4-5 正解のない選択
陰山さんと別れ、私は部室へと戻った。
彼女の話を聞いて、判断はやっぱり難しいけれど、私の中で一応結論のようなものはできていたけれど。
でもそれは、ついさっき届いたメッセージで今、揺らいでいる。
考え事をしながらトボトボと部室へ歩いていた私に届いた、春日部さんからのメッセージ。
後で送ると言っていたそれが案外早くきたことに驚いたけれど、それは問題じゃない。
肝心なのはもちろん内容。それは、私の判断、いや認識を揺さぶるのには十分すぎた。
「つまり、その朝陽 姫莉ちゃんは、HIMEちゃんじゃないってこと!?」
全て話して聞かせると、
部室に入るなり先輩の太ももに倒れ込んだ私の頭を優しく撫でていてくれたその手が、ピタリと止まる。
「はい。あくまで春日部さんによると、なんですが……」
頭が混乱してきた私は、ぎゅっと目を瞑りながら答えた。
『朝陽 姫莉ちゃんは、ヒメリンじゃないと思うよ』と、春日部さんからのメッセージはそんな言葉から始まっていた。
先程陰山さんが打ち明けた時彼女のリアクションが鈍かったのは、それがあまりにも聞いたことのない話だったから、らしい。
何でも知ってるとは言えずとも、春日部さんは交友関係が本当に広く、そして校内の噂話にはかなり詳しい方だ。
いくら完璧に潜んでいるとはいえ、朝陽さんがHIMEだとしたら、その事実に気付いていたり気付きかけている人が陰山さんだけとは考えられない。
そうすれば、小さくても、ささやかでも、不確実でも、何らかの噂が耳に入っているはずだ。
というのが、春日部さんの談だった。
そう言えてしまうほど校内のあれこれに詳しい春日部さんには、本当に驚嘆する。
けれどそんな自信だけではなく、一応再度リサーチをして裏取りのようなこともしたらしい。
一年生の知り合い、特に朝陽さん周辺の生徒たちにそれとなく話を聞く、なんて探偵みたいなことを迅速にこなして。
結果やっぱり、噂のかけらすら聞くことはできなかったという話だ。
だから、きっと、多分、だけれど。
朝陽 姫莉はHIMEではない。
春日部さんは、そう教えてくれた。
「確定的な情報ではない、というのはそうなんです。別人だという証拠はない。でも……」
「本人である証拠もまたない、か」
香葡先輩がそう続け、苦々しく呻く。
目を開いて見上げると、難しそうな顔をした先輩がこちらを心配そうに見下ろしていた。
「結局、姫莉ちゃんがHIMEちゃんだって根拠は、李々子ちゃんの判断しかないわけだしね」
「はい。それを断言する陰山さんを、私は信じるしかなかったわけですが……こうなってくると……」
自身の感覚で判断した陰山さんに対し、春日部さんはかなり色々と調べ回って出した結論だ。
どちらの可能性が高いかという話になれば、この場合は春日部さんの方だと思わざるを得ない。
「朝陽さんがHIME。その前提で話を進めていましたから。それがひっくり返ったら、考えるべきこともまた大きく変わってしまいます」
「うーん。でもさ、より明確に、能力と恋を消すべきだって、そう言えるようになるとも思わない?」
香葡先輩はそう疑問を呈した。
「別人、勘違いだったとしたらさ。違う人にしてしまった恋心を消して、HIMEちゃんへの憧れだけを残してあげる。それが案外、シンプルな答えだったり?」
「それはそうなんですが……」
香葡先輩の意見は尤もで、私は理解を示しつつもしかし苦い顔をしてしまう。
シンプルに考えればその通り。行き先を間違ってしまった恋を、これを機に忘れさせてあげるというのはありだ。
ストーキング行為だって、相手がHIMEなら最悪応援しているアイドルに対する、ファンの褒められない行動と言えるけれど。
相手が無関係の別人となれば、もうただの迷惑行為でしかない。
でも私は、引っかかる。
「元々気になっていたことではありますが。陰山さんのHIMEへの憧れと、今抱いている恋は、混ざり合って一つになっていないか、心配なんです。もしそうなら陰山さんは、恋と同時に憧れも失ってしまう」
「別人への恋を消して、本人への憧れも消えてしまう。全部、なくなっちゃう、か……」
私の心配に、香葡先輩は顎に手をやってムムムと顔をしかめた。
「姫莉ちゃんへの想いを、間違った恋っていう言い方をするのはあんまり気持ち良くないけど。でもそれを消すことで、本来大切にしていたものが消えてしまうのは確かに、ちょっとだね」
「はい。でもやっぱり、陰山さんの能力を放置するわけにもいかないですし。どうすればいいか……」
私の口からこの可能性を語って聞かせるのは、あまり得策とは言えないように思える。
陰山さんはきっと自分の目を信じるだろうし、私たちの関係性が崩れることで、彼女の自制が揺らいでストーキングが勢いを増してしまうかもしれない。
だからといって彼女が自分で気付くのを待つ、というのはあまりにも途方もないことだ。
陰山さんは完全に信じきっているし、それに万が一何かの拍子に気付いてしまった時の彼女の気持ちを考えると……。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
赤の他人の、無関係な私の、するべきことって何?
