イースレウムの黙示録

永川日々

序章

1. 災禍の始まり






 遠く、果てへと歩む神の子たちへ。

 これが最後の祝福とならんことを。


 ――イースレウムの黙示録 太陽の書 第7節――











「だから、どこにそんな人員と金があるのだと何度も言っている! そんなに警備を固めたいのならさっさと隣町に併合させてしまえばいい!」



「そちらこそ同じ説明ばかりさせるな! 併合などしたらあの地域の守りに穴が開くと散々聞かせただろう! まったく話にならん!」



 大きな部屋の中央に置かれた円卓を、目を吊り上げた男が叩く。振動が水の入った花瓶に伝わり、小さな波紋を描いていた。

 現在、熱い議論の中心となっているのは王国の郊外に位置する小さな村周辺の警備についてだ。過去にも何度か繰り返されたこの議題は、毎度同じ結論に至る。――つまり、保留。

 決着のつかないまま現状維持となること数回、そろそろ同じ結末の見えてくる頃合いであるが――本日の会議には、普段とは違う流れを作り得る人物が出席していた。



「それで、民は何と?」



「――は」



「そこに住む民の意見を聞いたのかと尋ねているのです。それとも、人々の声には耳を傾けもせずに無駄な議論を繰り返しているのですか」



「それは……」



 入口から最も遠い席に座した少女の声に、その場が一瞬で凍りついた。鋭い金の眼光が、体格の良い男たちを委縮させる。

 身を刺すような冷たい沈黙に、円卓に掛ける人々の視線が泳いだ。

 騎士団の副団長は壁に掛かった誰の作品かも分からない絵画を眺め、その部下はツヤのある机の木目を目でなぞる。書記係は空気に溶け込もうと存在を隠し、ただ一人、少女の後ろに控えた青年だけが場の行先を見届けるように顔を上げていた。



「物事の順番が違います。今必要なのは金や人員の話ですか?」



 少女はそれだけ言い残すと、流れるような所作で椅子から立ち上がった。会議室には彼女の無機質な足音だけが響き、その後ろに同じ年頃の青年が続く。

 少女が立ち去り再び時が進み始めた室内で、誰かが重苦しい息を吐いていた。








「そもそも、あの御方がさえ持っていればこんな議論に時間を割く必要さえなかったのだ。あの無才の王女め。国を守る術も持たないくせにいつまで軍事に口を挟む気でいる」



「あの御方には“冬の騎士”がいますからね。あの男も何が好きで王女の護衛官など……戦場で活かした方がよっぽど有益だったでしょうに」



 苛立ちを隠そうともしない男が大股で廊下を歩く。

 議会の空気を少女――オリストティア王国の王女が凍らせてから数時間後、若干のぎこちなさを残したまま議論は無事に終了した。王女の言葉を無下にできるはずもなく、件の村には後日、王国の使者が送られる。毎度の如く言い争いに発展していた議題が進展したのは確かだが、それはそれとして腹立たしいことに変わりない。何が楽しくてあんな小娘に恥をかかされなければならないのだ。



「お飾りの姫君に戦事の何が分かる。魔術師としての責を全うできないのであれば、せめて愛想でも振りまいておけばいいものを」



「愛想? 御冗談を。あの王女に何を求めていらっしゃるのです。なんてったって、あの御方は氷の――」



 品のない会話に花を咲かせる男たちの背後で、大きな音がした。肩を揺らしながら恐々と振り返ると、そこには“冬の騎士”の姿がある。青年は剣の切先を磨き抜かれた廊下に打ちつけ、感情の見えない視線をただ二人に向けていた。



「あ、」



「誰が聞いているか分かりません。どうか慎まれますよう」



「わ、分かっているわ!」



 青年の鋭い銀の瞳に射貫かれ、男たちが足早に去っていく。彼はその背中を目を細めながら見送ると、控えめな溜息をついた。



「――もっと厳しく言ってもいいんじゃないですか、アユハ・コールディル様。それとも、この場では冬の騎士様と呼んだ方が?」



「……クライド」



 眉をひそめて青年――アユハが振り返ると、そこには見知った大柄の男がいる。彼はアユハの隣に並び立つと、苦い顔をして愚痴を零した。



「相変わらず懲りない御仁の多いことで。王女……ティエラ様が軍の動かし方を誤ったことなどないのにな」



「だからだろ。本当にくだらない」



 厳しい言葉とは裏腹に飄々とした表情を返すアユハは、この話題は終わりだと言わんばかりに踵を返した。

 魔術師としてのチカラに恵まれず、国の守護者たる責を果たせない無才の王女――口さがない者たちの言うことは、王女の護衛官であるアユハの耳によく届く。当然、王女自身のもとにまでも。



