《神亀四年》

九月二十九日

 今日ほど素晴らしい日がこれまであっただろうか。

 目の前の小さな手に恐る恐る手を伸ばし、瑠璃や水晶に触れるよりも優しく撫でてみる。まっさらで汚れを知らぬ命。真っ赤に燃える焔のように熱い命。そう、この生命こそ、今我らを照らす太陽の輝きであると、そう思わずにはいられない。

「あたたかいな。あたたかい。本当に」

 どれだけ撫でていても、どれだけ見つめていても、足りないほどに愛おしい。ずっとそんな風にしていたら遂に宮人に取り上げられてしまった。僕の、皇子。

「陛下が大層お喜びなのはわかります。けれど、皇子様ももうお疲れになっておりますわ、きっと」

 言っている意味は分かる。さっきまで大きな声で泣いていた。産屋から離れた僕の所まで真っ直ぐ伝わる声で。幼子なのに素晴らしい力だ。きっと良い子に育つ。だからもう少しだけでも一緒に居させてほしい。あぁ、駄目だな。僕は今誰よりも我儘だ。

 女官たちの腕の中で穏やかに眠る我が子を見て、ここにいる全ての者が幸せに包まれていることが感じ取れる。別の部屋で寝かせるのだろう。陽だまりの香を残して離れていくのがどうにも寂しい。けれどそう思うのは僕だけでは無い。そう、君も。

「ありがとう、安宿媛。本当に……」

「良かった…。……本当に、皇子?」

「あぁ。皇子だ。男の子だよ。君と、僕の」

 両の手で握っている彼女の左手が震えている。そうだ、分かるよ。君の思う事は全て。溢れる声を噛み締めて泣く妻の頬を伝う涙をそっと拭い、いつの間にか自分の視界も涙に溢れていることに気がついた。


 今日この日を迎えるまでに、多くの苦難があった。僕がまだ皇太子だった頃に出来た娘、阿倍が生まれてから十年。本当に長かった。

 何年か前に一度、媛が身籠ったのではないかと皆湧き立った時があった。されど終ぞ子の顔を見ることは無く、媛は体調を崩しその命さえ危うくなった。その間に別の夫人の腹から娘が生まれ、妻は余計に思い詰めて塞ぎ込んだ。あの時はもうどうすれば良いのか分からなかった。媛の為に何も出来ない己をひたすら憎み、どうすれば自分の思いが伝わるか悩んだ。されどしばらくして再び見えた君は笑顔だった。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。さぁ!私、もう一度、頑張りますわ!貴方のために」

 あの時の有無を言わさぬ表情が忘れられない。君は何があっても独りで立てるのか。あんな目に遭っておきながら。


「何を塞ぎ込んで居るのです」

 今でも思い出す。僕がよく知る人達の、全く知らない声色、ことば。

「貴方は貴方にとって大切な者達の運命を、そして大君の未来を左右する者。こんな所で寝ている暇など有りませんよ」

「まぁまぁ、義母上。後の為にも今は休むべきでは」

「いいえ。私はこの娘の母です。私が今、言わねばならぬ事を言っているにすぎません。……貴方はこのままでは無き者にされる。立ちなさい。立てるはずです。………あの子に忘れられて良いのですか。あの子を支える一番になりたいと思っていたのでは無いのですか」

 聞いてはならぬものを聞いてしまったとどれだけ思ったことか。どれだけ、この日に見舞いに行くべきでは無かったと思ったことか。

「良かった、良かった」

「あぁ、本当に」

 今も風に乗って聞こえて来るこの言葉にその時のことが思い出されてならない。でも、今はあれを聞いておいて良かったとも思える。それに今日で全て終わり。もうあの息苦しさを味わうことは無い。

 我が妻は本当に偉大だ。

 無意味なことなど何一つ無かった。やっと報われた。

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