パンクしそうなほどに思い悩む私の頭を、香葡先輩はそっと撫でてくれた。
「きっと今回のことに、こうすることが一番いいっていう答えは、ないと思う」
静かにポツリと、香葡先輩は言った。
「ちゃんとした、ハッキリとしたものは誰も持ってないし。李々子ちゃんの言う通り、姫莉ちゃんがHIMEちゃんだって可能性ももちろん捨てられないしね。だからきっと、何を選んでも、救われるし傷つくよ」
「完璧な道はない、ですか……」
何かを庇えば別の何かが傷つく。
このややこしい恋に落ちてしまった陰山さんが、何も失わずにいられることは、きっとできない。
「香葡先輩でも、どうすればいいかわかりませんか? いつもみたいに、こうなるんじゃないかっていうの、ありませんか?」
「うーん。私だって、いつも、何でもわかるわけじゃないよぉ。こうだったらいいなっていうのは、あるけどねぇ」
私の縋るような言葉に、香葡先輩は申し訳なさそうに眉を落とす。
心なしか、私の頭を撫でる手もぎこちなく控えめだ。
「
「……香葡先輩は、最近いつも意地悪です」
「なにを〜? すっごく優しいだろーがぁ〜!」
香葡先輩はそう言って私の頭をコツンと小突く。
浮かべる笑顔はしかし、いつもに比べて力ない。
「でもね、柑夏ちゃん」
叩いたあたりを撫でながら、香葡先輩は言う。
「もし、李々子ちゃんを見捨てないんなら、選ばなきゃ。柑夏ちゃんが」
「…………」
香葡先輩の声はいつものように優しいけれど、でも厳しい。
「いつだって、わかりやすい答えが用意されてるわけじゃない。それを教えてくれる人がいるわけじゃない。やっぱり責任は、自分自身のものだよ」
「でも、でも、私は……」
静かに煌めく綺麗な瞳を見上げ、私は不安を口にする。
「私は、香葡先輩とは違います。一人じゃ何もできない。私はいつだって、香葡先輩がいたからなんだかそれっぽいことができていただけで。私は、一人じゃ何にも……」
「そんなことないでしょ? 柑夏ちゃんはちゃんと、自分で選んで、自分の意思で頑張ってきたよ。私の方こそ、ちょっかいを出してただけなんだから」
そんなことを言うけれど、私は納得できない。
私はいつだって、香葡先輩に相談して、答えやヒントをもらって動いて、そして結果はみんなが出してる。
私はただ中継ぎをしているにすぎなくて、私がしたことは本当に限られている。
そんな私の判断が、なんの役に立つっていうんだろう。
「お願いします。香葡先輩が決めてください。間違っててもいいから、完璧じゃなくてもいいから。香葡先輩が、私にどうすればいいか、教えてください」
「そうしてあげたいけど。そうできる時はするけれど。今回はなぁ」
泣きそうになるのを堪えながら、私は喚くように訴える。
駄々を捏ねるように、縋り付くように。
そんな私に、香葡先輩は困ったような笑みを浮かべる。
「さっきも言ったけど、今回は正解がないよ。何を選んでも、救われて傷付く。そういう時の判断は、柑夏ちゃんじゃないと」
「どうして……どうして……?」
「だって、李々子ちゃんに今向き合っているのは、柑夏ちゃんだから。生きた判断は、柑夏ちゃんにしかできないよ」
「…………」
耳を塞ぎたかった。聞きたくなかった。そんなこと言われたくなかった。
でも香葡先輩は、私を甘やかしてはくれるけれど、言うべきことは言う人だ。
優しく穏やかに、けれど私に必要なことを伝えてくれる人。
それがどんなに、私にとって辛い現実でも。
私はそんな香葡先輩が好きなのだから。
目を瞑り、耳を塞ぎ、顔を背けることはできない。
私が、一緒にいたいと願っているのだから。
「……私が決めたことが、間違っていたら。そうしたら、どうすればいいんでしょうか」
「反省して次に活かせばいい!っていうのは、ちょっと無責任だね。でもね、失敗は噛み締めるしかないんだよ」
「そのせいで、陰山さんを傷付けたり、苦しめたりすることに、なるかも……」
「うん。でも、誰も傷つけないで生きていくのは、難しいから。自分のことも、ね」
香葡先輩は少し寂しげに微笑んで、私の頬に手を添えた。
「人に関わるということは、喜びを分かち合うことでもあるけれど、傷つけ合うリスクを背負うことでもあると、私は思うよ。柑夏ちゃんはどっちも手放す? それとも……?」
私はずっと、前者の方を選んできた。
人と関わることを避け、喜びを得ない代わりに苦しみも負わないようにしてきた。
香葡先輩に出会って、人といる喜びを得ながらも、決断とその責任を先輩に押し付けてきた。
そうやって何となく、私にも何かができるような、そんな錯覚に得て満足していた。
香葡先輩に言われた通り人の話を聞いて、言われた通りに行動して、言われた通りの結果を見届けた。
それが心地よくて、ずっと甘えてきた。それが幸せだった。
先輩のことが好きだから。大好きだから。
でもそんな香葡先輩が言う。自分で決めろと。
そんなこと言ってほしくないのに。
私のことをずっと支えて欲しいのに。守って欲しいのに。助けて欲しいのに。
そんな見捨てるようなこと、言わないで欲しい。
情けなくオロオロとする私に、香葡先輩は笑顔を向けた。
それは決して困ったようなものではなくて。
私が大好きな、暖かく柔らかい優しい笑顔。
「今回、一番大切なことはね。柑夏ちゃんが李々子ちゃんの味方でい続けることだよ」
「え……?」
「柑夏ちゃんが味方であり続けて、助けたいと思ってしたことなら、どんな結果でも受け入れられるよ。李々子ちゃんも、もちろん柑夏ちゃんもね」
香葡先輩は、私の頭をまた優しく撫でる。
いつもそうしてくれるように。いつも、私を助けてくれる時のように。
「最後まで李々子ちゃんの味方でいてあげて? 私が、いつまでだって柑夏ちゃんの味方であるみたいにね」
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