「ま、ティエラ様やお前よりも先に俺が出しゃばるべきではないな。それより一試合どうだ?」



「いいな。思いっきり体動かしたい気分だ」



 二つ返事で頷き、先を歩き始めたクライドの姿を追う。暖かな陽光が差し込む王城には、穏やかな時が流れていた。











 城内に響き渡る激しい剣戟の音は、その一撃を最後にぴたりと鳴りやんだ。投げ出された一振りの剣が、優美な弧を描きながら宙を舞う。

 武器を手放した男は訓練場に片膝をつき、その目の前には首元に刃を突き立てる別の男が一人。逆光の中で佇む彼は、相手を見下ろしながらにやりと笑った。



「俺の勝ち」



「く、そ……また負けた……」



 大きな音を立てながら、クライドの剣が地に落ちる。よく手入れされた刀身に広大な空が映り込み、青い光が殺風景な訓練場に彩りを与えた。



「……今日、調子よかったよな? 俺」



「そうだな。最後の返しもよかった」



「嫌味か? 余裕で対応しただろうが」



 アユハは話しながら剣を下ろし、鞘に納める。クライドは溜息をつきながら立ち上がると、手放した――否、目の前の相手に吹き飛ばされた剣を拾い上げた。



「あの一瞬で狙いを見抜かれるんじゃあ、俺の勝利もまだ先か」



 連れ立って木陰に場所を移し、いつもと同じように試合後の反省会を開始する。あの戦略は新しかった。あそこは避けるよりも受けた方が良い――ああでもない、こうでもないと互いの立ち回りについて自由に意見を交わす。

 そうしている間に試合を見学していた騎士の誰かが、耐えきれなくなって声をかけるのだ。



「アユハ様! ぜひ自分とも一試合!」

「僕もお願いします!」



 堰を切ったように彼に迫る騎士たちをどこか他人事のように眺めながら、クライドは苦笑した。



「人気者は忙しいな」



「おかげ様でな。暇を持て余さずに済む」



 彼は汗を拭いながら隣に立つアユハを見る。こちらは必死にその剣に食らいついて負けたというのに、相手は汗一つかいていないどころか、どこまでも涼しい表情だ。余裕そうなその姿には悔しさを通り越して呆れを覚えるが、負かした相手がそんなことを考えているとは露知らず、アユハは稽古に励む騎士たちの様子を一通り確認している。それは、さながら次の対戦相手を吟味しているかのような目だった。



「お前まだ続ける気か……何試合すれば満足するんだ」



「ティエラ様は会議中。手元の書類に署名がほしいけど、その責任者も会議中。今度の合同演習のことで話し合いたいお前んところの隊長も会議中」



「なるほど。さては本当に暇だな?」



「大正解」



「お前もティエラ様のいる会議に参加すればいいだろ。アユハなら意見を求められる側だろうに」



「軍議なら行ったかもしれないけど……ああいう場、昔から苦手なんだよ」



「天下の冬の騎士様が何を仰る。まあ、気持ちは分からなくもないが」



 アユハ様、そう呼ぶ声がした。結局、彼は最初に声をかけてきた人物を次の相手に決めたようだ。



「クライドも混ざる?」



「いや、少し休憩。ここから見てるよ」



 ひらひらと手を振りながらアユハを見送る。彼が木陰から離れて騎士たちを指名し始めると、集団の中から歓喜の声が上がった。選ばれた者は準備に入り、選ばれなかった者は羨望を含んだ声援を送る。陽気に満ちた騎士団訓練場は、賑やかな声に溢れていた。

