第2話 五三〇〇年〇八月二十七日 ②

 地球環境に適応すべく行った最初の変更は、この景色に心を奪われない程度の感銘を心に刻むことだった。


 ギザついたオレンジの岩肌を柔らかな風が撫でた。壁面には地層が折り重なって出来上がった縞々模様があり、惑星の歩んだ時間が記録されている。広大なメサの大地は、かつてそこにあった文明の一切を感じさせず、自然なままに衰え、栄え、流転した、その一瞬を切り取ってそこにあった。

 ここを大渓谷グランドキャニオンと呼ぶことは、事前準備の段階で知っていた。より険しい自然環境にある渓谷を、惑星ごと巡ったガラップにとって、それはどんなに大袈裟な表現だろうか。しかし、変更済みのアイデンティティは、いとも容易くその名前を受け入れさせた。

 ガラップは文明の跡地に出向くときには、毎度その文明の名称や価値観をインストールしておくようにしてある。それは探索において、彼らの感覚でいた方が残骸を発見しやすいという理由もあるが、そこに栄えた文明と惑星への敬意も含んでいる。

 ガラップが産まれたときには、すでに国家は惑星の上に無かった。正真正銘の恒星間文明生まれであるガラップにとって、惑星生まれは憧れの対象であり、敬意を示すべき対象だ。それは国家を打ち上げた惑星出身者の大半が、上級市民となっていることも関係しているのかもしれない。


「感動の時間は終わった?」クルルは呆れたように、「じゃ、そろそろ磁気探査から始めよう」

「いや、まずは自分の視覚で探す。というか、毎度そうしてるだろ?」

「ああ、そういえばそうだったね、忘れていたよ」


 適当な会話を継続しつつ、ガラップは岩がちな斜面を慎重に降りた。他の惑星で見たメサの渓谷にはない種の植生が広がっている。


「ここの植物はどれもトゲトゲしいな。それに背が低い」

「そいつらは芸術になりそう?」

「……いいや、彼らの趣味じゃないだろう」ガラップは高名な芸術家であるレフレイ・コーレンの作品に想いを馳せ、「彼らはもっと、文明的で破滅的なものをご所望だ」


 恐らく、かつて川が通っていたであろう渓谷の底を歩いた。

 野鳥が視界の端を遮って先を往く。尻尾と目が大きい小動物が、足元をチョロチョロと動き回って、すぐにどこかへと逃げた。遠くには急斜面を登る丸まった角を持つ四足歩行の生き物がおり、肉食獣と思われるしなやかな肢体の生き物がそいつを追っている。


「やはり動物のいる惑星はおもしろいな」ガラップは笑みを浮かべて、「クルルはどう?」

「私のアイデンティティでも同じだよ。それも単純な水生生物ではなく、地上の獣! 心が踊るね。DNAを持ち帰りなよ、きっと誰かに売れる」

「残念ながら、今回の装備じゃ傷つけずに採取するのは難しそうだ」

「傷つけない、ねぇ……それも今回の変更点の一つかい? 旧文明と惑星への敬意の現われ?」

「……これはどちらかといえば信仰心に基づく博愛感情だろう。文明が便利を究めて堕落に進むのと反対に、自然は険しさに抗して努力を身に着ける。だから、自然に生きる全てには神の加護があると信じているし、そう変更を加えた。実際に神の意志に反することで、何らかのペナルティがあるかどうかは重要じゃない。大事なのは、そのアイデンティティを持っている以上、利益追求という欲求は上位のものじゃなくなるんだ」

「とんでもないね。何のための仕事だよ」

「市民と国家のためだ。あとはほんのわずかに僕の生活」

「私の生活も含めてよ」そして、いたずらっぽく笑って、「……帰ってきたらキミの演説を聞かせてあげるよ。きっと探索前のアイデンティティじゃ悶え死ぬぜ」

「勝手にしなよ。世は全てこともなし、だ」そう言って得意げに鼻を鳴らしたガラップは、突然立ち止まると、「と、無駄話は一旦おしまいだな」


 ガラップは露出した岩壁に近づくと、妙な出っ張りのある部分に狙いを定めた。背中に背負ったバックパックから、掌にいくつもの突起がついたグローブを取り出す。


「『掘削機』は要らない?」

「ああ、文明圏の範囲なら、まだ地層と呼べるほど十分な時間が経っているわけじゃない。そんなに硬くないさ」


 グローブをめ、ごしごしと岩肌を撫でると、柔らかな部分が砂となって地面に落ちていく。数分も作業を続けると出っ張りの先端が現れ、さらに数十分かけて全体を引き出した。


「金属棒?」クルルは興味なさげに、「それは芸術になりそう?」


 それはぐずぐずと錆びていて、側面に複雑な穴の開いたパイプ状の金属棒だった。大きさは地球文明規準のメートル法における五十センチメートル程度。具体的な用途は思い浮かばないが、どのような用途にも使われそうなシンプルな形をしている。


