犬浄土

のべたん。

犬浄土

 生前犬を愛した衆生が死後ゆく浄土を『犬浄土』という。

 舐めるように白波の打ち寄せる穏やかな波打ち際がどこまでも広がり、ゆるやかに吹く潮風が、肌に心地のよい浄土で、そこでは、生前愛した衆生の犬が、尻尾を振って舌をだし、貴方のことを待っている。

 本来、畜生の身である犬は、浄土へいくことはできない、しかしながら、愛した犬が救われないことには往生はしないという衆生のために、仏は、格別の慈をもって衆生とその愛犬を浄土へ成仏させるのである。

 さて、あなたの手にはいつの間にか、思い出の匂いが染み込んだ、あかいリードが握られている。それを、慣れた手つきで愛犬の首輪につけてあげる、と、愛犬はいっそう瞳をきらきら輝かせ、あのときの、懐かしい甘えた声をだしてあなたを呼ぶ、あなたは、たまらず抱きしめて、そのふかふかとした毛と、小麦畑のような芳しい匂いを懐かしみ、お前がいない間どれだけ苦しかったかを、涙ながらに伝えるのだ。

 ふと気がつくと、あたりには幾人もの衆生とその愛犬たちが、穏やかな海辺を散歩している。その姿は、影絵のようにも見える。

 あなたも、それにならって、愛犬といっしょに波打ち際を歩く。

 なめしたような柔らかい砂地のうえに、あなたの足跡と、愛犬のちいさな足跡が、ならんで黒く、ぽてぽて残る、が、やがてすこし大きな波がきて、それらはすべてきれいに消し去られる。

 砂浜は、どこまでもいっても果てがない。

 反対側から来た愛犬家と軽く会釈する。犬同士がからだで触れ合う。愛犬家にとってその触れ合いを見ることは心に正しい行いとされ、このとき手を合わせて祈ることで、功徳を積み、来世で報われるといわれている。


 生前あなたはこの世でただ唯一の、あなたの愛犬と出会い、様々な出来事を経験して喜怒哀楽を共にしてきた。あなたより生きることの短い期間を、あなたに捧げ、まっとうしたのだから、あなたの愛犬が救われないことには、あなたも救われず、それはすべての衆生を救うとの約束に反することであるから、あなたの愛した犬は必ずや救われると考えるのは、至極当然なことである。


 しばらく歩くと砂浜に、生前愛犬が好きだったおもちゃが、はんぶん埋まった状態であるのを見つける、それは赤いボールであったり、茶色く大きな骨だったり、ぼろぼろになったぬいぐるみであったりするのだが、それらを一緒に砂から掘り出している間じゅう、あなたには愛犬と過ごした数えきれないほど幸福な日々が甦り、知らず知らずに大粒の涙が頬を濡らしているが、愛犬がそれをざらざらした舌で舐めとってくれる。

 ひとしきり一緒に遊んだあと、おもちゃを咥えた愛犬とならんで腰をおろし、薄桃色の靄のかかった対岸を眺めていると、幽かに甘いにおいが鼻先を掠め、どこかであなたを呼ぶ声がする。

 すると靄の向こうから、一艘の渡し舟が現れる。船首に立ち、櫓を水に沈めて左右に動かしながら、ゆっくりとこちらにやってくる、笠を目深にかぶった男が、あなたを呼んでいるのだ。男の傍には、艶のある、黒くて三角形の耳の犬が、お座りしていていて行儀がよい。彼も愛犬家であることが分かる。

 本来浄土とは、そこへ留まるようなところではない。そこは会いたいひとに会い、また去っていくところである。故にあなたもまた、この浄土を去らなければならない。

 男が舟から手を伸ばす。その手を拒絶してはならない。その手を掴んで舟にのりこみ、向こう岸へと渡らなければならない。しかし、残念なことに、あなたは愛犬を連れていくことはできない。

 浄土に留まるとは、無量のあいだ、そこに縛られることである。なにかに執着することは、悟りから離れた状態であるからだ。それでもここに留まるというならば、この男のように船頭になる他はない。

 それを知っている愛犬は、あなたに行けと目でいうけれど、嘘がつけないので寂しそうに瞳を震わせ、尾はだらりと垂れ下がっている。

 そしてあなたは浜辺であなたを見守る愛犬と、二度目の別れをすることになる。それは身体がふたつに裂かれるほどの痛みだろう。しかし耐えねばならぬ。

 舟が岸からゆっくり離れる。あなたは何度も何度も愛犬の名を呼ぶ、その度にあなたの愛犬は答えてくれる。やがてその姿がちいさく見えなくなり、あなたを呼ぶ声が聞こえなくなっても、あなたは、愛犬の名前を呼び続けなければならない。諦めてはいけない。あなたは、喉が枯れ、たとえ真っ赤な血が出ても、声をあげることを止めてはならない。なぜなら、その声は祈りの言葉となって、世界の理、宇宙の真理を越え、いつかまた、必ずや生まれ変わったあなたの愛犬の元まで届き、運命という因果によって再び会いまみえ、未来永劫あなたと共に生きるのだから。

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