第2話

僕はこのラジェス帝国の隣の国アステルの人間だ。

アステル王国は、グリズリーの獣人を国王に掲げる獣人の国。国を支える四つの公爵家は武を重んじる家系で、東の獅子、西のバッファロー、北のイヌワシ、南のコモドドラゴンによって支配されている。

僕はそんな東の公爵・獅子の一族に生まれた。

そもそも獣人は同種の者同士で番うから、ネコ科の一族にイヌ科が生まれることはないし、爬虫類の一族に鳥類が生まれることはない。

でも獅子の一族に、同じネコ科で別の獣人が生まれる事は稀にあるんだ。

それが、この僕。

一族みんな、獅子族の特徴であるの黄金色の髪、翡翠の瞳を持つ。体つきも逞しく、素晴らしい聴力の耳、獲物を食いちぎるための鋭い牙、しなやかな尻尾を備えていた。そんな中、僕はくすんだ灰色の髪、青と緑のオッドアイ、感情が直ぐ現れてしまう獣耳と貧相な尻尾という姿で誕生した。

そう、獅子の一族にあって、最弱な生き物である猫の獣人として生まれてきてしまったんだ。


   ♡♥♡♥ ♡♥♡♥ ♡♥♡♥   


「最弱者!さっさとここを片付けろよ!!」


ガン!と水が入ったバケツが蹴飛ばされて、キレイに磨き上げたばかりの廊下に汚水がビシャリと飛び散った。


「あーあ、これだから最弱者は何をしても愚図で役に立たねぇんだよな」

「今夜はお客がお見えになるのに、いつまで掃除に時間かけているんですか」

「仕方ないよぉ。最弱兄さんが役に立たないのは生まれつきだもの。変わりようがないもん」


粗野な長兄、丁寧な口調で厭味ったらしい次兄、僕を見下すことになれた弟。誰一人として僕の名前を呼ぶことはない。

僕は俯いたままササっと手にした雑巾で床の水を拭った。汚れた水をたっぷり含んだ雑巾をバケツに絞る。

そしてもう一度床を拭こうと手を伸ばした。


「そんなチンタラやってたんじゃ、いつまでたっても片付かねぇっての!」


苛立ちを声に含ませた長兄がパチンと指を鳴らした。その瞬間一気に床が熱を持ち、あっという間に水を蒸発させてしまった。


「っつ!!」


床に這いつくばって、水を拭きとるために掌を床に着いていた僕の手にもその熱は襲ってきた。

ジュッっという嫌な音と共に、皮膚が焼ける臭いがする。思わずうめき声を洩らして、火傷を負った手を胸に抱え込んだ。


「っとにドン臭いヤツ。避けることも、魔力で防御することもできねぇなんて、マジで使えねぇ」

「武力も魔力も弱い、その上頭も弱いとなると、政略結婚の駒としても使えませんね」


兄二人は心底バカにしたような顔で僕を睨むと、もう興味はないとばかりに立ち去って行った。その後ろ姿を火傷の痛みを堪えながら黙って見送る。

彼らが僕を名前で呼ぶことがないように、僕も彼らを名前で呼ぶことも「兄」と呼ぶこともない。

一族と見做されていない僕には、そのどちらも許されてはいないのだから……。

彼らが廊下の先の角を曲がって姿を消して、漸く僕も掃除道具を片付けようと振り返った。そしてビクンと肩を揺らす。

立ち去ったと思っていた弟が、こちらをじっと見つめていたんだ。


「な……何か御用でしょうか?」


弟といえど、召使の立場である僕は敬語を使わざるを得ない。

恐る恐るお伺いを立てると、彼はにこっと天使のように可愛らしい笑顔を見せた。


「最弱兄さんに朗報だよ。兄さん、この家から放逐されることが決定したんだってさ」

「ほ……放逐?」


思わず敬語を忘れてオウム返しに聞いてしまう。

ーーどういう事?


