病めるときも1



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 今日は夕方も夜も昔の夢ばっかりみるなぁと思った。クリスマスなんて母親が言ったからだ。

 結斗は子供の頃クリスマスにあまりいい思い出がない。

 あるにはあったが、それは小学校低学年までだ。

 合唱団へ歌を習いに行くまでは家族でケーキを食べたりしていた。父もまだ単身赴任をしていなかったし、毎日家に帰ってきていた。

 サンタの存在に関係なく一ヶ月くらい前から毎日何かしらの小さな楽しみがあって、その先の冬休みもワクワクと心待ちにしていた。


 結斗は小学校三年生から、クリスマス近くになると市のホールで定期公演会に出ることが恒例になっていた。

 そのためクリスマス前は普段より忙しく練習時間が長くなっていた。

 本番前は一日通しでゲネプロがありクリスマスイブには本番。

 子供の体力集中力なんてものは、ある程度の慣れや訓練で鍛えられても、基本的には大人ほど強靭ではない。

 何か「目指すもの」がある子供なら耐えられても「楽しい」だけが理由だと苦痛になる。

 大人になれば当たり前だとわかることも、子供の結斗にはその「当たり前」が分からなかった。

 結斗のことを繊細だと母親や純は言っていたが、結斗からすれば単純で頑固なだけだった。

 一度始めたことを自分から辞めるなんて言えなかった。

 クリスマスの公演が終わっても冬休みには合宿練習。結斗は、あれほど好きだった歌うことが苦痛になり始めていた。もちろん習っていた当時は、それが苦痛とも気付いていなかったけど。


 ――加減を知らないバカだったから。


 習い事に関して両親は反対しなかったが、元々音楽に興味もなかった。

 子供が定期公演に出る場合でも、それは同じ。無関心が興味に変わることはなかった。もちろん帰りが遅くなる時は必ず練習場まで迎えに来てくれた。


 結斗の生活が音楽中心になるにつれ、クリスマスや年末の楽しいイベント行事は全て親や純と離れて過ごす時間に変わっていた。

 もし習い事で一緒の目標を持った友達がいれば居場所になったかもしれない。けれど何年通っても居心地が悪く、いつしかクリスマスは結斗にとって「寂しい時間」に変わっていた。


 クリスマスの公演は毎年同じだった。

 『くるみ割り人形』だ。


 自分たちの所属する合唱団だけでなく市の交響楽団、バレエ団やピアノ教室と合同で行われるものだった。

 基本的にはバレエが中心だ。あいだにピアノや歌などが入る演出構成になっている。

 初めの頃は物珍しい迷路のような舞台裏や地下にある秘密基地みたいな待機場に興味津々だった。狭い練習場じゃない大ホールにだってワクワクしていたと思う。

 結斗が習い事を辞めた最後の年は、本番前から昼ごはんも食べられないほどに気落ちしていた。

 連日の厳しい練習に疲れていたし、神経がビリビリと張り詰めていた。



 その年はピアノの演奏で純も出演することになっていた。

 今年は純に会えるんだと思うとそれだけが楽しみだった。終わったら由美子さんの車で純と一緒に帰る約束をしていた。

 本番前の昼休み時間だった。

 朝から体調が悪かったし、気持ち悪くて結局ご飯は食べられなかった。

 結斗はロビーに漏れ聞こえる音に誘われ一人でふらりと大ホールに入りこんだ。目の前ではバレエの『金平糖の精の踊り』の最終演出の調整中だった。舞台の前には、たくさんの楽器が並んでいる。

 赤いベロアの客席。結斗は一番後ろの席に座った。近くに座っていたのはバレエ団の保護者たちだった。演者をじっと見守っている。

 そこに大きな声が割り込んだ。


 ――XXXちゃん! それじゃあ、飛べてない! 低い! 妖精に見えないでしょう。

 ――さっきも言いました! なんで出来ないの? そんなので今日の舞台立てると思ってる?


