第5話 魅了の魔法

「え……?」


 ふわっと甘い香りが鼻腔をくすぐった。


 ――ギルフォード、香水なんてつけてるのね。


 そんな場違いなことをふと思う。


「ちょ、ちょっとギル。もういいでしょ。私は平気だから」


 腕の中から脱出しようとするのだが、離してくれない。

 むしろ、逃がさないと言わんばかりにますます腕に力をこめてくる。


「ちょ、ちょっと、ふざけてないで……」

「ふざける? どうしてそう思う? 俺はこんなにも真面目なのに」


 ――これのどこが真面目だっていうの!?


「ジュリア」


 力強く名前を呼ばれると、ドクン、と鼓動が跳ねた。

 厳しい調練でもない限り高鳴らない鼓動が、場違いに反応してしまう。

 彼の手が顎にかかり、上向かされる。


「好きだ」

「は?」


 好き、と言われた瞬間、全身が燃え上がりそうなくらい熱くなった。

 頭一つ分ほどさらに高い位置から見下ろすギルフォードの月のように美しい双眸が妖しく輝く。


「ギル、何をふざけて……」

「ふざける? 言っただろ。俺は真面目だって。お前を愛している。お前を、俺だけのものにしたい」


 予想外すぎる言葉の連続に、頭は真っ白になってしまう。

 彼の息遣いが近づく。彼の薄い唇が近づいてくる。

 頭では分かっているのに体が動かない。

 抗わなければ、唇を奪われる。


 頭では分かっているのに体が動かない。

 ギルフォードが覆い被さってくる。


 ――どうしてこんなことに……!!


 ジュリアにできることは、目を閉じることだけ。


「ギルフォード将軍! すごい音が聞こえましたがどうされたのですか!?」


 勢い良く扉が開け放たれ、軍服を着崩した男が部屋に入ってきた。

 自分たち以外の人物の登場に、それまで動けなかった体が動く。


 我に返ったギルフォードの体を押しやった。

 突き飛ばされたギルフォードは少し距離を取るが、ギルフォードは頭を抱える。

 ギルフォードはそばにあったロープを引っ掴むや、自分と柱とを結びはじめた。


「ギルフォード様、何をされているのですか!?」

「おい、お前っ。その女とさっさとこの部屋から出て行け」


 地獄の底から噴き上がるような鬼気迫る声に、男は顔を青ざめさせて回れ右をする。


「あなた、ちょっと手を貸して。ギルの様子が」

「ジュリア、余計なことを言うな……っ」


 こちらに背を向けたまま唸るギルフォードは無視し、ジュリアは留め金の外れた巻物を見せた。


「さっきの地震で山が崩れた時、この巻物の留め金が外れて、魔法が発動してしまったみたいなんだけど、これが何の魔法か分かる?」

「失礼します」


 そうこうしている間も、ギルフォードは「さっさと出ていけっ」と彼らしからぬ取り乱した様子で、叫び続けている。


「これは……えっと……複数の術式が編み込まれているようですが…………いや、そんなまさか……」


 男がぽつりと呟く。


「どんな魔法なの!? ギルがさっきから様子がおかしいの」

「……魅了魔法、とあります」

「み、魅了?」

「……は、はい」

「どんな効果なの?」

「術式を見る限り、女性への恋情を抑えきれず、欲望の歯止めがきかなくなってしまう……というもののようです」


 先程の抱きしめられ、好きだと囁かれた記憶が蘇り、ジュリアは赤面してしまう。


「どうしてそんな魔法が……まさかギルが作ったわけじゃ……」

「俺じゃない。署名を見ろ、マッケナンだ!」


 ギルフォードが声を上げた。


「マッケナン大佐でしたか……」


 男は「あぁ……」と空を仰ぐ。


「マッケナンさんはそんなにとんでもない人なの!?」


 魔導士部隊の事情は、ジュリアもよく分からなかった。マッケナンという人物にも心当たりが全くない。


「魔導士部隊創設以来の創出魔法――いわゆる新しい魔法を造り出すという分野のことです――の分野の第一人者にして天才と言われている方です」

「ギルよりも」

「は、はい」

「おまけにとんでもない変人だ」


 ギルフォードが苦々しく漏らす。


「その人の魔法のせいでギルが……」


 ――あのギルが私を好きとか愛しているとか、思うはずがないじゃない。


 しかし納得したにもかかわらず、この心がしくしくと痛むのはどうしてなのだろう。

 ジュリアは理解できないものはひとまず脇に追いやる。今はそんなことよりも、ギルフォードだ。


「そのマッケナン大佐は? その人なら、魔法の効果を消せるんじゃないの?」

「……とは思うのですが、今大佐は、勉強の為に留学中です」

「どこの国に!?」


 ジュリアに詰め寄られた軍人は、気まずそうな顔をする。その顔には嫌な予感しか抱けない。


「わ、分かりません……。『魔法の勉強のために放浪します』という置き手紙を残したきり、どこかへ消えてしまって」

「いくらなんでも魔導士部隊の規律は緩すぎるんじゃないの!?」


 魔導士は変人奇人の集まりだ、と一部の軍人が言うのも納得できる。


「この術式はギルにはどうにかできないの!?」

「創った本人にしかできない」

「そんな……」

「だから、俺のことは放っておいて、お前らはさっさと帰れ」


 そう言われても、はいそうですかというわけにはいかない。

 帰ったところで魔法の効果がなくなるわけではないのだから。

 なにせ、嫌っているジュリアを抱きしめただけでなく、唇まで奪おうとしたのだ。


 ――今のギルの目の前に何も知らない女性が現れたら……さっきみたいに迫るようなことあったら大変よ。


 それこそ、青き死神ギルフォードは色情狂だと誤解されてしまう。

 ただでさえギルフォードというのは社交界で生きる彫像と呼ばれるほど、女性人気が高いのだから。


 ――ギルがかばってくれなかったから、魅了魔法に囚われていたのは私なんだから。


 ならば、ジュリアがギルフォードの欲望の対象になればいい。この年齢でまだ初恋すら経験していないが、ギルフォードの名誉を守るためなら頑張れる。頑張らなければならない。


「ギル。とりあえず家に帰りましょう」

「必要ない。自分で帰れるっ」

「あなたは今とんでもなく危険な状況だってこと分かって――」


 しかしギルフォードはテレポート魔法であっという間に消え去ってしまう。


「まったく。あんな危険な状況でっ」


 ジュリアはギルフォードの後をおいかけ、彼の屋敷へ急いだ。

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