「三年に一度、ラジェス帝国に留学生を送っていることは兄さんも知ってるよね?」

「……はい」

「その留学生に兄さんが選ばれたんだって!良かったね、兄さんこの家から出て行きたがってたもんね!」


パチンと両掌を合わせて、無邪気に弟が笑う。その様子を僕は血の気の引いた顔で見つめてしまった。

ラジェス帝国は、アステル王国よりも遥かに大きな国だ。

ただ武力としては弱い人族が支配する国だから、獣人の国であるアステル王国と戦ったなら力は拮抗するだろう。お互いにお互いを、「軟弱な人族め」「獣臭い野蛮な獣人め」と見下してはいるものの、戦を起こした場合の損害を考慮して一応友好国の形を取っている。その友好国の証としての「留学生」制度だ。


軽蔑の対象である獣人留学生が向こうでどんな扱いを受けるかなんて、火を見るより明らかだ。

この国はまだ獣人の国だから、獣人だからと僕を虐げる事はない。僕をぞんざいに扱うのは獅子の一族だけだ。

でもラジェス帝国だと、帝国民全てが獣人の僕を嫌ってくるのだろう。その結果、どんな扱いを受けることになるのか……。

ふるっと知らずに身体が震えた。

今まで留学した者は、誰一人として戻って来なかったとも聞く。

そんな所へ行けだなんて、事実上の死刑宣告と同じだ……。


「向こうからは毎回王族がやってくるよね。一応友好国の王族だから、こっちでは留学生を丁寧にもてなすけどさ。こっちからは役立たずのハズレ者を送るから、碌な対応はしてもらえないって聞いたなぁ。兄さんも大変だろうけど頑張ってね」


じゃぁね、バイバイと可愛らしく手を振って彼は立ち去って行く。その姿を、僕はぼんやりと見送った。

暫く魂が抜けたかのように立ち尽くしていたけど、ジクジクと痛む火傷が僕を現実に引き戻した。

慌てて掃除道具を抱えると、貴人と鉢合わせしないように道を選びながら使用人棟へと戻る。倉庫にバケツと雑巾を仕舞うと、力ない足取りで棟の裏手にある古びた井戸へと向かった。

痛む左手を見てみると、皮膚が焼け、熟れすぎて爆ぜた果実のようにぐちゃぐちゃな掌になっていた。


「まだ痛む傷だから大丈夫」


そっと独り言ちる。痛まない傷は神経までやられてしまった証拠だもの。そちらの方が危ない。

苦労して片手で井戸の水を汲むと、そっとできる限り優しく掌に水を掛けた。すると鋭い牙に噛付かれたように激しい痛みが襲ってくる。


「っつ!!!」


弾かれるように左手を引っ込めた僕は、ズキズキと痛みを訴える左手を抱えて蹲ってしまった。

ーーどうして?

ーーどうして、猫の獣人として生まれただけで、こんな扱いを受けるんだろう。

この国は獣人の国。街の中には猫の獣人もちゃんと存在している。

前に王都を覗く機会があった時に見た彼らは普通に幸せそうな人生を歩んでいた。

なのに、僕は獅子の一族に生まれた猫の獣人というだけで……。

ぐっと唇を噛みしめる。

嘆いたってどうにもならないってことは、五歳を過ぎるころには嫌というほど理解していた。

留学生は四つの公爵家と王家で選定される。要するに王命だ。拒否権なんてない。

ーーこの家に居ても僕に未来はない。だったら、学生の期間を我慢して卒業と共に出奔してもいいんじゃないかな。

そう考えると、留学もそう悪くないことのように感じた。

留学期間は十七歳から十九歳までの二年間。その間だけ、針の筵を我慢しよう。


「大丈夫。きっと大丈夫。ここでも今まで頑張ってきたんだから……」


声が震えるのは仕方ない。だって、国全体で嫌われるなんて凄く怖い。

ーーでも、やるしかない……。

僕はそう決意したのだった。

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