裏話
木春
裏話
篝火の音が響いている。その光は闇の中に佇む厳威に満ちた屋敷を怪しく浮かび上がらせていた。屋敷の中では日が落ちて久しいというのに未だに忙しなく人が行き交う気配がしている。
「やっと戻ったか」
その屋敷の奥にて一人、荘厳たる琵琶の音を奏でていた彼の人はそう独り言ちた。
その日、京にはただならぬ空気が立ち込めていた。大宰少弐藤原広嗣が兵を挙げ平城京へと迫っていると云う。まだその兵は海峡も越えず未だ遠き地にあるというのに、どこから話が漏れたのか民は逃げ惑い官人たちも朝庭を駆け回っていた。
――充分予想のできたことだ。
内裏正殿にてその様を眺める大君は冷ややかに、そして何処か超然と坐していた。
広嗣は二年前に大宰府へ赴任していた。その一年前には長屋王亡き後、長きに渡り政権を担い保ち続けていた藤原の四兄弟が亡くなっている。広嗣はそのうちの宇合の子だ。父が亡くなる前と後を比較して自らを顧みるに、左遷と捉えたのだろう。送り付けて来た要求にも下道真備と玄昉を除くようにと主張している。
――この陣容を責むるは朕を責むるに等しいと謂うのに。
大君は暗に糾弾されている義兄と、大后を想った。
そういえば、この下道真備と云う者は大后の推薦で今の地位についたのだったか。喧騒を他所に記憶を辿る。なかなかに頭が冴え唐でも誉れ高かったそうではないか。妻もその才を気に入ったのだろう。東宮学士、春宮大夫として"皇太子の師"に任じ良く信任している。東院で初めて会うた時の事を可笑し恐ろしそうに笑いながら話していた妻の姿を思い出し、未だに会ったことは無くともその存在を示す官人の貌を想像した。さて、矢面に立たされたこの者はどうするであろうか。我が"日嗣の皇子"となったばかりの娘に何かあっては困る。悪しきように動かぬとは思っているが。深い思案にふけ込んでいた大君はそこで顔を上げると徐に席を立った。今は情報があまりに少ない。多くを知る者の処へ行くべきであろう。大君は官人達が止めるのを他所に義兄と慕う橘諸兄に後を任せ、足早に向かった。多くを知るであろう者の処、
「いきなり訪ねてきたと思ったら、さっさと人払いをしろだなんて。一体、どんなお話です?」
大后は
「急を要する話に違いない。媛、広嗣のことは聞いているな?」
「えぇ、勿論」
「奴が送りつけてきた内容は?」
「粗方、把握はしておりますわ」
大后はそう言うと眉を顰め、翳で顔を隠した。
「全く。吾が甥達は一体何を考えているのやら」
「甥"達"?」
「えぇ、"達"、ですわ」
そう言い捨てて一つ大きなため息を吐くと、置かれていた椀に手を伸ばし水を飲み干した。どうやらあの謀反はここでも大きな渦を巻き起こさんとしているらしい。大后は知っていた。それも予想していた中では最も悪い方向の話を。
「……そうなってしまったか」
「私への不満と当て擦りでしょう」
大后は哀しげに顔を背けそう呟く。藤原仲麻呂。これも広嗣同様、一昨年亡くなった四子の内の一人、武智麻呂の子。即ち広嗣の従兄弟であり、大后の甥である。直接名前を出さずとも夫婦の間で同じ人物を想定出来たのは、一重にこの仲麻呂が権力欲が強く藤原の権勢が崩れかかっている現状に焦りを抱いているものと容易に想像がついたからだ。
「
「止めますわ」
間髪入れずに、しかし小さく大后は言った。触れられた手から微かな震えが伝わる。
「はっきり言って、こんな事は吾が一族の為になりませんもの」
「吾れの為では無いのか」
「あら。言わねばなりませんか?」
大后はそう言うと指し示すようにどこかに一瞬目を向ける。あぁそうかと合点が行き、誰が聞こうとしても聞こえぬように耳元に顔を寄せ、誰が見ても夫婦の睦み合いに見えるように肩を抱いた。
「いいや?……ふふ、汝も大変だな」
「えぇもう。
