第2話 「ラッピー!!!」


 2


「ラッピー!!!」


 俺は布団からガバッと起き上がるとクンクンと鼻を鳴らすラッピーを抱き寄せた。

 抱き心地は変わらない。


 10年前と一緒だ。


 筋肉質の短い手足が俺の胸の中で丸くなって、ドシンと重いお尻が俺の膝の上にある。

 茶色と白が混じった頭の天辺は香ばしい匂いがした。


 あの頃と同じだ。


 俺に抱き寄せられるとラッピーは真っ黒な大きな鼻をクンクンクンと鳴らして、顔を上げて俺の頬の臭いを嗅いだ。

つめてっ」

 ラッピーの鼻は鼻水でビショビショに濡れていた。


 あの頃と同じ、何度も言おう、

 あの頃と同じだ!


 俺はやっと確信した。

 ラッピーの鼻水が俺の頬っぺたを濡らした時に。何が起こっているか分からないが、あのラッピーが確かに帰ってきたんだと。

 夢なんかじゃない、確かにラッピーは実体を持って帰ってきたんだ。


「ハハッ! ラッピー! ラッピー!」


 俺は

 幸せってこういう事だったのか!

 嬉しいってこういう事だったのか!

 喜びってこういう事だったのか!

 ……と三十歳にしてやっと分かった気がした。


 だって、もう一生会えたいと思っていた愛しのラッピーにまた会えたんだから。

 こんなに嬉しい事は無い。


 そんな気持ちのままに、俺はラッピーの頭をくちゃくちゃに揉みしだいた。

 するとコイツは、ピンク色の舌を口から飛び出させて俺の顔をペロペロと舐めてきやがった。


 いつものヤツだ! いつものヤツ!!


 俺が落ち込んだ時、慰めるようにしてくれた。

 俺が楽しい気分の時、一緒に喜ぶようにやってくれた。

 あの『ペロペロ』だ。


 口からはオナラみたいなちょっと"肉っぽい"匂いがして、更に吐く息は生温かく、

 擬音で表すなら「モワッ」とした感じ、

 更に更に舌はヌメヌメとしたヨダレがいっぱいで、もしコイツが禿げたおっさんなら突き飛ばして蹴りでも入れてやりたい程の不快感だ。


 でもさ、意外と嫌じゃないんだ。


 ラッピーにやられる『ペロペロ』は。


 ヨダレでビチョビチョになった筈の顔も、乾けばツルッツルしてて、油取り紙もフェイスシートもラッピーがいれば必要ない。


 俺は久々の『ペロペロ』にテンションが上がってラッピーの名前を何度も何度も呼んだ。

 するとラッピーは俺が呼ぶ度にそれに呼応するように舌を動かす速度を速めた。


 あぁ~このまま死んでも良い……


 って思ったとき、俺は思い出した。


「なぁ、でもお前……死んだよな?」

 俺が問い掛けるとラッピーは俺の言葉を理解したのか『ペロペロ』を止めて俺の顔を見た。


 そうなんだ。

 確かにラッピーは死んだ。

 十五才の誕生日を迎える直前に。


 死因は聞いてない。

 アメリカで育った母が病院で病名を聞いた筈だったが、難しい漢字が並ぶと母は混乱する。

 だから、ちゃんと聞けなかった。

 いや、あの頃の俺はちゃんと聞こうとしなかった。


 ショックだった。


 いつも元気なラッピーが弱っている姿が。


 俺が小一になってすぐにラッピーは俺の家にやってきた。

 それからずっとラッピーは俺と一緒だった。

 母が働きにいって寂しい時も、

 友達と喧嘩してボコボコで泣いてる時も、

 ラッピーはいつも俺に寄り添ってくれた。

 母子家庭で育った俺にとってラッピーはいつも寂しさを埋めてくれる存在だった。


 俺が弱虫な子供じゃなくなってもそれは変わらなかった。

 年は取っても、顔は白くなっても、子供の時のラッピーと変わらず、ずっとずっとラッピーは元気だった。

 大きな声で吠えて、

「散歩だ!」って言うと嬉しそうに走り回って、

 大好きなビーフジャーキーを欲しがるお手は、侍の抜刀かッ……ってくらいに早くて……


 これからもずっとそんな日々が続けと、願っていた。

 まだまだずっと一緒にいたいと……


 だけど、別れは余りにも突然訪れた。


 体調を崩し始めたのは十年前の年明け。


 三ヶ日が過ぎてすぐだった。

 正月の間はめでたい時期なんだと犬のラッピーにも分かるのか、ラッピーはいつもよりも食欲が旺盛だった。

 だから俺はいつもより少し贅沢なドックフードを与えた。

 しかし、それが一月の四日を過ぎると途端に食べなくなった。

「食べなくなった」と言うと、"一切"と思うかもしれないが、そうじゃなく"食べる量が減った"という意味だ。


 いつもは器に盛ったドックフードを貪るように食べていたラッピーが半分も残した。


 母はそんなラッピーを見て

「正月に贅沢したから!」

 と叱った。

 舌が肥えてしまったんだと思ったみたいだ。


 だけどその他の異変がすぐに表れた。


 炬燵から出てきたラッピーが、ツルッと転んだんだ。

 一緒に炬燵に入っていた俺は「のぼせたのかな?」と思った。

 でも、そのすぐ後にまた

「バタン……バタン……」

 と二回転んだ。


 その姿を見て、やっと俺たちは

「これはおかしい」と思った。

 すぐ母がラッピーを病院へと連れていった。


 俺は、『病院から帰ってくればまた元気になる……』そう思っていた。


 だって、いつもそうだったから。

 今回もそうなんだと思い込んでいた。


 だけど、そうじゃなかった。


 病院から帰ってきたラッピーは、目玉をグルグルと回し、立てなくなっていた。

 食べ物を注射器に入れて、無理矢理口の中に入れても、吐いてしまう。

 日に日に、ラッピーは衰弱していった。

 日に日に……それは本当に、日に日に……

 良くなる事はなかった。


 どのタイミングだろう。

 俺は覚悟した。

 ラッピーとの別れを。


 弱り切って動くことも鳴くこともしなくなったラッピーを、抱っこして外に連れていった時もあった。


「外の空気を吸わせたら喜ぶかな……」って思って……散歩が大好きで、開いた窓から外の匂いを嗅ぐのが大好きだったラッピーだから。


 でも、この時の俺はラッピーとの別れを分かっていた……そう記憶している。


 倒れた日から一週間も経ってなかったかもしれない。


 外に連れていっても、ラッピーは何も反応しなかった。

 匂いを嗅ぐ事も、鼻を鳴らす事も……


 それから、約一週間後……

 ラッピーは天に上っていった。


 それからの日々は、ラッピーがいないという事実が嘘にしか思えなくて、どこか非現実的に思えた。


 十年経った現在も、仕事で疲れてボーッとしている日なんか、俺の部屋で布団にくるまっているラッピーを想像して

「早く会いたい」

 と呟いてしまう日もある。


 あの頃、毎日考えていた事だ。


 覚悟はしたのに、受け入れていない


 それが今までの俺だった。


 でも……受け入れなくて良かったんだ!

 だって、ラッピーは帰ってきたんだから!


 でも、何でだろ?


「まぁいっか!」


 俺はもう一度ラッピーをギュッと抱き締めた。

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