【短編】大事な人との約束だから

陽麻

大事な人との約束だから

 ある日、夕暮れの公園で私は不思議な人にあった。


 


 それは、仕事が終わって疲れた身体を休めるために、公園に立ち寄ったことが発端だった。

 仕事がうまくいかず、上司に怒られ、さらに最近彼氏には振られ、心身ともに疲れ切っていた私は、普段入ることのない児童公園に足を踏みいれたのだ。

 ベージュ色のスーツがきつい。パンプスで歩くのも歩き疲れた。

 

 都心にある夕方の児童公園には子供の遊ぶ声などしない。もうすでに帰ってしまった子供たちの余韻を残して、静かに遊具がたたずんでいた。


 その静けさが今の私には心地いい。

 そう思って三人掛けのベンチの端にすわった。

 何か飲み物を買ってくれば良かった、と思いつつ冷たくなった手をこすり合わせる。

 びゅう、と冷たい風が吹く。

 

 こんなに寒い夕方に一人で公園にいるなんて、と自分でも思う。

 心の中で自嘲しながら一人で休んでいると、私と同じ歳くらいの青年が、私と同じベンチに座った。

 ベンチはたくさんあるし、空いているベンチに座ればいいのに、その人物はわざわざ私の座っているとこへと来たのだ。

 

 正直、うざったかった。

 だけど、いま席をたつ気力もなかった。


「コーヒー、のみませんか」


 するとその人物は、なにを思ったか私に缶コーヒーを勧めてきたのだ。


「……いえ、結構です」


 いまどき、知らない人から飲み物をもらう人なんているんだろうか。

 勧める方も勧めるほうだ。

 飲むわけがないじゃないか。


「間違えて二つ買っちゃったんです。俺はブラックが良かったのに微糖入りを買ってしまって」

「……ああ、そうだったんですか」


 ブラックは大抵真っ黒なパッケージだから正直間違えないと思うけれど、この人は間違えたんだ。


「最近はまたここも発展してきて色々なことが難しくなりました」

「……はあ」


 そうだろうか。この町は以前と変わらず都心の住宅地だと思うが。

 というか、色々なことって缶コーヒーを買うことも入っているのだろうか。

 

「昔とは着るものさえ、異なってしまった」


 そう言って男はうっすらと笑う。

 何年前の話をしているんだ、この男は。

 変な男だからもう席を立とうとしたけれど、つい、失恋したことや仕事の失敗の愚痴をこの男に話してしまおうかなと思った。

 変な男だからどう思われてもいいし、と。


「私、この前失恋したんです」


 言ってみると、意外にすんなり言葉が口にでた。

 

「へえ、奇遇です。俺も失恋したんです。100年前くらいに」


 やっぱり変な男だ。でもその顔は笑っていた。そして、本当に悲しそうで、溜息が出るほど美しく見えた。

 本当に100年間も、未だ想い続けているように哀愁に満ちているけれど、それでも彼女との思い出を大切にしてほほ笑むような笑顔。

 

 その顔は妻に先立たれた年老いた男が見せるような顔なのではないかと思う。


 だから私はもう少し、この男と話をしてみたくなった。


「どんな人だったんですか」

「そうですね、彼女は女だてらに気の強い、気丈な人でした。でも笑うと可愛くて、そんな彼女が好きでね。それと彼女はあんみつが好きでね」


「あ、私もあんみつ、好きです。うちの母さんもおばあちゃんも好きで家でもよく作ってました」


 意外な偶然の一致で、少しだけ話が通じる。


「コーヒー、やっぱり飲みませんか?」


 彼は微糖コーヒーを私に渡そうとしたけれど、それを私はまた断る。




「いりませんか。それでですね、彼女、俺がいつまでもぐずぐずしていたから他の男を作ってそいつと結婚しちゃったんです」

「あらら……」


 わりと悲劇的な男なのね。というかこれも作り話の一種なのかしら。


「でもね、しょうがないんです。俺は歳取らないし、彼女はどんどんと歳おいていく。それが彼女には耐えられなかったみたいですね」


 やっぱり本当に変な男だ。


「だから、最期の最期まで俺は彼女を見守ってすごしました。彼女は結婚して子供をつくり、その子供が大きくなって、また子供をつくり。彼女の分身がたくさん生まれた。そして彼女の最期のときに、彼女は俺に頼み事をしました。そして俺はそれを受け入れた」


 男はブラックコーヒーを一口飲んだ。


「「私の子供や孫たちを見守って」って、彼女はそう言いました」


 男が私の方に真剣な顔を向ける。


「だから死んではダメです」


 ざっと冷たい風が吹く。カバンの中に入った買ったばかりのカミソリが、存在感を増す。


「ね? 今、貴方の魂は刈られるときじゃない。そのときになったら、俺が刈ってあげます」


 ――君のおばあさんのように


 そう言葉が聞こえたところで、私ははっと白昼夢から解放された。




 時刻を確かめる。夕方の五時。二月の五時は、多少陽が伸びて真っ暗ではない。

 薄闇に飲まれつつある児童公園で、私は我に返った。


 とたん、目に涙が盛り上がってくる。

 ぼたぼたと落ちるそれは、心の中の嫌な想いを洗い流してくれるようだった。


 おばあちゃん、貴女はいったい、結婚前に何と付き合ってたんだよ。

 そんなつっこみを入れつつ、今まで見ていた男を思い出そうとしたが、どうしても顔が思い出せなかった。

 私と同じ歳くらいの変な男、という認識しか、私の中にはなかった。

 そして、男が座っていたベンチには、缶の微糖コーヒーが置かれていた。


 本当に不思議な体験だった。




 それから、私は仕事を変えてみた。

 失恋した上司と縁を切って、理不尽なパワーハラスメントとも縁を切った。

 そして新しい職場で新しい人間関係の中に埋もれ、しゃかりきに働いている。

 

 今、私はわりと幸せなのではないかと思う。


 おわり

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