十月二十七日
「邪魔しますよ」
「伯母上!かような所へ珍しい。構いません、さぁ、お掛け下さい」
この日、内裏正殿へ太上天皇がふらりと訪れていた。訪れるとは言っても、普段から同じ内裏という区画に住まう伯母と甥。普段から顔くらい合わせていそうである。しかし内裏に仕える宮人ならばよく知っている事だが、この二人の間には見えない高い壁がそびえ立っており、太上天皇が大君の所へ訪れるなど殆ど無いのだ。それが、来た。来たということは即ち、
「良いのです。まずは、不比等の娘が皇子を生んだと聞きました。お祝い申し上げます、大君」
そういうことである。大君は満面の笑みを浮かべて何度も頷き、恭しく言葉を返す。
「ありがとうございます。これも様々な人の支えあっての事。特に伯母上のお力無くして
大君は太上天皇に頭を下げ一礼をすると、次の瞬間にはまるで宝物を自慢するかのような得意げな表情に変わった。
「伯母上、言ったでしょう?安宿媛ならば、必ずやってくれると」
「そうですね」
普段の朝務では決して見ることが出来ない、溢れる幸せを周りに放ち続けているような甥の顔を見て伯母は目を伏せた。須臾逡巡した後何処か悲しげにため息を吐いて目を見開くと、口許を強ばらせて甥に告げた。
「大君は、これで全て終わったとお思いか」
「……終わり、とは?」
「大君の夫人は一人ではありません」
息が詰まった。口に運びかけていた杯は空中でピタリと止まり、背中に冷たいものが伝うのが分かる。
――これだから伯母は苦手なんだ。要らない所で考えたくない事を言ってくる。
「所詮は皇子が一人出来ただけの事。それで終いとお思いか?」
「終い。では、いけませんか」
「答えるまでも無いでしょう」
――知っていた。知っていたさ、逃れられぬ事くらい。
その手に収まる小さな瑠璃の杯は"もう割れてしまう"と微かに甲高い音を鳴らして泣いている。
「父祖のようになされ、首」
父祖のように。耳元で呟かれた伯母の最後の言葉が頭の中に何度も反響する。その音は今の大君にはどこまでも輝かしく、そして手の届く所にあるように感じられていた。いや、そう思うしか無かった。今ある幸せの在処を隠すには。
「大君、血が」
「良い。気にするな」
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