ショートケーキ(短編集)

伊勢

240203_恵方巻

「えっ! お前、恵方巻食べたことないの!?」


 仁は目を丸くしてこちらを見た。


「うん……変かな」

「変っつーか、なんで?」

「ママが恵方巻を嫌いだから」


 仁は眉根を寄せて「ああ、またそれか」と呆れたように言った。


「お前んちのかーちゃんってほんと厳しいよな」

「……だよね」


 僕はランドセルを肩ひもをぎゅっと握りしめて曖昧に笑う。


 ママは『みんながすきなものがきらい』な人だ。季節のイベントごとは大体そうで、節分はもちろん、バレンタインデー、ハロウィン、クリスマスなんかを特に目の敵にしている。あるときママは百貨店の地下で言い放った。


「いいこと、日向。あなたはあんな乱痴気騒ぎを起こす馬鹿な人間に成り下がっちゃだめよ。ほとんどのイベントは、歴史や伝統なんて何もない、大企業が仕掛けたただの販売戦略なの。思考停止してそれにまんまと踊らされるなんて愚かなことこの上ないわ」


 ママが指さした先には、高校生らしい制服の女の人が三人いた。チョコレートが並べられたショーケースを見ながらきゃいきゃいと笑顔で意見を出し合っている。僕はその光景を見ながら、楽しそうだなあ、いいなあ、と思ったばかりだった。

 その日の僕は少しだけ反抗的だった。だからそのとき思った自分の気持ちを、ママに素直に伝えようとした。


「ママ、でもね……」


 本人たちが楽しいんだったらいいじゃない。そう言いかけると、ママは何かを察したのか僕の手首をつかんだ。大人の本気の力はきりきりと痛くて怖い。反論しようとして喉元まで出かかった言葉はいつの間にかしぼんでいた。それから僕とママの二人は無言のまま百貨店から出て、早足で駅のコンコースを抜け、階段を上がって地上に出る。

 そのときの駅前の天気はいまだに覚えている。

雨が降る直前の曇り空で、湿度が異様に高くて不快な日だった。


「やっぱり地下は息苦しいわね」


 ママはようやく僕の手首を解放して、大きく背伸びをした。


「人間はやっぱり青空の下で自由でいないと。他者に縛られることなく、自分のしたいときに自分のしたいことをするのが一番だわ。そうよね、日向?」


 ママの強い視線を感じて僕は目を伏せた。足元にチラシが落ちている。バレンタインデー期間限定のチョコを売り出しますという洋菓子屋の宣伝だった。ママは意識せずにそれをハイヒールで踏んで歩いていく。


「帰りましょう、日向。都心はまだまだあなたに有害なものがありすぎるみたい──」


×××


「日向~。おい、聞いてんのか?」


 仁の声でハッと現実に戻る。いつの間にか冷や汗をかいていたようで、小学五年生にしては背の高い仁が僕の顔を覗き込んで「体調悪いんじゃねーんだろうな?」と心配そうな表情をする。


「ごめん、大丈夫。ぼーっとしてただけ……」

「ならいいけどよ」

「それで、ええっと、なんの話だったっけ」

「だからあそこ寄ろうぜって」


 仁は親指でクイッとコンビニを指さした。店前には『恵方巻当日割!』と書かれた手書きの張り紙がされている。恵方巻二本、四八〇円也。

 僕は困惑した。


「えっ、でも買い食いはだめだってママも学校も言ってるし……」

「バレなきゃいいってバレなきゃ!」


 それとも、と仁はニヤリと笑みを浮かべる。


「お前は一生、恵方巻の味を知りたくないのかよ?」

「えっ」


 仁の言い方に、少しだけドキドキする。

 確かにこのチャンスを逃したら一生恵方巻は食べられないのかもしれない。


「家じゃ絶対食えねえんだろ? 恵方巻はいいぜ。うまくて、何よりでかいから食べても食べてもまだなくならねえって感じが楽しくていい。意味わからん方向をむいて黙って食うっていうのも謎すぎて好きだ」

「でも……僕、お金も持ってないし……」

「それなら気にすんなよ」


 仁はランドセルを下ろすと、そこからがまぐちの財布を自慢げに取り出した。なかでは、じゃらりじゃらりと小銭の音が小気味よく響いている。


「仁、大金持ちだね!?」


 心の底からいうと仁は「だろ? お正月にばーちゃんに好きに使っていいってもらったんだ」と鼻高々に笑った。


「お前、もうすぐ誕生日だよな。ここは俺がおごってやる」

「本当にいいの?」

「今日くらいいいだろ。お前さえよければ」


 仁のいたずらっ子な視線に、僕は何度も頷く。

 そして――。

 僕らは初めて友だちだけでコンビニへ入り、恵方巻を買った。やってしまえばなんてことはなかった。コンビニ前のガードパイプに二人で座り、足をぶらつかせながら東北東に向かって恵方巻にかぶりつく。食べきれるまでしゃべっちゃだめという掟をちゃんと守りながら。


「どうよ、初めての恵方巻のお味は」


 早々に食べ終わった仁は、にやにやしながらこちらを見る。僕は恵方巻を何度も何度も噛み、嚥下して、ようやくしゃべれるようになってから大声で言った。


「おいしかった!」

「うわっ、米粒とんだ」

「わ、ごめん!」

「別にいいよ」


 僕たちは笑い合う。今が一番人生で楽しい。そう素直に伝えると、仁は「これからもっと楽しいことが待ってるぜ」としたり顔で言った。僕とあんまり変わらない時間しか生きていないはずなのに、この自信はなんだろう。でも仁の言葉には不思議と納得感があって、これからの人生が楽しみだと本気で思った。早く明日が来ないかな。明後日も明々後日すらも待ち遠しい。


 ちゃんと門限までに返ってきたので、ママからのお咎めは何もなかった。「おかえりなさい」といつも通りの言葉が返ってきただけだ。


 リビングに入ると、テレビは二〇二四年度の最新の恵方巻事情なるものをやっていて、ママは夕食を作りながら「またこんな馬鹿で下劣な特集を」とテレビに向かって吐き捨てていた。特集のなかには、さっき食べていたコンビニの恵方巻も紹介されている。僕はそれをちらりと横目で観ながらママに向かって「本当にそうだね」と笑った。ママの知らない、僕だけが知っている恵方巻の特別な味。

 この幸せは僕だけのもの。


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