病めるときも2
小学校を卒業と同時に結斗は音楽を辞めてしまったけど、純は中学に入ってもピアノを続けていた。
相変わらず週に一回くらいはお互いの家に遊びに行っていた。純はコンクールに出たとか、こんな曲をやっているといった話をいつもしてくれた。
課題曲の曲想だとか、作曲家の楽しい話。
音楽を辞めたけど、こういうとき自分も習っていて良かったと感じていた。全部じゃないけど純の話を理解出来た。
習っているときは、つらいばかりで楽しいことなんて全然なかったけど。
これが音楽と真摯に向き合って自分が掴んだものだと思った。
結斗が音楽の習い事を辞めても自分たちの関係は何も変わっていなかった。
強いて変わったところをあげるとすれば、昔みたいに一緒に音楽の宿題をしなくなったとか、お互い以外にも学校で友達が出来たくらい。
中学一年生は同じクラスだった。二年生は別のクラスで少しだけ離れた。
結斗は寂しいけど、この先ゆっくりと自分と純の時間は減っていくのだと思った。それが自然なんだって薄々気づき始めた。
結斗には純がいて純には結斗がいる。物心つく前から、そばにいたから近くにいるのが当たり前。だから、どんなに一緒にいる時間が少なくなってもゼロになる未来は少しも想像出来なかった。
それが兄離れや弟離れが出来ないみたいな感情じゃないと気づいたのは「純がおかしくなった」ことがきっかけだった。
その日、純の家にいくと由美子さんはちょうど出かけるところだった。遊びに来た結斗と玄関で入れ違い。
だから家にいたのは純だけ。
地下にある純の部屋に行くと、いつもはピアノの防音のためと、きっちりとしまっている純の部屋の扉が少し開いていた。
床の上には楽譜が散乱していて、純は床の上に座り込んで色のない顔をして地面を睨んでいた。いつだって整っているサラサラの髪が乱れて頬にかかっている。
その表情には既視感があった。
小学校のとき純の家に歌の宿題を持って遊びに行った日だ。
「……純?」
けれど、結斗が呼ぶとすぐに、いつも通りに笑おうとした。けれど、その笑顔は口角が上がったに過ぎず歪なものだった。
結斗は本能的に、ヤバいと感じた。
忘れもしない。最後のクリスマス公演。結斗が苦しかったときに、純はそばにいて手を握ってくれた。自分はそれが出来なかったんだと気付いた。
あの日、結斗は一人心に決めていた。音楽と正しく向き合っている純をそばで支えたい。けれど考えただけで実際は何も出来ていなかった。
自分一人だけ音楽をやめてしまったから気づけなかった。
一人ぼっちの誰にも届かない音楽は寂しいって知っていたのに。
ちゃんと俺には純の音は届いてるよって、毎日飽きるほど純のピアノが大好きだって伝えようって思っていたのに。
結斗は後悔した。
「――結斗、ごめん。今日は帰って。練習しないといけなくて。コンクールある」
初めて聞く純の暗い声だった。純は結斗に背を向けて落ちた楽譜を拾い始める。
その姿を見て、反射的に結斗は純の背中に抱きついていた。昔、結斗が泣いていた時に隣でいてくれたように、やり方は違うけど結斗も同じようにした。
もう小学生でもないし体も大きくなっている。
けど子供でも大人でも純だけは関係ないと思った。純だけが特別。
周りに純の友達がいたら、こんな小さな子供みたいなことはしなかった。
今この部屋には結斗と純しかいなかった。由美子さんもいない。
自分が泣いたときのように純だって泣きたいときは泣けばいいと思った。けれど抱きついたのは後ろから。これでは胸を貸すというより自分が純に背中を借りているみたいだ。
「帰らない」
純は自分のお腹に回された結斗の手の甲を指でトントンと優しく叩いてきた。
「ゆーい、帰って。今日はピアノの勉強がしたいんだよ」
「嫌だ。一緒にいる。絶対」
今日だけは帰っちゃいけないと思った。
「何、赤ちゃん返り? 重いよ。つかなんで、お前泣いてんの」
言われて気付いた。結斗はポロポロと涙を落として泣いていた。きっと昔の辛かったことを取り留めなく思い出したから。
「分かれよ。俺のことくらい」
「王様かよ。横暴だなぁ」
泣くつもりは無かった。けれど純の背中に抱きついていたら、背中から純の感情が流れこんでくるみたいで勝手に涙があふれてきた。
「……いいよ」
「だから、なーに」
「ピアノ、やめてもいいよ」
「なんで、結斗が俺に許可するんだよ」
純は結斗の腕の拘束を解かずに、あの時と同じように好きにさせてくれた。
自分が純を元気付けるつもりだったのに結局なぐさめられている。
「だって、純つらいんだろ。俺は純のピアノ大好きだよ。純が楽しくピアノ弾かなくなったら嫌だよ」
「そっか」
純はゆっくりと頷いた。
「純が悲しいのは嫌だ。俺が好きな純のピアノじゃなくなるのも嫌だ」
「結には何で分かるのかな。――俺の今の気持ち。俺、何も言ってないよね」
「……ずっと一緒に、いたからだよ」
ぐすぐすと泣きじゃくる声に混じって答える。
「そーだね。もう泣くなよ」
純を特別と思う結斗の気持ちが純を幸せに出来たらいいのにと思う。
