とおっさんにガン見される。好奇の眼差し。嘲笑あざわらう声。強張こわばる身体。ふるえる手。莫迦ばか話みたいに聞こえるかもしれないが、この頃の私は本当にパニック障害一歩手前だった。そんな私に残された選択肢といったら、目が合わないよう帽子を被るか、電車をやめて自転車移動にするか、いっそ家から出ないかの三択くらいのもの。まあ当然のごとく私は、恐ろしい他人より大好きな家族と過ごす時間を優先することにした。

 ――デカい…モテない…死にたい…

 でも結局思いつめすぎて家でも過呼吸になったから、私は「やばい死んじゃう」と思って、わらにもすがる思いでお母さんに悩みのすべてを打ち明けた。そしたらお母さんは「紗愛は私とお父さんの宝物だから。これから色んな人にたくさん愛されるようになるから大丈夫よ」と言って抱きしめてくれた。その言葉を聞いて、私は赤ちゃんが産声をあげるみたいに大泣きした。十四年ぶりの慟哭どうこくの果てに、たまらずそのでっかい身体で、お母さんの華奢きゃしゃな身体を包み込んでしまった。

 お母さんが大切に育ててくれたから今の私がある。そう考え直すと、私はもう嬉しくて、やっぱり生きたくて。まるで水道管が破裂したみたいにありがとうのなみだが止まらなかった。

 それからというもの、私はお母さんの応援でがっつり開き直り、受験を口実に二年いっぱいで部活をやめ、休日は骨に刺戟を与えないようなるべく家でゴロゴロして過ごすようにした。なのに…それなのに二センチ伸びるってどういうことじゃボケェ!


 とまあ長々黒歴史を語ってしまったが、要するに私姫嶋紗愛ひめしまさらは、家族と家が大好きな一方、他人と外が死ぬほど大嫌いな、超絶身長コンプ拗らせ系不良とでもいうべき、その辺の犬も食わないであろう性悪しょうわる権化ごんげのような女子高生なのである。

 ※ちなみに顔はママに似て結構美人(だと思う)


こほ、こほ…へっしょーん!


 しかし花粉症を含むアレルギー持ちの私にとって春は最悪の季節だ。目は痒いし顔はカサつくし、何より薬を飲んだというのに、家から数歩歩いただけでもう咳とくしゃみが止まらない。

 秒でマスクが死んだ。あー帰りたい帰りたい帰りたい。帰ってママと一緒におしゃべりしたい。別に部活もやらないし友達もいらないし、正直全部オンラインでいいだろ。ほんとかなうことなら、この時期を新学期と定めたジジイだかババアだかの口に、私の洟水はなみずをたんまり流し込んでやりたい気分だ。


《まもなく、一番線に、快速…》


 でも満員電車に押し込まれるころになると薬が効いてきて、それまで血気盛んだった鼻汁たちもそそくさと私の鼻腔をあとにする。そうなればしめたもので、あとは棒立ちになったまま、イヤホンから流れてくる『くるみ割り人形』*¹の旋律に揺られながら、しばしの間現実を忘れて目を閉じるだけ。

 耳慣れた曲。私がどんな苦境にあろうとも、イヤホンから放たれるこのピアノの澄んだ音色だけは、いつも私のすさみきった心に優しく寄り添ってくれる。

 だから外にいる時間の中では、スーツ姿のおっさんとの押しくら饅頭まんじゅうに興じつつ、アルゲリッチ*²の華麗な演奏に耳を傾けているこの時間こそが、おそらく家族旅行の時間を除いて私の一番幸せな時間なのだ。


「おはようございまーす」


「おぉ高橋、おはよう」


「…おはよーございまーす」


「おぉ姫嶋、相変わらずデカいなぁお前。入部受付、まだやってるぞ」


 あぁデカいよ。女にあるまじきデカさだよ。だから誘うなよ。これ以上デカくなったら困るから、運動系の部活の勧誘は全部断ったんだから。

 そう心の中で愚痴をこぼしつつ、百八十二センチの私は牛の歩みで一年二組の教室へとかう。

 ――あぁ、今日もまたお嬢様キャラの一ノ瀬舞彩いちのせまいとかいう女に一日中付きまとわれるんだろうなー。という、あからさまに面倒臭そうな表情を準備して。


「あ! 姫ちゃんおはよー」


「おい…その呼び方やめろっつったろ」


「いいでしょ。姫ちゃんで」


「赤の他人から一番嫌いな呼び方で呼ばれて、それで良い気分になんのかお前は?」


「だってー、姫ちゃん姫嶋さんて呼んでもずっと私のこと無視するじゃない」


「当然だろ。他人同士なんだから」


 私がそう言うと、こいつは毎回ほんの一瞬だけたじろぐ素振そぶりを見せる。


「…姫ちゃんて、全然姫ちゃんじゃないよね。口悪いし怖いし大きいし」


 だが騙されてはいけない。それはこいつがバットを思い切りスイングする前の瞬間的な"引きの動作"でしかないのだ。


「うっせぇ。そう思うなら、もう二度と近付いてくんなよ」


「うん、やだ」


 イラつくなぁその笑顔。うちのお母さんの陽だまりみたいな笑顔と違って、お前の笑顔からは「ひとまず私のスマイルの前にひれ伏しとけや」っつう厭味いやみったらしさしか感じねぇぞ。


「――あ。じゃあお前のあだ名、舞茸まいたけな」


 そうだ。なにかと思えばキノコなんだよこいつは。わざわざ湿っぽい日陰にやって来て、そこでやたらめったら笑顔の胞子を撒き散らして。そのくせこんなに胸がデカくなるまでそだちきっても、金持ちの良家りょうけという生温い原木げんぼくからは一生拔け出せない。

 そう考えると、こいつは私に似て少し憐れなキノコなんだ。


「え!? 姫ちゃん舞茸って、私のためにあだ名まで考えてくれてたの? いいね舞茸、ありがとう♪」


「う…めんどくさっ」


 そんな調子で、私は入学式の翌日から半月以上も舞茸にひっつかれ、そろそろ耳から菌糸きんしが飛び出してきそうなくらい、こいつの猫かぶり声が兩の鼓膜にがっしりと根付きはじめていた。

 しっかし毎朝私の前に来られたところで、ぶっちゃけさっさとカースト上位のグループに行ってくんねぇかなー。としか思わない。何せここは都内でもそこそこの進学校なわけだし、判定模試で偏差値六十ちょいのクソ雑魚ざこの私なんかが舞茸とじゃれ合っている余裕はないのだ。私が見倣うべきは、脇目も振らず机に向かっているクラスのみんなであって、決して舞茸ではない。――というか、こいつも人にちょっかい出してる時点でどうせ頭良いだろうし。


「私も、姫ちゃんのこと、紗愛って呼んでいい?」


「絶っっ対やだ! 気安く呼ぶな」


「もー、姫ちゃんは照れ屋さんだね」


「いいから早く席戻れよ舞茸。チャイム鳴るぞ」


「はぁい」


 でも、こいつの声のどこかに、うちの中一の弟と重なるところがあって。そこを意識してしまうと、良くも悪くも私は舞茸を力ずくで遠ざけることが出来ない。思うに、私の身体にはもうこいつの胞子がいくらか定着してしまったのかもしれない。





*¹チャイコフスキー:『くるみ割り人形』組曲 Op.71a 第一曲 小序曲(Ouverture miniature)。

*²マルタ・アルゲリッチ(Maria Martha Argerich): アルゼンチン出身の世界的ピアニスト。

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