大后は大君の意図を汲んでか互いの口元が隠れるように翳を翳すと微かに微笑んだ。
「ひとまず、汝が吾れの"味方"のようで何よりだ」
「あら、私が貴方を裏切るようなことがあるとお思いになって?」
大后は小さく笑いながら隣の夫の脇腹を抓った。痛い痛いと言いつつも、そんなわけがないだろうといつもより機嫌が少し悪い妻の肩を宥める様に摩る。
――それにしても。かの一族はここまであからさまに動くようになったのか。
呆れ顔をした冷ややかな人格が心の内に言葉を落とす。これでもあの四人が生きていた頃はまだマシだったのだが。今の”藤原の顔“である大后の心労も一入だろう。なにより、奴らにとっては叔母の、そして恐れ多くも皇后の宮に態々間者まで入れて置くとは。まぁ、そこまで切羽詰まっておると言うことなのだろうが。
しかし、吾れがそれをただ見ていると思うのならば、それは検討違いも甚だしいと言うものだ。大君は大后に見られぬように冷たい表情を浮かべた後、目も合わさずに隣に向かって呟いた。
「汝は吾れの為に悪になれるか」
「……吾が君の為ならば何にだってなりましょう」
「そうか、であれば。吾れが汝に頼みたい事も分かるな?」
そう言うと今度は大君が先程大后が目を向けてた方へ刹那視線を送った。
「もう、仕方がありませんね」
「汝にしか頼めぬ」
思わず肩に触れている手に力が入る。大后は少し思案した後、二度微かに頷いた。
「して、私が藤原の、貴方の為の"影"となるにしても、目の前のアレに対して何か既に策の一つや二つ浮かんでおりますの?」
「…まぁ、遠くの方は問題無いのだが、近くのがな」
困ったように言葉を濁すと、大后は何か閃いたのかいつもの自信たっぷりな顔をして言った。
「こういうのはさっさと終わらせた方が良いですわ。仲麻呂は田村第に兵を集めておるようです。私、乗り込んでおきますわね。あとはお好きになさって下さいな」
「相変わらず肝が据わり過ぎておらんか。吾れの方が心配で、胃が潰れる」
「大丈夫です。まぁ何かあったら適当に胃を潰してて下さいませ」
「きっと胃だけでは済まんな。そうならぬ様に、何とかする」
頼んでおきながら誰よりも不安になっている己を隠すように隣の妻を抱きしめた。だがそれも全てお見通しなのだろう。背中に回された手があやす様に心地の良い拍を打つ。
「いかん。こうしていたらまた日が暮れる」
「いつもならそれで良いのですけれど」
「そうも言って居られんからな…。そう思うと余計、彼奴等に腹が立つ」
「もうさっさと終わらせてしまいましょ」
「あぁ。……また来る。後で話を聞かせてくれ。…くれぐれも気を付けるんだぞ、吾が大后。吾が、
「あら!情熱的。勿論。くれぐれも、気をつけますわ」
そうして大君は内裏へと戻って行った。それぞれが、それぞれの思惑でもって都中を駆け回る。太陽が沈みかけても京の喧騒は収まるところを知らない。内裏に彼の者が現れたのは、この夜であった。
琵琶の音が聴こえる。自分の屋敷である皇后宮に入った大后はそれだけで屋敷が妙に慌ただしいのにも、灯がいつもより多く灯されているのにも合点がいった。篝火の焔が弾ける音と共に風が運ぶその音は、彼女をどこか安心させるものであった。
「只今、戻りました」
屋敷の最奥にて一人琵琶を奏でる彼の人の姿を見つけると、大后は真っ直ぐに届く声でその背中に投げかけた。あぁもう疲れた、と言わんばかりに翳を乱雑に置き、領巾を適当に片付け、隣に坐る。
「帰ってきたか。待っていたぞ」
「まさかもう居るとは思いませんでしたわ。そんなに聞きたいんですの?田村第での話を」
「あぁ、聞きたい。が……」
そう言うと彼の人は几に置かれた二つの杯に酒を注ぎ片方の杯を妻へ渡す。
「本音は、心配で居ても立っても居られなかった」
大后は面食らったように目を丸くすると、注がれたそれを一口で呑み干し、隣の肩にもたれ掛かって回想するように目を瞑った。