「ピアノの宿題もコンクールもやめろよ。俺の前だけで弾いてよ、好きならどこでだってピアノは弾けるじゃん」
それは、かつて自分の母親が言った言葉だった。歌が好きならどこでも歌える。
同じことを純に言っていた。
「結斗」
純は結斗の手をぎゅっと握った。その手の冷たさが胸に刺さるように痛かった。
「結斗、俺のピアノ、誰にも届かないんだって。全然駄目だってさ」
「ダメ」
「結斗が好きって言ってくれた音なのに。先生、ダメだって。だからもう弾けないよ。弾くの、つらい」
「……純」
「苦しいな。音楽と向き合うって。好きなだけじゃいられないよ」
「うん」
昔、結斗も同じだった。全部が嫌いになりそうだった。
純がいたから、今も歌を音楽を好きでいられる。
「こんなに好きなのに、嫌いになる」
結斗は、まだ教室や舞台袖で聴いた怖い音を覚えていた。
冷たく張りつめた教室に響く怒声。本番前の通し稽古で泣き叫ぶ小さな子供の声。
そんなところに純がいるんだと思うと耐えられなかった。
今まで一度だって、純の音が駄目だったことなんてなかった。純の音楽は結斗にとって、なくてはならないものだった。
ピアノが嫌いになるくらいなら、練習もコンクールも辞めた方がいい。それが正解と疑ってもいなかった。
「俺が全部聴くよ。他の誰がダメって言ったって。純が嫌だって言ってもずっと聴くから、だから」
言葉が続かなかった。
「うん。ありがとう」
どれくらいそうしていただろうか。ふっと純の背から結斗の胸に伝わる音が変わった気がした。
小さな子供みたいに純に甘えていた。
同じ年でも結局のところ純が兄で、結斗が弟みたいなものだった。
「――そうだな。俺ピアノは好きだよ。結が好きって言ってくれた音が好きだ。間違いなんて思いたくない。絶対」
「うん」
「だから、俺は演奏家にはならない。ピアノをずっと好きでいたいから」
結斗は純の決意を背中で聞いていた。
「結斗。ありがとう」
結斗は別に純に感謝されるようなことは何ひとつしていなかった。
文字通り赤ちゃんのようにぐずって、純がつらいのが嫌だと言っていただけ。
純は背中に引っ付いていた結斗を引き離して振り返る。
「純?」
二人して楽譜の散らばった床の上に座っている。純は結斗の顔を真正面から見た。同じように泣いていると思っていたのに、純の変化は目を少しだけ赤くしているだけで涙は流していなかった。
こっちは泣いて顔面ぐちゃぐちゃなのに。ちょっと悔しい。
純の三重瞼。目の下に長いまつ毛の影が落ちている。薄いピンク色の唇が綺麗に弧を描く。
純は、もういつもと同じように笑っていた。仕方ないなって少し揶揄うような声。
「ほら泣くなよ。お前いくつだよ」
「純と同じ」
学校の制服の下に着ている白のセーターの袖で涙を拭われる。けれど涙は止まらない。
「だよなぁ」
純はそう言って、なんだかばつのわるいような顔した。
その後、なんの前触れもなく涙で濡れていた結斗の頬に唇を押し当ててきた。
「純?」
その唇の温度は握り返されていた純の左の手のひらと同じ温度だった。
さっきまで冷たかったのに熱が戻っている。温かい手。
――き、キス、された?
その事実に気づいたあと結斗の頬が熱くなった。純の唇の温度が思い出せないくらい。
「ゆーい、涙止まった?」
くしゃりと頭を撫でられる。
驚いて涙が引っ込んでいた。
「ば、バカだろ、な、何やってんの」
「びっくりすれば、涙って止まるだろ」
実際止まったから言われるままに頷いていたし怒るのも変な気がして「そうかよ」と返した。
純にキスをされたことより中学生にもなって幼馴染の前でボロ泣きしたことの方が恥ずかしかった。
純の前では、たくさん恥ずかしい自分を晒していた。
幼稚園のときは漏らしたこともあったし、例のクリスマスの件で服に吐いたこともあった。純の家の前の坂で自転車で転んで骨折とか。
恥ずかしい姿なら数えきれないくらい見せている。
恥ずかしいけど今更キス一つ追加されたくらいで大騒ぎするほどじゃない。
純に関して結斗は自他の境界が曖昧だった。
半分が純だった。
純が悲しいと悲しいし、嬉しいと嬉しかった。
そんな出来事があってしばらくたった頃。
本当に純がピアノ教室を辞めたと聞いて、結斗は急に冷静になって自分がした過ちに気がついた。「つらいならやめればいい」なんて、本気で音楽をやっている人間に他人が口出していいことじゃなかった。
結斗は純が苦しそうに一人でピアノを弾いている姿をみたくなかった。
ただそれだけの理由。
結斗のわがままで純のピアニストとしての未来を奪った。
そのことをいつか純に責められる気がしている。
――その時が純と離れるときなんだろうか。
罪の意識は長い間持っていた。同時に、その日が未来永劫ずっと来なければいいと思っていた。
自分だけの純でいてくれることが、この上なく幸せだったから。
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