 アユハは剣を抜いて佇み、ふいに空を仰ぐ。正午を告げる鐘の音が王都中に響き渡った。



「――澄んだ音だ」



 オリストティア王国は、今日も平和な時を刻んでいる。











 時は大樹歴5700年。世界は奇病“黒獣病”に侵され、緩やかな終焉の時を歩んでいた。

 今から200年前、終末大戦の終結とともに広がり始めたこの病は、“ケモノ”と呼ばれる大量の罹患者を生み出し、人々を絶望の淵へと追い込んだ。

 年々減り続ける人口。廃れていく魔力技術。縮小する人間の世界。広がる一方の病は今日もどこかで人を喰い、新たなケモノを絶えず生み出している。

 荒れた大地にケモノの咆哮が轟く。人々は迫りくる終わりに怯え、死が訪れるその時まで眠れない夜を過ごす運命だった。

 不確かな明日を求め、あるとも知れない未来を望み、この時代は闘い続ける日々を送る。



「相手と距離を空けすぎ。あと一歩詰めないと――ここ、ガラ空きだ」



「ぐあっ」



「甘い。もう少し視野を広げて。足元取られるよ」



「がっ」



 アユハ・コールディルはオリストティア王国に仕える騎士だった。王都アルヴァレスにそびえ立つ白亜の城で、彼は今日も剣を振るっている。時間が空けば訓練場にふらりと姿を現し、居合わせた騎士と剣を交えるこの光景も、城の日常によく馴染んだものだった。



「あ、ありがとうございました……」



 集まっていた騎士たちがアユハに勝負を挑み始めてから、しばらくが経った。挑んでは切られ、立ち向かってはねじ伏せられた騎士たちは当初の勢いを失い、今ではクライドの目の前で倒れこんで山となっている。しかし、疲労困憊で地面に身を投げる彼らとは対照的に、アユハは依然として余裕を見せていた。クライドにとってこの結果は特別珍しいものでもない。今では眼前に広がる光景にただ苦笑いが溢れるばかりである。



「見事な全敗……また一人も勝てなかったな」



 転がる騎士たちを眺めるクライドの姿はどこか愉快そうだ。一方で、この日も唯一訓練場の地に膝をついていない男は、無尽蔵の体力をまだまだ持て余している様子である。今日も今日とて、この騎士から勝利を奪える英雄はいないようだった。

 そんなアユハは、水を飲んで一息つきながら天を仰ぐ。ほんの少し前までは晴れやかだったはずの空に、薄暗い雲が混ざり始めていた。



「天気変わってきたな。今日雨だっけ」



「午後から崩れるかもしれないとは聞いた」



「そうだったのか。この感じだと降りそうだ」



 他愛のない会話をだらだらと転がしながら訓練場の時計を見る。王女ティエラの会議が終わるには、まだ少し時間が余っていた。――あと数試合はできるだろう。

 アユハの思考に目敏く気付いたクライドが、今度こそ呆れを前面に出しながら言った。



「待て、もうやらないぞ」



「たっぷり休憩したろ」



「見学だ見学。今日こそお前の弱点見つけてやるよ」



「俺の弱点……」



 表情を消したアユハが、抜刀と同時にクライドに襲い掛かる。



「――それは、実戦で見つけた方が早いだろ!」



「バカ待てって! アユ――」



 クライドが咄嗟に彼の一撃を受け止める。異変が起こったのは、その瞬間だった。



「「!」」



 王都アルヴァレス中に響き渡る鐘の音。時刻を知らせるものとは異なるけたたましいそれは、を民に伝える警鐘である。



「全員持ち場に!」



 アユハの指示を待たずして、休息を取っていた騎士たちが一斉に散会していく。一瞬にして城内は物々しい空気に包まれた。



「アユハ!」



 その間に、街を見下ろせる位置にまで移動していたクライドがアユハを呼ぶ。彼のもとに駆け付け、言葉を失った。



「時計台……!? どうしてあんなところにケモノが……」



 王都中央、大きな時計台の建つアルヴァレスの大広場。大勢の人々が往来する繁華街の中心地である。

 そんな場所に、城からでも確認できるほどの黒い煙が上っていた。火災がもたらす黒煙などではない。あれは、ケモノが発する瘴気に由来するものだ。

 その事実を認識するや、アユハは城内へと駆けだした。



「クライド! 事実確認! 報告は東第2会議室!」



「了解!」



 アユハに背を向け、クライドは反対方向へと走り去っていく。

 賑やかだったはずの訓練場はたった一つの鐘の音を合図に、瞬く間に閑散とした空間へと様変わりしていた。










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