帰り道RTA

秋都 鮭丸

1

 先に帰った方が夕飯を用意し、後に帰った方が洗い物を行う。これは、妻との間で取り交わした我が家のルールである。


 ここ数週間、私は仕事で一つの山場を迎えていた。突然の仕様変更、変わらぬ納期、増えぬ人員、回らぬ職場。12月も半ばといった寒空の下、私は連日の残業を余儀なくされた。遅くに帰ると、妻が温かな夕飯とともに待っていてくれる。妻のおかげで、私の心まで荒むことはなかった。ところがどっこい手が荒れた。冬の洗い物は恐ろしい。

 そんなこんなで、仕事はようやく山場を越えた。今宵は私の特製鍋が、妻の五臓六腑を隅々まで温めることだろう。定時まであと30分。私はにやりと口角を上げた。


「すみません先輩、今ちょっといいですか?」

 横から声をかけてきたのは、入社2年目の若手社員。その囁くような声色から、実に嫌な予感がする。確実に、30分以上かかる予感がする。ぶっちゃけ他の誰かにぶん投げたい。今暇そうな奴が他にいないか……? ……いないな。ちょうど山場を越えた私が、この場で一番暇そうだ。それを見極めて声をかけた、やはり彼は優秀だ。

その間わずか0.7秒。私の逡巡はおくびにも出さず、手を止め彼に体を向ける。

「大丈夫ですよ、どうしました?」


 結果から言うと、若手社員のトラブルは解決した。時計を見ると17時14分。我が社の定時は17時。やっぱりしっかりオーバーした。

 今日中に終わらせることを片付け、帰り支度を急ぐ。職場から駅のホームまで、私の足では7分。少し走れば5分に短縮できるか……? 脳内に時刻表が展開される。5分でたどり着ければ、一本早い電車に乗れる。私は鞄をひっつかみ、「お先に失礼」と駆け出した。

 外の空気は乾燥し、ひやりと冷たく肌を刺す。道を走れば走るほど、冷気が顔面に打ち付けられる。反対に、身体の奥では運動による熱が生まれる。厚着したコートの中で逃げ場を失い、汗をかきそうなほど熱くなる。芯は暑く、顔は冷たい。しかし構っていられない。私は駅まで駆け抜けた。


 息も絶え絶えの私は、想定通り、5分でホームにたどり着いた。間もなく電車がくるはずだ。私は上がった息を整え、乗車待ち数人の後ろに並ぶ。熱気を解放するようにコートの前を開け、軽く手で扇ぐ。

 定刻通りに電車が現れる。鉄道会社のたゆまぬ努力に感謝しながら、鞄を前に抱く。帰宅ラッシュのすし詰め列車に身体を押し込み、あとは数分揺られるのみ。人と暖房の熱気がこもる。私の後ろの白髪の紳士。汗臭かったらごめんなさい。


 これまた定刻通り、電車は私の最寄り駅に到着した。ここから自宅までは、徒歩13分といったところか。それも走れば短縮できる。軽快な音とともに改札を抜けると、私は再び、寒空の下に降り立った。いざ、妻に鍋を食べさせるために。そして私の手のために。冷気を顔面に受けながら、私は自宅へと駆け出した。


 普段通うスーパーマーケットの前を通りかかる。瞬時に自宅の備蓄を頭に浮かべる。にんじん、大根、白菜、ネギ。それに冷凍の肉団子、豆腐と白米、しらたきもあったか。エノキは切らしていたがシイタケがあったはずだ。買い足しの必要はないだろう。私は速度を緩めず駆け抜けようとした。

 その時。

 店舗出入口から出てきた一人の老婆。彼女は自らの買い物袋を取り落とし、その中身を道に散乱させた。ミカンのネット、牛乳2本。大根、豆腐、ネギ、卵。袋包みの菓子数点。慌てる老婆に冬の空。私はやむなく停止した。

 大方の商品は無事だったが、卵だけはそうはいかなかった。10個入りパックの端の3つが割れ、さらに1つにヒビが入ってしまっている。

「半分以上も無事なら儲けもんよ」

 老婆はあっけらかんと言い放った。実に頼もしい老婆である。「急いでいたでしょうに、ありがとうね」と、私に菓子を3袋も持たせた。


 いただいてしまった菓子を鞄に詰め、私は再び駆け出した。自宅まではもう間もなく。いくつかのトラブルを乗り越えて、今日こそ私は、妻より先に帰るのだ。特製鍋をこしらえて、妻にたっぷり食べさせてやろう。洗い物を妻に託し、悠々とハンドクリームを塗ってやる。老婆にいただいた菓子を広げ、食後に二人で食べるのだ。

 そんな私の些細な夢を、叶える自宅が目に入る。

 4階建ての賃貸アパート。その3階まで駆け上がる。ここまでくれば安心だ。息を整え、鞄から鍵を探そうとしたその時、自宅前の廊下に人影が見えた。

「あれ、おかえり。今日は早かったね」

 妻である。

 私と同じく、鞄の中をまさぐっていた。鍵を出そうとしているのだろう。


 敗北した……?

 間に合わなかったのか。妻は、私より自宅に近いところにいる。先に帰ったのは妻の方だ。


 先に帰ったのは……。


 いや、待て。妻はまだ扉の前にいる。アパートの廊下に、自宅の外にいるのだ。まだ「帰って」はいないのではないか? 玄関に足を踏み入れたときに初めて、「帰った」と言えるのではないか? 帰宅の厳密な定義を、今一度問う必要があるのでは?

 無駄に駆け巡る私の思考をよそに、妻は言った。

「この場合は同時帰宅、かな? 同時の時どうするかなんて、決めてなかったねぇ」


 自宅前で鉢合わせた場合は、同時帰宅とみなす。なるほど、そういう解釈もありか。その場合、夕飯はどうしたものか……。


「そうだな、そしたら……出前でもとるか?」

「おぉいいね、それに決定」


 同時帰宅なら出前。我が家に新たなルールが生まれた。


「あ、そうだこれ」

 妻はごそごそと何かを取り出した。出てきたものはゴム手袋。これを買って帰ってきたようだった。

「最近洗い物ばっかで、手荒れてたでしょ?」

 適わないな。私のことなどお見通しだ。


 私達は自宅の扉を開けた。二人で共に暮らす夢が、叶い続けるこの部屋に。

「ただいま」

 声を揃えて、呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

帰り道RTA 秋都 鮭丸 @sakemaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