「きっと、あなたが思った通りになりましたわ。私、本当にヒヤヒヤしましたけれど」
「吾れの思った通り、か」
「確かに何とかすると言ってはおりましたけど、あんな何とか仕方はないですわ」
もう少しで真備が斬られる所でしたのよ?と妻が上目遣いで迫ってくる。真備お前は一体何を言ったんだ。そして仲麻呂、お前は追い詰められるとボロが出る所は変わらないのだな。
「ひとまず、無事で何よりだ」
「ちゃんと気をつけましたもの」
「うむ、偉い」
「でも。私、何処までも勘違いされておりましたわ。まぁ元からそういう役目ですから良いんですけれどね」
「真備と話したのか?」
「いいえ。あれと甥が話してる時は隣の部屋で聞き耳を立てておりました。まぁ、香でバレてましたけれど」
真備は頭も良いけど鼻も利くのね。ちょっと変態じみてたわ。香木変えようかしら。などと次々愚痴る大后を見て、あぁこれは酔いもあるが相当"面白くなかった"んだなと大君は察した。
この妻はこの世の日輪たる自分に相応しく良くできた女で、基本何があっても己の心の中で昇華する。だからこの様に口に出すのは本当に珍しく、幼い頃からの付き合いである自分も数える程しか見た事がない。この自分ですらあまり見た事がないのだ。他の者など知り得ない姿だろう。家族の事をとやかく言われたか、とそれとなく想像しつつ労わるように髪を撫でた。一方で、そんな夫の感想を他所に大后の愚痴はどんどん加速して行く。大君は普段妻が自分にやるように髪や肩を撫で、時々酒を呷りながらその話に耳を傾けた。
それから少し経ち、延々と続いていた大后の愚痴も殆ど吐き出し終わったのだろう。段々と本音の部分が見え始めていた。
「せっかく私が見出した官人なのに、なんだか寂しいですわ」
「うん」
「一体真備は誰のお陰で今の職につけたのか、もうすっかり忘れておるよう」
「忘れてはいないのではないか?事実、藤家にとっても悪くない落とし所にしたのだろうからな」
「まぁ、そうですけれど」
赤い顔で文句を垂れてはいたが、一応の結末にまずまず満足しているのだろう。
「でも、聞いていて驚きました。京を遷すだなんて。いつの間に決心されましたの?」
「真備も言っていた。平城は藤原の都だ。遷せ。と」
「まぁなんて事、そこまででは無いと思いますけど。どちらかと言うと、貴方の為の都と私は思いますわ」
「まぁそこは各々の解釈の違いだろう。汝の父が推し進めた事に違いは無いからな」
「その父様が、貴方の為に造ったんですわ」
先程までの愚痴は何処へやら。尊敬する父の話に上機嫌になったのか、大后はにこにこ笑顔を浮かべながら、"貴方"を示すように両手で大君の両頬に触れた。幾つになってもこの笑顔には敵わないな、などと思っていたら無意識に返答していたのだろう。次の瞬間には
「そうでしょう!そうでしょう!」
と照れ臭そうにしつつも元気一杯な大后の声が聞こえてきた。やっといつもの妻が戻ってきたようだ。
「そういえば、真備は吾が父の事を高く評価してくれているようでしたわ!でも、仲麻呂がそのあとを継ぐだなんて、持ち上げているとはいえ豊成が可哀想。貴方、どちらかと言うと豊成の方がお好きでしょう?後で慰めてあげて」
「あぁ、覚えておこう。……媛」
「はい」
「ありがとう」
「えっ?なんです?いきなり」
「なんでもない」
手に持っていた杯を置き、柔らかな手を取って妻の瞳をじっと見入る。
「此処を離れても、共に居てくれるな?」
「えぇ勿論。貴方の傍を離れたりしませんわ」
波乱の東征前夜はこうして過ぎて行った。嵐の前の、静けさのように。
裏話 木春 @tsubakinohana12
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