第20話

 そして瑠華は、自由になった右手をチョーカーにかけた。

 強い風が彼女の髪をなびかせている。そのせいで、首筋にある印がここからでもよく見える。

 かすかな破断音とともに、それは真っ二つに割れた。

「地に、おくり還す」

 少年はなにかを感じたようだ。揺れているのは、大地か、それとも大気か。

 その鳴動は、96式自動擲弾銃の射撃音を霞ませてしまうほどだった。

 瑠華はこうべを垂れる。しかしそれは、俺たちが知っている神流瑠華という実像の、ひとつの所作に過ぎない。また別の存在にとっては、異なる意味をもつ動作なのだ。


 彼女の髪が逆立つ。まるで叫びのように。

 露わになったうなじに、赤黒い横一線がはしる。

 それが異音を立て、上下に裂けてゆく。

 内側の色は緋。躍り出るものは、舌。

 満ち満ちた肉をふるわせ、その緋色がうねる。

 裂け目が捲れ、膨らんでゆく。それは唇。

 両端が持ち上がり、笑う。

 上下に現れた卯花色。それは歯。

 歯列に沿って、舌が移動する。

 粘液が垂れる。


「え? こ……これって」

「これが瑠華だよ。君が知らないほうの」

 彼女は両手を地面についた。いや、それは瑠華としての表現だ。もうひとつの存在から見れば、前足を地につけたに過ぎない。髪より長い舌をだらりと垂らし、一歩、また一歩と媒介者へ近づいてゆく。舌先から滴る粘液が、まるでナメクジの通った後のように彼女の股下に残る。

「関東北部に伝わる伝説がある。聞いたことないか」

「なにを?」

「民話さ。麗しい黒髪をもった美人の嫁さんの話」

「知らない」

「その民話は、比較的平和な話だ。伝わっているものはな。しかし、本当の姿は、いま目の前にいる彼女だ」

 ヒロトの視線は、ずっと瑠華に釘付けになっている。

「彼女の家系は、貞観よりさらに昔、地中より湧き出てきたものから始まっている。どこかで人間と混ざったらしい。それ以来、人間の側についている。彼女は生まれながらにして役目を負っているんだ。地中から、人間に厄災をもたらす存在が上がってきたときは、それを地中に還す。そういう役目を」

 唇も舌も歯も、巨大化している。本体である瑠華の身体とはバランスがとれない大きさだ。ゆっくりと媒介者との距離を詰めてゆく。

「彼女の母親も、こうやって人間を守ってきた。彼女の先祖は、ふたくちおんなだ」

 巨大な口が吼えた。雷鳴のようなその低音はSDIRに銃撃をやめさせるには十分だった。銃の反動よりも激しく痺れた彼らは、動けなくなった。

 媒介者はまだ残っている触手を振り回し、ふたくちおんなに向かって叩きつける。しかし卯花色の歯がそれを受け止めた。まるで落雁でも砕くかのように容易く噛み潰し、触手はあっけなく消滅した。


 ふたくちおんなは再び、吼えた。

 それは山腹で反響し合い、増幅しながら天を震わせる。

 そのこだまが消えるよりはやく、彼女は媒介者に躍りかかった。

 噛み砕かれてゆく姉の姿を、月明かりが少年に晒し続けている。


 東の空が、わずかに群青を纏っていた。

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