 ヒステリックな先生の金切り声とパンパンと殴るように拍を取る手拍子の音が客席まで響く。

 『金平糖の精の踊り』は、去年舞台袖から観て楽しい気分になって大好きだった。

 結斗が大好きな曲だった。

 大好きな音が嫌いな音になる。鼓膜に傷のように記憶が残る。

 楽しくて自由な音が一つまた一つと消えていく。耳を塞げば良かった。後悔した。

 美しい音楽の舞台裏なんて知らなければ良かった。

 自分は自由で楽しいだけで良かったのに。

 楽しかった記憶が一瞬で怖い記憶に塗り替わった気がした。

 自分の歌の先生も練習のときは同じように厳しくひどいことを言う人だった。子供だからと容赦はしたりはしない。


 それが音楽と真摯に向き合うことだと教えられた。

 音楽と真摯に向き合うと、その先に何があるんだろうといつも思っていた。

 いつかこの苦しいが楽しいと嬉しいに変わるんだろうか。純と一緒に、もっと楽しい時間が過ごせるんだろうか。

 誰も答えなんて教えてくれない。

 ずっと暗く細い道を孤独に歩いている気がした。


 結斗の家が、もし音楽をする家だったら両親は自分を支えてくれただろうか。

 純は寂しくても、あの地下の部屋で今も音楽と向き合っているんだろうか。

 あんなに綺麗で楽しい音を結斗へ届けてくれるのに。結斗と同じような苦しみを感じているんだろうか。

 もしそうなら、いますぐ純を抱きしめたいと思った。

 ちゃんと俺には純の音は届いてるよって、毎日飽きるほど純のピアノが大好きだって伝えたいと思った。

 一人ぽっちの誰にも届かない音楽は寂しい。


「冷たい、音だ。痛い」


 ぽつりと誰にも聞こえない声。客席でひとり呟いていた。

 心が冷えていく。

 芸術なんて、どことも「そういうもの」なんだと結斗は知った。

 休憩のつもりで遊びにきたのに、雰囲気にのまれて休憩前よりも疲れていた。

 結斗は人より音の感じ方が繊細だったかもしれない。

 外へ出ても、舞台裏ではレッスンに熱心な母親に怒られている子供たちに遭遇した。

 結斗が怒られているわけでもないのに、嫌な気持ちでいっぱいになった。

 あんなに厳しい練習を乗り越えて今日という日を迎えたのに、結斗は本番中ずっと上の空だった。



  公演後、先生の講評が終わり、純と待ち合わせをしていたロビーのソファーまで辿りつくと、急に身体中、全部の力が抜けて座りこんだ。

 結斗が今日歌ったのは、ベートヴェン第九『喜びの歌』だった。

 幸せな歌なのに全然違う音になった。

 ずっと耳の奥にガンガンと不快な音が残っている。

 待合ロビーの高い天井とシャンデリアを見上げていた。

 ふと階段下の入り口を見た。入り口は開け放たれ、十二月の冷たい空気がロビーまで流れ込んでくる。

 本番前に一方的に怒られて、歯を食いしばって耐えていた子供たちが、にこにこ楽しそうに花束を抱えて出口に向かっていく様子が、なんだか気持ち悪いなと思った。

 花を渡されたくらいで、嫌な気持ちがゼロになるなんて嘘だと思った。

 毎年、公演後は少しだけ暗い気持ちになっていたけれど、五年生になった年は去年の比じゃなかった。その日まで気づかないふりしていた嫌な感情の積み重ねが、どっと波のように押し寄せてきた。


