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木春

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――そろそろ諡号を送るべきだ。

 そんなことを言い出したのは大君だったか、朝堂の官人であったか。誰が言い出したかはともかく、百官の間でそのような事が言われだしたのは事実であった。誰の諡号かって?それは勿論、二年前に崩御されたあの太上天皇のである。かの先帝は崩御される前に出家なされ、それ故に諡号が無かった。しかしそれではまぁ、なんとお呼びすれば良いのか、なんと表記すれば良いのか、分かりにくくて仕方がない。そこで大君もこの潮流に賛成し、藤原仲麻呂に案を出すように命じたのである。

 大君に命じられた仲麻呂は持ち前の知識と唐好みの性格から、まず漢風諡号を完成させた。『勝宝感神聖武皇帝』である。ただ一方で歴代の大君に並ぶ和風の諡号には頭を悩ませていた。なぜなら、かの先帝の真の名、つまり諱がさっぱり分からなかったからである。

「それなら、『おびと』ではないのか?」

 仲麻呂がそう中間報告として奏上するなり大君は睨むように目を鋭く細ませて言った。

 確かにそれは数々の先帝と関わりのあった者達からの聞き取りで出てきた《諱》である。ただ、どうやら…。

「どうやら、その名は先帝自身が忌み嫌い、徹底的に記録から消していたようなのです」

「父帝は何故そのようなことを……」

 大君は変わり者だった亡き父の行動に溜息を洩らしながら片肘をついた。

「分かりませぬ。分かりませぬが、もしかするとそれは幼少の頃の名……だったのやも知れません」

「ふむぅ……。どうしたものか……。あ、そうだ。母后には聞いてみたのか?」

「皇太后にですか…?聞いてはみたのですが………」

「みたが……?」

「今暫く待て、漢風の諡号を決めてから聞きに来い、と」

「また何故そんな事を………」

「さぁ…」

 今度は父に負けず劣らず変わり者の母の行動に大君は大きく溜息を洩らした。

「しかし、まぁ。それなら、今から聞きに行っても良いのではないか?」

「もう太后の体調はよろしいのですか?」

 仲麻呂はすかさず聞き直した。それもそのはず皇太后はこのところ体調を崩し、政務も休みがちとなっていたからだ。一方で大君も訝しげに仲麻呂へ訊ねる。

「だいぶ快復されたと聞いておる。なんだ、知らなかったのか?」

「はい。………いや、何故そのような訝しげな目で見るのですか。ご静養の邪魔になどなれませぬ。快復されたという報せを受けるまで謁見を控えておりました。では、行ってまいります」

「あぁ待て。私も行く」

そう言って大君と仲麻呂は皇太后の元へ向かった。



 皇太后宮は平城宮の外にある。太政官と並び立つ組織・紫微中台の本拠であり、先帝亡き後の政局運営におけるもう一つの力の源泉となっていた。されどその主は往年の光り輝く姿を潜め、今は身体を病み、半身を喪った哀しみを隠しきれぬ程に暗い空気を漂わせている。大君と仲麻呂が訪ねて行くと側仕えの女官達が出迎え、太后の元へと案内した。

「今、どこまで考えているのです?」

 太后は二人の姿を見て程々に挨拶を済ますなり、早速そう切り出した。

「太后の申された通り、まずは唐風の諡号より考えました。『勝宝感神聖武皇帝』にございます」

「……なるほど。良いではありませんか。その厳つい唐風の名は先帝も気に入りそうです」

 天を感して勝宝たる金を産出させるその信と、如何なる逆徒も畏れをなす聖なる武威。それらを備えた皇帝である。そんなような意味である事を理解した太后は、生前の先帝の姿を思い出したのだろうか。目元を緩ませて優しく微笑んだ。

「して、和は?」

「天璽国……」

「それから、押開……でしたわよね」

仲麻呂と大君とがそう続けると太后は目を瞑って呟いた。

「……桜彦」

「えっ?」

「その最後に、"桜彦"と付けて欲しいわ。良いですね?仲麻呂」

 太后の言葉に仲麻呂はハッとして言葉を繋いだ。そして、今、それを明かしたのにも何となく合点がいったのだった。

「やはり、知っておられたのですね。真名を」

「当然よ」

 そう言うと太后は東の空を眺め、少し目を緩ませて言った。

「だって私は、あの人の、最愛の妻ですもの」

 その言葉に応えるように、ゆらゆらと桜の花弁が舞い落ちて彼女の肩にそっと触れた。

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名前 木春 @tsubakinohana12

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