「ま、六ハオ程度で買い取ってくれたらいい方かな」

「水も買えないじゃないか」


 ガラップはそれに笑って返事をしながら、金属棒をバックパックに収納した。残骸を収集するためのスペースは、まだ二十分の一も埋まっていない。このスペースは取り外し可能なボックスになっていて、決まった時間にジェットで打ち出し、空中で回収機にキャッチしてもらう手筈になっている。もちろん、探索はそれで終わりではなく、折り畳み式のボックスを新たにセットし、さらなる残骸の回収に向かうのだ。


「とりあえず、ボウズじゃなくて一安心だ」

「どういう意味?」

「……地球文明のある地域で使われた釣り用語だよ。地球文明はアイデンティティを弄らなくてもおもしろい事柄が多いから、気が向いたらライブラリにアクセスしてみるといい。きっと気に入るものが見つかる」

「ああ、その言葉が変更後じゃなければ」クルルは嫌みっぽく、含みを持たせて「きっと、私の履歴は地球文明で埋まっていただろうね」

「不変漸近主義も難儀なものだね」ガラップはバックパックを背負い直すと、何に導かれることもなく、悠然と歩きだした。「そういうアイデンティティをインストールしたわけでもないんだろう?」

「そうだね。これは私のオリジナルな主義の筈だよ」

「そのオリジナルな主義を持つ同志がいったい何万人?」

「約二億人」

 ガラップは以前に聞いたときよりも一億九千五百万人ほど増えたその数字に感嘆を示して、「僕はトレンドに疎いようだ」

「中級市民のトレンドさ。知らなくても損はないし、知ったところでキミには不要だ」


 恒星間文明国家における仕事は、一回の勤務時間が数主観世紀を跨ぐことも少なくない。たとえ肉体がそれに耐える頑強さと、不老長寿を達成していようと、それだけの期間、自己同一性を自然なまま保つことは不可能に近いだろう。その為、各仕事に適した形にアイデンティティを変更することで、精神の崩壊を防ぐ手法が一般的にとられている。あらゆる種類の仕事に対して、それぞれ専用のノウハウを加えることで、たとえ初勤務であろうともベテランと同じ成果を上げることができる。それは知識のみならず、肉体経験、仕事に対する達成感、それに伴う幸福感一揃いを提供し、労働者の精神衛生の向上に努める。

 こうした理由から、より多くの種類の仕事をまたいで勤める下級市民にとって、アイデンティティの変更は至極当然の自己防衛となる。反対に、数百ミレニアムを芸術家や数学者といった、たった一つの仕事にのみ費やすことができる上級市民は、自身のアイデンティティを趣味と好みに従って変更を行う。あるいは、不変のアイデンティティに自ら陥る酔狂も、上級市民であれば可能だ。

 そんな二つの中間に位置するのが中級市民である。上級市民にのみ許された、不変に憧れるプライベートと、現実問題として変更しなくてはならない仕事との狭間で、持ち上がった思想が『不変漸近主義』だ。彼らの考えは、「可能な限りアイデンティティを不変な状態に近づけ、仕事は自身の自然なアイデンティティに沿ったものを選ぶべき」というものだ。多種多様ではあるが職業選択の余地などない下級市民や、そもそもプライベートと仕事に狭間などない上級市民には流行る筈もない。


「その通りだ」ガラップは慇懃いんぎんに頷いて言った。そして、意識的に大きめの声を出して、「さて、そろそろ仕事に戻ろう、このままじゃ稼ぎにならない」

「ああ、もう目視探索も十分だろう?」

「そうだね、ようやく仕事って感じだ」

「なら、そこから北西方向を目指して。この辺りは文明圏であっても自然的な場所だったようだから、芸術家の気に入るような残骸は殆どないよ」

 ガラップは腑に落ちた様子で、「なるほど、どうりで」そして疑う気持ちなど一切なく、「北西には文明の残骸があるんだ?」

「……あぁ、今のキミなら、地域名で言った方が分かりやすいか」


 クルルは個人環境にジャンプすると、自身を百倍に加速し、二百主観秒でライブラリから地名を調べ出した。


 二秒間の断絶の後、通信は回復し、クルルは発音に悩みつつ、「旧ネバダ州レイチェルだ」

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