此岸人
卯月 幾哉
風、帰る場所
その日、一陣の神風が吹いた。
「終わったな」
工藤が言った。最後に出撃したときと同じ、空軍の制服を着て。
彼の背後には広大な河があった。振り返って河の反対側に目を凝らしても、向こう岸を見ることさえできないだろう。また、工藤にはそれをする気さえなかった。
「ああ、終わった」
朝倉が、工藤に応じて言った。彼もまた、軍服に身を包んでいた。その表情は、工藤同様、晴れやかだった。
工藤も朝倉も、第七空挺小隊の隊員だった。
大戦末期、戦局は悪化の一途を辿り、前線を守る彼らの部隊へ本土からの支援が届くことはなくなっていた。しかし、前線を死守せよという本土からの司令が撤回されることはなかった。
現場の指揮官は日々、特攻の志願者を募った。それは苦し紛れの無謀な作戦だった。
開戦直後ならともかく、大戦末期の敵軍の戦闘機との性能差は歴然だった。多くの場合、特攻は無駄死にに終わった。それがわかっていたから、心から特攻に志願する者などいなかった。形ばかりの志願だった。
「俺たち、国の役に立てたのかな」
笹崎がぽつりと言った。彼もまた、工藤や朝倉と同じ第七空挺小隊の一人だった。
さあな、と小隊長だった工藤が答えた。
彼らは皆、その日に特攻で命を落とした。
そこは、あの世とこの世を分かつ河の向こう岸だった。
「あれ?」
素っ頓狂な声を出したのは、同じく第七空挺小隊の荒井だった。
「どうした」
と、朝倉が訊ねる。
「いや、十和野がいないなと思って」
「確かに」
四人はきょろきょろと辺りを見回した。彼らと同じ特攻作戦に参加した五人目の隊員、十和野の姿はどこにも無かった。
「あいつ、まさか……」
怖気づいて、直前で逃げ出したのではないか。笹崎はその想像をつい口に出してしまった。
「いや、それはない。奴の機体が真っ先に敵艦に突っ込んだのを、俺も朝倉も視た」
と、工藤がその考えを打ち消した。その成果について、敢えて語ることはしないが、生きて助かるとは到底思えない最期だった。
「まだその辺で、もたもたしてるんじゃないか。おーい、十和野!」
と、荒井は岸辺まで歩いて河に向かって大声で叫んだ。
だが、その声は霧の中に吸い込まれるばかりで、何の応えも返って来なかった。
「どうする?」
朝倉、笹崎、荒井の三人は自然と、元小隊長の工藤に目線を集めた。ここぞというときの判断は工藤に任せる。隊員たちは、死後もその習慣が抜けなかった。
「待とう」
工藤は迷わずに言った。
「もう、何かに追い立てられるようなことはない。十和野が追い着くまで、ゆっくり待てばいいさ」
三人は頷いた。
工藤は続けて言った。
「だが、俺たちはもう軍人じゃない。ここには軍隊も戦争も無いからな。待ち切れなくなったら、遠慮なく先に行ってくれ」
「小隊長――いや、工藤」
「そりゃ、ないですよ」
朝倉、笹崎が口々に工藤の言葉を遮った。
「軍人じゃなくたって、十和野がともに戦った友であることに変わりはないですからね」
荒井が言った。
四人は顔を見合わせ、力強く頷いた。
だがその後、四人が十和野と合流することはなかった。
*
三年後。
関東のとある民家で、一人の女性が家事に勤しんでいた。かろうじて家の骨格は保っていたが、塀は割れ、障子は破れていた。それでも、空襲で焼け野原になったこの地域の中ではマシな方だ。
女は庭の畑の雑草を抜き、朝食の後片付けを済ませて、わずかな手銭を持って家を出た。物乞いや飢えた子供たちには目もくれず、市場へ向かった。
市場で買い物を終えて、家に戻った彼女は、驚いた。家の前に一人の男が立っていた。ぼろぼろの衣服を纏ったその男は、家の前をうろうろと行き来し、ときどき中を覗き込んでいた。
物盗りではないか。
女は警戒し、物陰から様子を伺った。だが、その男の身振りは物盗りにしては大げさで堂々としていた。また、やや背が高く褐色の髪色をしたその男は、彼女にある男性を想起させた。
「もし――」
女は訝しみつつ、男に声を掛けた。
男がゆっくりと振り返った。女は息を飲み、目を見開いた。
「嘘――!?」
信じられなかった。
その男は、戦死した彼女の夫と瓜二つだった。瞳の色も同じ灰色だった。
「やあ、久しぶり」
男はそう言った。
十年前、初めて逢ったときと全く変わらない姿と声で。
女は男を家に招き入れ、茶を淹れた。
それを口にして、男は一息ついた。
「変わらないな」
男が言った。
その所作は、かつての夫そのものだった。女は確信した。別人などではない。目の前の男は、以前の夫に違いないと。
「玉砕した、と聞きました」
女は言った。
男は鷹揚に頷いた。
「ああ、私もそう思った。敵艦に激突する前に爆弾を撃たれてな。この爆発では助かるまい。そう思った」
男は窓の外を見遣って、目を細めた。その時のことを思い出しているのだろう。女はそう思った。
戦闘機に乗ったまま爆発に体を灼かれても、男は死ねなかった。だが、落下したのは海の真ん中だった。戦時中に植民地化した島国の陸地に流れ着いたとき、もう戦争は終り、仲間はみな故郷に帰っていた。
記録上、戦死した男は誰の助けを得ることもできなかった。苦労して自力で金を溜め、三年掛けてかつての住まいへ帰り着いた。三年は彼にとって長い時ではないが、待つ者にとってはそうではなかった。
「達者にしているか」
「はい」
問われて、女は答えた。貧しいが、生きている。もう、空襲に怯えることもない。今はそれだけで十分と思われた。
「あの、私はあなたが死んだと思って――」
「いいんだ」
女の言葉を、男は手で制した。
「生きていて、顔を見ることができた。もう満足だ」
そう言うと、男は立ち上がった。
家の中にあった女物ではない着物や、居間の席の配置などから、女が誰か別の男と暮らしていることは推察できた。また、女が子を身ごもっていることも、男には一目でわかった。
帰って来た男には、もう家族と暮らす居場所はなかった。
「これを」
別れ際、男は女に包みを渡した。女は受け取って、それが金だとわかった。
「受け取れません」
「いや、頼む」
女は固辞したが、男は押し切った。それは元妻を探しながら男が溜めた、ありったけの金だった。
「もう会うこともないだろう。どうか、幸せに」
挨拶もそこそこに、男はすぐに立ち去ろうとした。
「暁さん」
呼びかけられ、十和野は振り返った。
「もう死んだ身だ。その名は変えることにするよ」
女がその後の生涯で、彼の姿を再び目にすることはなかった。
(了)
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