第17話「お兄様への侮辱」

 お兄様の紅茶を楽しんだ後、私はダイニングルームを後にした。


「あれ?」


 すると、扉の前に何か落ちている事に気が付く。


「……ハンカチ?」


 それはハンカチだった。誰かの落とし物だろう。


「もしかして、さっきの」


 先程、扉が閉められた音がしたのを思い出す。もしかして、扉を閉めた人が落としていったのだろうか。


 まじまじとハンカチを見ていると、布地に縫われた刺繍に気が付く。


「……S……A……R……A……サラ? あ____」


 アルファベットで”SARA”の刺繡。であれば、このハンカチの持ち主は紗良様だと思われる。


「後で渡さないと」


 そう私は呟く。


 丁度、この後に夕食があるので、その時に渡せば良いか。


 そう思っていたのだが____


「あれ、紗良様は?」


 夕食の席に紗良様はいなかった。どうやら体調不良で自室に籠っているらしい。


 さっきは元気そうだったのに。大丈夫かなあ。


 心配しつつ、私は夕食を頂く。


 ちなみに、お兄様も夕食の席にはいなかった。理由は分からないけど、お兄様もまた自室に籠っているらしい。


 そんなこんなで、一夜が明ける。


「あ!」


 翌朝、私は偶然にも廊下で佇む紗良様を発見した。念のために件のハンカチを携帯していたので、手渡しするために駆け寄る。


「紗良様! おはようご____」


「……」


「……ざいます」


 思わず朝の挨拶の言葉を一度中断させてしまう。と言うのも、紗良様の目が真っ赤だったからだ。


「……あのー」


 紗良様は無言でこちらを見つめている。少しだけ、怖かった。


「あの……お身体は大丈夫ですか?」


「ええ、そこそこですわ」


「……はい」


 ようやく口を開いてくれた紗良様。だけど、何だろう……目付きも、口調も怖い。


 昨日の優しい彼女とのギャップもあって、私は身体の震えを感じた。


 まだ、体調が悪いのかなあ。私の相手がしんどいのかも。


「あの、このハンカチなんですけど」


 だから、落とし物を届けて、私は早々に立ち去る事に決める。


「これ、紗良様のものですよね。刺繡が”SARA”ってあるので」


「……」


「紗良様?」


「ええ、私のものですわ」


 そう言って、紗良様は私からハンカチを受け取る。手渡す際、私の手は震えていた。


 私はそれを誤魔化すように笑い____


「ダイニングルームの前に落ちてましたよ」


「!」


「ダイニングルームにご用でしたよね? ごめんなさい。私達が使っていたから、中に入り辛かったでしょうか?」


 それは何気ない会話のつもりだった。場を和ませるため、ちょっとした小話。


 だけど____


「気が付いていましたのね?」


「え?」


「私があの場にいた事に、気が付いていましたのね!」


 紗良様は物凄い剣幕で私を怒鳴り散らかす。


 私は目を白黒とさせ、後退りをした。


「え、えーと……紗良様? どうかされましたか? 私、何か変な事口にしましたか?」


「お答えなさい! 私の存在に気が付いていながら、楽しいお茶会に興じていらしたのですか!?」


「ひぇっ! ま、待って下さい!」


 何やら、誤解があるようだ。今直ぐに解かなければ!


「ご、誤解があるようです! 私は、あの場に紗良様がいた事に気が付いてはいませんでした! 扉が閉まる音を耳にしたのと、部屋の前にハンカチが落ちていたのを発見したのとで、紗良様がもしかしてあの場にいたんじゃないかと、そう思っただけです」