 多分限界だったんだと思う。

 音楽に真摯に向き合い続けること。

 純の顔をみた途端に、抑えていた感情が溢れてきて止まらなくなった。


「結斗、お待たせ、帰ろー」


 結斗の前に他の出演者と同じように花束を持ってやってきた純を見て急に寂しくなった。目の前に純がいるのに、急に自分がこの世界にひとりぼっちのような気がした。

 それでも、由美子さんの車に乗るまでは、いつも通り純とくだらない話をして無理して笑っていた。


「今日、客席で初めて結斗の歌聴いたよ」

「……うん。俺、純の聴けなかった。出演順真ん中だった」


 聴きたかった。純の楽しい音が。


「俺も今日はベートーヴェンだったんだけど――結斗?」

「うん」


 純は突然となりで静かになった結斗の顔を覗き込む。不思議そうな顔をしていた。

 運転席では由美子さんも「結くん、すごく上手だったよ」と言ってくれた。

 歌ならいつも純の前で歌っていた。親の前でも、いつも好き勝手に歌っていた。

 歌えるならなんだって、どこだっていいと思っていた。でも自分は違った。


 一人で歌うのが寂しかった。楽しくなかった。苦しかった。

 あの広い大ホールの客席で誰かが自分の歌を聴いていた。

 由美子さんが、純が。

 他の誰でもない一番聴いて欲しかった純が自分の歌を聴いてくれたのに、上の空で歌ってしまったことが悔しかった。

 せっかく練習したのにって、その瞬間、後悔した。

 何のために、誰のために頑張っていたのか。純のためだった。全部。

 とにかく泣きたかった。


 疲れと心細さがピークまできていた。結斗は、ぼろぼろと涙が溢れてくるのを自分で止められなかった。

 気付いたときには後部座席で隣に座っている純の胸にすがりついていた。

 うんと小さいときは抜きにして、由美子さんの前や純の前で取り乱すくらいに、べしょべしょに泣いたのは初めてだった。


「結斗、どうしたの」

「……つか……れた」


 そのかすかな声は多分純にしか聞こえていない。

 純の胸で、ひく、としゃくり上げた瞬間。決壊する。

 運転席にいた由美子さんには、突然泣き出した結斗がミラー越しにしか見えていなかったと思う。

 純は、すごく驚いていたけれど、しがみ付いてきた結斗を引き離したりしなかった。

 好きに泣かせてくれた。

 自分の心の声を説明する言葉が見つからなくて一番近い感情が「疲れた」だった。

 ピアノの発表会で純はいい服を着ていた。その服を涙と胃液を吐いて汚した。けれど、純はなにも言わずに背中と頭を撫でて手を握ってくれた。


「どうしたの、大丈夫? 結くん」

「……母さん、結斗、調子悪いみたい」

「まぁ大変。亜希ちゃん迎えに来るまでうちで寝たらいいよ」

「……大丈夫だよ。結」


 結斗の耳元で純があやすように言った「大丈夫」って繰り返す優しい声が温かかった。

 冷たかった体の温度が上がる。公演会場の空気に当てられて泣いていた自分は段々と落ち着きを取り戻していた。



 純の家に着くと自分の家じゃないのに、自分の家みたいに由美子さんと純に世話されてしまった。

 あったかいココアを飲んだあたりから公演会場で感じていた、よく分からない不安は消えていた。

 そして、もう大丈夫だって言ったのに、純に手を引かれて地下の純の部屋のベッドに押し込められた。


「ねぇ結斗、歌嫌いになった?」


 純に嫌いかどうか聞かれて、好きだとすぐに答えられなかった。


「――分かんない」

「今日さ、会場のピアノすごい良かったよ。明るくて、楽しい音だった」


 結斗は布団から頭を出してピアノの前に座る純を見た。たくさん弾いて家に帰ってもピアノの前に座る純は本当にピアノが好きなんだと思った。

 結斗だって少し前まで同じだった。今は違うけど。


「ねぇ。俺、今日純の演奏聴けなかったから、弾いてよ」

「トルコ行進曲?」

「くるみ割り人形」

「ピアノじゃなくてオケじゃん、もういっぱい素敵な演奏聴いたのに?」

「純のがいい、純の音が聴きたい」


 駄々っ子のように純の音楽を欲しがった。


「いいよ」


 純は『くるみ割り人形』の序曲を少し小さな音で弾き始める。体調が悪かった結斗に気を使っているのだとわかった。

 あんなに耳がタコになるくらい聴いて、もうクリスマスに『くるみ割り人形』なんてうんざりだった。けれど純が弾くとちゃんと舞台袖で聴いた時と同じワクワクとドキドキが蘇ってきた。


 キラキラした音。楽しい音。

 耳を擘くような、あの嫌な音が綺麗に消えていった。

 演奏はバレエの演目順に続き、二部に聴いた『ロシアの踊り』で、結斗はすっかり元気になって純の横に座って歌いながら笑っていた。

 本当に結斗は、単純だと思う。

 単純だったからクリスマスイブの苦しかった思い出は、純のピアノで楽しい思い出に変わった。

 音楽ってすごいなって思った。人の気持ちをこんなに変えられるんだって思った。



 だから何もなければ、来年も結斗は嫌な気持ちを抱えながら歌の習い事を続けていた。

 けれど由美子さんがあの日、母親へ何か伝えたらしく帰り道で「歌を辞めなさい」と言われた。

 結斗の音楽に母親は終始無関心だった。

 だから、それが例え辞めろという形でも結斗の音楽に初めて家族が関わってくれたことに、内心少しだけ、ほっとしていた気がする。

 多分、あのままだと音楽自体が嫌いになっていたし、母の判断は正しかった。

 クラスが上がれば海外への演奏旅行もある。それに関連するお金や、親のサポートも必要になる。

 あとから純に聞いたけど、由美子さんは、自分が通っている教室や練習について結斗の母親に全部伝えたらしい。あそこのお教室は大変よ、みたいなこと。 

 反対しても結斗が続けると言えば親も嫌々ながら協力してくれただろうし、本気で音楽をやると言ったならマンションだって引っ越して、ピアノも買ってレッスンへ行かせてくれたかもしれない。想像だけど。

 でもその時点で親の反対を押し切る理由が結斗になかった。

 結斗は、母親に言われて初めてこの先、自分がどうしたいのかわかった。


 ――歌なら、どこでも歌えるのに、どうして結斗は、習い事を続けたいのか、お母さんに説明できる?


 楽しく歌っていたいだけ。純と一緒にいたかった。一緒に遊びたかった。

 結斗が音楽を始めた理由なんて、結局それだけだった。

 結局「好き」以外に続ける明確な理由も目的も母親に説明が出来なかった。

 結果的に、結斗は納得して次の年、習い事を辞めたし、シニアクラスに上がる入団試験も受けなかった。

 結斗はクリスマスに、あまりいい思い出がない。

 けれど全部が悪い思い出にならなかったのは、やっぱり純が隣にいたからだと思っている。

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