「……」


「……紗良様?」


 紗良様は無言で私を睨んでいた。


 誤解は解いたはずなのに、その視線は憎しみを増しているように思える。


「随分と、お兄様と仲がよろしいのですね」


「え……は、はい……それはもう……」


「米澤さん、貴方____あの男とあまり親密にならない方がよろしくてよ」


 それはあまりにも冷たい口調だった。


「貴方、相当に優秀な獣人でしょう。獣人の勘で、ビンビンと伝わってきますわ」


 紗良様は指摘する。そう言えば、お兄様も私の力を高く評価していた。もしかして、私は本当に凄い獣人なのかも知れない。


「だから、あんな男と一緒にいるのはお止めなさい。貴方まで腐ってしまいますわよ。折角の才能が勿体ないですわ」


「……あんな男って……腐ってしまうって……」


 私は紗良様の言葉に唖然となる。


 明らかにお兄様を侮辱する発言。


 それは……例え、紗良様でも黙っておけない。


 許せない。


「もしかして……お兄様の事を悪く言っているんですか?」


 私は紗良様を睨む。


「取り消してください、今の発言! お兄様に対する悪口は許しませんよ!」


「悪口ではございませんわ。彼が武嵐家の落ちこぼれである事はただの事実ですもの。”獣師”の能力を持たない出来損ない。それだけでなく、自らの無能に性根まで腐り切っているようですわ。”獣師”としても人間としても腐り切った男です。世界最低の男ですわ」


「止めてッ!」


 私は思わず紗良様に掴みかかってしまう。


「お兄様の事、悪く言わないで! 私のお兄様は、世界最高のお兄様です! 優しくてカッコよくて頑張り屋で……不器用な所もあるけど……そんなお兄様が最低な訳がありません! 腐り切っている訳がありません! 私のお兄様は、貴方になんて言われようと、私の最高のお兄様です!」


 咆哮の様に叫んで伝えると、紗良様は目を丸くして、それからやや不快そうに細めた。


「さっきから、気になっていたのですけど……”お兄様”だとか”私のお兄様”だとか……もしや、あの男の事を……普段からそのように呼んでいらっしゃるのですか、貴方は?」


 威圧するような視線が刺さって来る。だが、私は負けじと紗良様を見つめ、はっきりと答える。


「はい。お兄様と呼ばせて貰っています。そして、お兄様を本物の兄の様に慕っています」


「……!」


 私が毅然と告げると、紗良様は顔を青くして、口元を両手で押さえた。


 そして、少しだけフラフラとし始めたので、私は不安になってその身体を支えようとしたのだが____


「気持ち悪いですわ」


「え?」


「すみません。思わず吐き気が」


 そう言って、私の手を払い除ける紗良様。口元を押さえながら、私に告げる。


「米澤さん、貴方気持ち悪いですわよ」


「……気持ち悪いって?」


「だって、実の兄でもない男の事をお兄様などと……グロテスク過ぎますわ。それも、よりにもよって、あんな男の事を」


「……な……!」


 紗良様のまるで汚物でも見るかのような視線に、身体中の血液が沸騰していくような感覚を味わう。


「でも、本当に気持ちが悪いのはあの男ですわね。妹でもない女の子に自らを”お兄様”などと呼ばせるなんて。可哀想に、米澤さん。貴方がそうなってしまったのも、あの男の腐敗した性根が貴方にも移ってしま____」


「それ以上喋るなッ!」


 私は我慢が出来ず、地面を蹴って紗良様に飛び掛かった。


「!?」


 しかし、紗良様の腕を掴んだ瞬間、がくんと身体が落ちる感覚と共に私は軽々と床に転がされていた。


 まるで身体を操られたかのような体験だ。多分、合気道の技を使われたのだと思う。


「客人であっても、屋敷内での暴力は看過できませんわよ」


「……ッ」


 身体が動かない。無理矢理動かそうとすると、関節がみしみしと悲鳴を上げる。


 私は首だけを動かし、紗良様を見つめた。


「……悪く言わないで……お兄様を……悪く言わないで……!」


「ですから……アレは貴方の兄ではないでしょう」


 冷たい視線。


 そして、凄まじい気迫だった。


 身体が震える。私の獣人の勘は、私が彼女に敵わない事を教えてくれていた。


 本能が逆らうなと告げている。


 だけど____引かない!


「お兄様は……最高のお兄様です! 絶対に……それだけはゆずれません……!」


 私は全身に力を込める。


 関節が悲鳴を上げ、痛みが脳を焼きそうだった。


 だけど、構うものか。


 壊れても良い!


 お兄様の悪口を言う者は……絶対に許さな____


「よせ、ドゥーシャ」


 その時だ。私と紗良様の間に声が割って入る。


「力むな。それ以上やると、お前の身体が壊れる。そんな事になったら、お兄様泣いちゃうぞ」


 優しく諭す声。途端、私の中に安堵が広がり、思わず涙が出そうになる。


「……お兄様!」


「無事か、ドゥーシャ。お兄様が来たからもう安心だぞ」


 私の声に応えるように、視線の先にはお兄様がいた。

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